高岡市吉久

―高岡市吉久―
たかおかしよしひさ

富山県高岡市
重要伝統的建造物群保存地区 2021年選定 約4.1ヘクタール


 富山県の北西部、江戸時代より射水・砺波平野における物資の集散地として栄えた高岡市。その中心市街地から北東の小矢部川(おやべがわ)と庄川(しょうがわ)に挟まれた河口部に位置する吉久は、加賀藩の年貢米を集積した「御蔵(おくら)」を中核として発展した在郷町である。高岡から富山湾の湊町である放生津(ほうじょうづ)まで通る放生津往来に沿って、江戸時代後期から昭和30年代に築かれた当地域ならではの特徴を見せる町家が建ち並んでおり、小矢部川の河口に栄えた在郷町の歴史風致を良好に残していることから、放生津往来沿いの吉久新村を中心とする東西約430メートル、南北約330メートルの範囲が重要伝統的建造物群保存地区に選定された。




かつて御蔵が並んでいた跡地には、現在は西照寺が境内を構える

 加賀藩第二代藩主である前田利長は、慶長14年(1609年)に隠居城として高岡城を築き、その周囲に武家地と町人地を置いて城下町を開いた。元和元年(1615年)の一国一城令によって高岡城は廃城となったものの、第三代藩主の前田利常が高岡での商業を振興したことによって以降も商業都市として栄えていった。加賀藩の年貢米は、当初は小矢部川の河口左岸に位置する伏木に集められていたものの、慶安年間(1648〜1652年)以降は交通の便が良い河川沿いや街道沿いに設置された御蔵に一時集積されるようになった。吉久御蔵は伏木へ送る最後の集積地として小矢部川と庄川が合流する右岸に置かれ、それにともない承応4年(1655年)に周囲から百姓を集めて吉久新村が形成された。




緩やかに湾曲する放生津往来沿いに町家が並ぶ

 吉久御蔵はやがて年貢米の備蓄や検量機能も兼ねるようになり、江戸時代後期には周辺地域における最大の集積拠点となる。吉久新町には御蔵に勤める役人と共に、農業を営みつつ御蔵の業務を兼ねる人々が住居し、賑わいを見せていた。明治時代に入ると御蔵は廃止されたものの、米の統制が外されたことにより有力村民が米商と呼ばれる米穀商や倉庫業などの流通業を始め、吉久は引き続き栄えていった。明治33年(1900年)には庄川の流路が小矢部川から分離されて吉久の東側へと付け替えられ、また大正7年(1918年)には中越鉄道の開通により吉久駅が設置され周囲の開発が進んだものの、放生津往来沿いの町割には大きな変化はなく、現在も江戸時代に形成された地割が良く残っている。




かつて米商を営んでいた丸谷家住宅(旧津野家住宅)
丸谷家を含む3軒の米商住宅が国の有形文化財に登録されている

 各家の間口は三間から五間であり、奥行きの深い短冊形が基本であるが、地区の南半には"くの字”型に折れ曲がった敷地が多く、場所によって規模や形状が不均等であるなど段階的な発展の痕跡が見られる。通りに面して主屋を間口いっぱいに建て、緩やかに湾曲する往来に沿って雁行した町並みとなっている。主屋は切妻造の平入であり、戦前までは建ちの低い厨子二階建、戦後は建ちの高い総二階建てとなる。現在はいずれも桟瓦葺であるが、かつては板葺の石置屋根であった。間口の広いものは主屋の脇に塀を建て、別棟を附属する家もある。主屋の背後には廊下状の下屋や中庭を介して土蔵を建て、敷地の裏手にはかつては田畑が広がっていた。




二階がアマである家には窓がなく、閉鎖的な雰囲気なのが久吉の町家の特徴だ

 主屋の平面は、間口が狭いものはゲンカンとそれに続く板敷の廊下を奥まで通し、それに沿って三室を一列に並べている。間口が広いものは廊下を設けずに二列六室とすることが多い。後者の場合、下手はゲンカンを土間とし、床上部のオイ、イマを並べ、上手は表からミセ、ブツマ、ザシキを配す。特に米商の家は客を招く接待の場であったため、ブツマとザシキは二部屋続きの数寄屋造で立派に設えられている。二階の表側はアマと呼ばれる稲藁を収納するための物置であり、ゲンカンの上部にはアマに稲藁を上げるための開口部が存在する。また秋になるとミセの床板を上げ、ゲンカンと一続きにして脱穀の作業をする家もあるなど、主屋は農作業の空間としても活用されていた。




吉久では所々に小さな祠を目にすることができる

 一階の正面は厚板葺の腕木庇を付け、床上部には出格子を嵌めている。戸口は引違戸であるが、かつては開戸や引戸の大戸を開けていた。二階は柱と貫を見せる真壁造であり、その上部に長押を打つ。二階をアマとする場合は窓を設けず、閉鎖的で独特な構えを見せている。大正後期以降は二階の表側も居室にするようになったことから二階部分を半間手前に張り出す「せがい造」とし、連窓のガラス窓を開くようになった。なお、主屋の背後に位置する土蔵は道具蔵である。一般的な商家には商品を土蔵へ運ぶための通路であるトオリニワを通しているが、久吉の主屋には存在しない。久吉の主屋は外観こそ町家の形式であるものの、その実態は農家としての生活に根付いた特徴を備えている。

2014年05月訪問




【アクセス】

万葉線高岡軌道線「吉久駅」から徒歩で約1分。

【拝観情報】

町並み散策自由(ただし、住民の迷惑にならないように)。

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【参考文献】

・「月刊文化財」令和3年1月(687号)
能松家住宅主屋|国指定文化財等データベース
有藤家住宅|国指定文化財等データベース
丸谷家住宅(旧津野家住宅)主屋|国指定文化財等データベース