厳島

―厳島―
いつくしま

広島県廿日市市
特別史跡 1951年指定
特別名勝 1951年指定


 瀬戸内海は広島湾の北西部、陸地に程近いその場所に位置する厳島は、古代より人々に信仰されてきた神の島である。宮島とも呼ばれるその島は、特に崇拝の対象である弥山を中心として、厳島神社をはじめとする社寺が数多く立ち並んでいる。厳島の優れた宗教景観は、天橋立や松島と共に日本三景の一つに数えられ、人々に親しまれてきた。その聖地としての性質、および明媚な景観を見せる島として、厳島全体が国の特別史跡および特別名勝に指定され、また瀬戸内海国立公園の範囲内ともなっている。




厳島神社東部、浜通りから見る千畳閣および五重塔

 厳島に社殿が建てられたのは飛鳥時代の593年のことだ。地元豪族によって作られたその社は、厳島神社として発展していく。平安時代の仁安3年(1168年)には、平清盛の援助を得て寝殿造りの海上社殿が築かれ、厳島神社は今のような光景となった。平家が力を増すにつれ、厳島神社もまた広く知られるようになり、京都から皇族や貴族が訪れるようになると、同時に華麗なる平安文化が厳島にももたらされ、それは神社内部に取り込まれていった。厳島神社には今もなお、平家納経など平家に関する数多くの宝物が残されている。




厳島神社西部、宝物館(左)と大願寺山門(右)、および多宝塔(奥)

 平家が滅亡してからも、厳島神社は源氏などその時々の権力者の庇護を受けて存続し、神性を保っていった。しかし厳島も順風満帆な時代ばかりではなく、情勢が乱れに乱れた戦国時代には、厳島神社を保護する人物が誰もいなくなり衰退してしまう。そんな社勢の衰えた厳島を立て直したのは、安芸の戦国大名、毛利元就であった。元就は厳島を舞台にした合戦、いわゆる「厳島の戦い」で陶隆房(すえたかふさ)に勝利し、厳島を統治下に置いて痛んだ社殿の修復をするなど、厳島神社を支えていった。




厳島神社から大聖院へ伸びる滝町通り
神職の人々が住まうこの通りは、厳島の戦いで激戦地と化した

「厳島の戦い」の成り行きはこうである。天文20年(1551年)、中国地方西部と九州北部を治めていた大内義隆は、重臣である陶隆房の謀反により自害に追い込まれる。毛利元就は陶を厳島に誘い出して討つべく、弘治元年(1555年)、厳島の宮尾(現在の桟橋付近)に宮尾城を築き、家臣である桂元澄(かつらもとずみ)をここに配した。これに対し、隆房は元就の兵の5倍もの船団を率いて厳島に上陸、宮尾城を取り囲む。しかし密かに鼓ヶ浦に上陸していた元就は、同じく有ノ浦に上陸した小早川隆景と共に奇襲攻撃を仕掛け、陶軍を壊滅させたのだった。




大聖院(左下)の裏手から厳島神社方面を見る

 神仏習合の島であった厳島には、神社のみならず仏教寺院も多く存在する。特に大聖院は厳島最古の寺院であり、明治の神仏分離まで厳島神社に付属する寺、すなわち別当寺として厳島神社の祭祀に携わってきた。伽藍は山麓の堂宇だけでなく、弥山山頂付近の弥山本坊、奥の院にまで至り、かつては厳島内における寺社の僧侶を統括する存在であった。また、厳島神社西隣にある大願寺も、厳島神社と関係の強い寺院である。こちらは厳島神社の普請奉行として、社殿の修理や造営などに携わっていた。




厳島内陸部の山岳風景

 厳島は標高535mの弥山に加え、駒ヶ林、岩舟山の三つの山塊から成る。これらの山は瀬戸内においてひときわ高く、その山頂付近では濃い緑に露出した白い花崗岩が良く映えた、不思議な光景を作り出している。また弥山北側は古くより斧を入れることなく保護されている原生林であり、その一帯は国の天然記念物にも指定されている。これらの厳島の植生は極めて特異であり、低海抜地域には生えないモミが海岸付近にまで分布する場所もある。他にも蛍の舞う白糸の滝や紅葉の美しい谷など、厳島は自然美に溢れている。

2009年02月訪問




【アクセス】

JR山陽本線「宮島口駅」から「宮島口桟橋」まで徒歩約5分、または「広電宮島口駅」から「宮島口桟橋」まですぐ、「宮島口桟橋」から「宮島桟橋」まで連絡船で約10分。

【拝観情報】

島内自由。
厳島神社は拝観料300円、拝観時間6:30〜18:00(冬季は6:30〜17:00)。

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