廿日市市宮島町

―廿日市市宮島町―
はつかいちしみやじまちょう

広島県廿日市市
重要伝統的建造物群保存地区 2021年選定 約16.8ヘクタール


 広島県南西部の広島湾に浮かぶ厳島は、古くより航海安全を祈願する神として崇敬を集めてきた厳島神社が鎮座することから宮島とも称されてきた。険しい地形の島ながら、朱塗りの社殿が築かれている入江の周囲には海岸線に沿ってわずかな平地が開けており、厳島神社の発展と共に形成された門前町が広がっている。そこには戦国期に由来しつつ江戸時代後期までに成立した地割が良く維持されており、また江戸時代から昭和前期にかけて築かれた伝統的な町家や和風建築が数多く残っていることから、後世の埋め立てによって拡張された部分を除く、江戸時代に由来する門前町のほぼ全域が国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。




厳島神社の西隣に境内を構える大願寺の山門(右)
厳島神社の宝物殿(国登録有形文化財)や多宝塔(重要文化財)も見える

 厳島の最高峰である弥山(みせん、標高約535メートル)の山頂付近には白い花崗岩が無数に露出しており、厳島における祭祀の起源はこれらの巨石群を磐座(いわくら)として祀る山岳信仰から始まったと考えられる。弥山を御神体とする厳島神社の創建は推古天皇元年(593年)と伝わっており、平安時代末期の仁安3年(1168年)には平清盛(たいらのきよもり)の寄進によって寝殿造の社殿が造営された。当初は島全体を神域としていたため社殿は陸上ではなく海上に建てられており、島内に住む者はおらず、神職も海を渡って祭祀を行っていたという。やがて島内にも神事や仏事に関する建物が築かれるようになり、14世紀以降に参詣者が増加すると次第に定住化が進んでいった。




厳島神社から大聖院へと通じる滝町の路地
林家住宅(重要文化財)など、立派な石垣を備えた社家の屋敷が並ぶ

 厳島神社の門前町は、五重塔がそびえる「塔之岡」を境に「西町」と「東町」に分けることができる。そのうち「西町」が成立したのは戦国期の頃であり、塔之岡の南西側に厳島神社の別当寺であり法会を取り仕切っていた「大聖院」と、勧進や造営を担っていた「大願寺」が境内を構え、これら二つの寺院の門前町として町並みが形成された。山腹に立地する大聖院から海岸にかけて伸びるV字状の路地を中心とし、そのうち東側の滝町には代々神官を務めていた棚守(たなもり)氏など社家の屋敷や僧房が連なっていた。一方で、塔之岡の北東側に位置する「有之浦」においても山麓に寺院が建てられ、その門前に小集落が築かれるなど、徐々に町場が形成されていった。




塔之岡から「東町」を一望する
緩やかに湾曲する路地に沿って、屋根の高さが揃った町家が連なる

 「東町」は江戸時代初頭頃までに成立したと考えられている。有之浦の沿岸部を埋め立てて土地を造成し、海岸線に沿って弓なりの路地を通して町割が行なわれた。寛永2年(1625年)には東町の北東部に広島城下から遊郭を移設して「新町」が開かれ、寛永12年(1635年)には塔之岡の東側に門前町を治めるための奉行屋敷が置かれている。厳島詣の流行によって参詣者が増加したこともあり、新町では元禄期(1688〜1704年)頃までに広島藩公認の富くじや芝居の興行が行なわれるなど、歓楽街としての性格を強めていった。以降、江戸時代を通じて「西町」は宗教機能を集約した聖の区域、「東町」は港町および商業地である俗の区域として、機能が明確に分かれていた。




格子が印象的な東町の町家越しに見る塔之岡の五重塔

 明治時代に入ると神仏分離令の廃仏毀釈によって多くの寺院が廃寺となるなど、厳島の社寺は荒廃した。かつて宮千軒と称された厳島の屋敷群は500軒ほどにまで減少し、門前町は衰退の危機に瀕した。しかしながら、明治時代中期以降には観光業が発達し、土産用の宮島細工の生産や販売も盛んとなった。廃寺や屋敷の跡地には旅館や別荘が築かれるようになり、また紅葉谷などでは新たに旅館群の開発が進められるなど、厳島神社の門前町は観光業を基盤とする宮島町として栄えていった。昭和4年(1929年)以降の道路整備によって東町沿岸部の景観は変容したものの、旧来からの門前町の骨格は大きく変わることなく江戸時代後期の地割を今に残している。




紅葉谷の入口にある近代の旅館建築
明治以降も門前町として栄えた宮島町の歴史を物語っている

 宮島町の町家は間口が二間半前後と狭いものが多く、奥行きは十三間から十五間の短冊形が一般的であるが、西町では場所によって規模が異なり、また東町の湾曲する路地沿いでは台形の敷地となる。通りに面して間口いっぱいに主屋を建て、その背面に中庭を経て離れや土蔵を建てている。間口が広い家では主屋の脇に塀を設け、庭を配した屋敷型のところもある。主屋は切妻造の平入であり、屋根の勾配は緩く、かつては板葺であったが幕末までに桟瓦葺が普及した。幕末以降は二階を居室として利用することから建ちが高くなり、大正以降は総二階建となる。また町家以外にも江戸時代の寺社建築や、明治以降の旅館建築も点在しており、門前町として栄え続けてきた宮島町の歴史を伝えている。

2009年02月訪問




【アクセス】

JR山陽本線「宮島口駅」から「宮島口桟橋」まで徒歩約5分、または「広電宮島口駅」から「宮島口桟橋」まですぐ。「宮島口桟橋」から「宮島桟橋」まで連絡船で約10分、「宮島桟橋」から東町まで徒歩約5分。

【拝観情報】

町並み散策自由(ただし、住民の迷惑にならないように)。

【関連記事】

厳島(特別史跡、特別名勝)
厳島神社社殿(国宝建造物)

【参考文献】

・「月刊文化財」令和3年8月(695号)
廿日市市宮島町伝統的建造物群保存地区保存活用計画