長良川中流域における岐阜の文化的景観

―長良川中流域における岐阜の文化的景観―
ながらがわちゅうりゅういきにおけるぎふのぶんかてきけいかん

岐阜県岐阜市
重要文化的景観 2014年選定


 濃尾平野の北端、滔々と流れる長良川の傍らにそびえる金華山。岐阜のシンボルとして地元の人々に親しまれているこの山は、戦国時代に織田信長が岐阜城を整備し、天下統一の足掛かりとしたことでも知られている。関ヶ原の戦い後に岐阜城は廃城となったものの、その西側に広がる岐阜町(現在の金華山地域)は旧城下町の町割りをほぼそのまま踏襲し、江戸時代から昭和初期にかけて長良川の水運による商家町として大いに発展した。また長良川では古くから鵜飼が盛んであり、今もなおその伝統的な漁法を継承する鵜匠も住まう。このように、岐阜ではかつての城下町を基盤としながら、長良川と共に生きてきた人々の生業や生活に関する伝統的な景観を今に見ることができる。




金華山の山麓に残る織田信長居館跡
石垣に巨石を用いるのは戦国時代では稀であり、近世城郭の嚆矢といえる

 金華山は明治に入るまで稲葉山と呼ばれ、中世の頃には伊奈波(いなば)神社の社地として信仰を集めていた。戦国時代に入ると斎藤道三が伊奈波神社を稲葉山から稲荷山に移し、稲葉山の山頂にまで及ぶ稲葉山城を築き上げる。そして永禄10年(1567年)、斎藤家の重鎮であった西美濃三人衆の内応により、織田信長が稲葉山城へ侵攻してこれを攻め落とす。拠点を小牧山城からこの地に移した信長は、周の文王が「岐山」で天下統一を成した古代中国の故事にちなんで町と城の名を「岐阜」と改め、本格的な天下統一に乗り出した。その後、岐阜城は徳川家康の命によって慶長6年(1601年)に廃城となるものの、現在も金華山には数多くの遺構が現存し、国の史跡に指定されている。




旧岐阜城下町の一帯には、伝統的な町家が散在する

 岐阜城の城下町は、町全体が濠と土塁によって取り囲まれた、いわゆる総構えで築かれた。特に長良川沿いの土塁は洪水から町を守る堤防としての機能も持ち、土地の安定性をもたらした。岐阜城の廃城後も、岐阜の町は旧城下町の町割りを維持しつつ、長良川の水運と街道の結節点という地の利を活かし、物資の集散地として繁栄を続けていく。町の通りには酒屋、米屋、材木屋などの商家が並び、裏通りには振り売りや職人などの住居が住んでいた。町家の敷地は間口の狭い「うなぎの寝床」状であり、路地に面して主屋を建て、敷地の奥に土蔵を配すのが一般的である。土蔵には生活用品の他、商家では品物の保管庫でもあり、品物の運搬がしやすいように土間が広く取られている。




格子が印象的な町家が建ち並ぶ川原町
岐阜では年に数回格子を洗う習慣があり、「白木格子の町並み」と称される

 水運の拠点であった中河原湊に近い川原町では、材木や和紙、糸などを扱う問屋、および和紙と竹を材料とする提灯や傘、団扇などを生産する手工業の町家が軒を連ねていた。明治24年(1891年)には濃尾地震が発生し、岐阜の町は火災により壊滅的な被害を受けたものの、幸いにも川原町は火の手を逃れたことから、今もなお江戸時代から明治にかけての町家が現存する。また川原町以外の地域も、町の形態をほとんど変えることなく復興したという。明治43年(1910年)には、金華山の山頂に復興天守が木造で建てられ(昭和18年に焼失、現在のものは昭和31年に鉄筋コンクリートで建てられた)、それ以降、岐阜町の人々は天守が見える位置に座敷や茶室を設えるようになったという。




岐阜大仏を安置する正法寺本堂

 旧岐阜城下町には神社や寺院も多く、その数は大小合わせて50にも上る。斎藤道三が稲葉山城を築く際に稲荷山に移した伊奈波神社は岐阜の総氏神として特に崇敬を受け、かつてはその門前で歌舞伎や相撲、見世物などが催され、大いに賑わっていたという。また金華山の西麓に位置する正法寺には高さ13.6メートルの釈迦如来坐像が鎮座しており、岐阜大仏として知られている。この大仏は天保3年(1832年)に完成したとされ、竹で編んだ外部に粘度と経典を張り、漆を塗って金箔を貼るという珍しい技法を用いて作成されたことから「籠大仏」とも呼ばれている。大仏を安置する本堂は文政12年(1829年)頃に建てられ、明治10年(1877年)に現在の姿に改装された。




鵜飼屋地区の石垣と鵜匠の家

 長良川における鵜飼の歴史は古く、大宝2年(702年)の戸籍や承平年間(931〜938年)に編纂された「倭名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)」にもその記述が見られる。室町時代には既に美濃の名物となり、より具体的な記述のある旅行記も今に残る。戦国時代には織田信長や豊臣秀吉によって「鵜匠」の称号が授けられるなど、鵜飼は時の権力者によって保護されていった。長良川の右岸に位置する鵜飼屋地区には、現在も専業で鵜飼を営む「鵜匠」の家が6軒存在する。その敷地には鵜を飼うための「鳥屋」や「水場」、篝火の薪を保管する「松小屋」など独自の設備が備わる。また鵜匠の家からは「せこ道」と呼ばれる細道が通り、鵜舟の繋留場へ出られるようになっている。

2009年07月訪問
2014年05月再訪問




【アクセス】

JR東海道本線「岐阜駅」または名古屋鉄道「名鉄岐阜駅」より岐阜バス「岐阜公園・高富方面行き」または「市内ループ左回り」で約15分、「岐阜公園・歴史博物館前バス停」下車すぐ。

【拝観情報】

散策自由(ただし、住民の迷惑にならないように)。

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