最上川の流通・往来及び左沢町場の景観

―最上川の流通・往来及び左沢町場の景観―
もがみがわのりゅうつう・おうらいおよびあてらざわまちばのけいかん

山形県西村山郡大江町
重要文化的景観 2013年選定


 山形県と福島県の境にあたる西吾妻山に端を発し、山形県を北上して酒田から日本海へと注ぐ最上川。その中流域、川の流れが大きく蛇行する左岸に左沢(あてらざわ)の町場が広がっている。左沢の歴史は中世に楯山城が築かれたことに始まり、近世には山村で採れる青苧(あおそ、強靭な繊維が取れる)などの産物が集散する舟運の拠点として賑わった。左沢には今もなお、道路の拡張はありながらも昔ながらの町割が継承されており、城下町および河岸集落としての名残を随所に目にすることができることから、左沢の町場、および左沢楯山城が置かれていた楯山、大江町内の最上川全域を含めた計255.9ヘクタールの範囲が国の重要文化的景観に選定されている。




昭和15年(1940年)建造の旧最上橋越しに、左沢楯山城を望む
かつてはこの左岸が最上川舟運の船着き場であった

 南北朝時代、左沢を含む寒河江(さがえ)荘は南朝方の大江氏(寒河江氏)が支配していた。延文4年/正平14年(1359年)、北朝方として山形に入った斯波兼頼(しばかねより、最上氏の祖)によって大江元政(おおえのもとまさ)が討たれると、その跡を継いだ大江時茂(おおえのときしげ)は荘内各地に城を築き守りを固めた。最上川を臨む交通の要衝であった左沢にも城が築かれ、時茂の次男である大江元時(おおえのもととき)が城主となる。しかし応安元年/正平23年(1368年)に起きた漆川の戦いで大江氏は斯波氏に敗れ、元時を含む一族60人以上が自害してしまう。元時の子孫は左沢氏として存続したものの、天正12年(1584年)の最上義光(もがみよしみつ)の侵攻により寒河江氏と共に滅亡した。




原町通りに残る規模の大きな商家建築

 関ヶ原の戦いの際、最上義光は東軍として越後の上杉景勝と戦い、その褒賞として山形県の大部分を治める57万石の大大名となった。しかし元和8年(1622年)のお家騒動によりわずか三代で改易されてしまう。その領土は山形藩、新庄藩、庄内藩、上山藩に分割され、それぞれ譜代大名が入封した。そのうち庄内藩には酒井忠勝(さかいただかつ)が入り、同時に忠勝の弟である酒井直次(さかいなおつぐ)が左沢に入って左沢藩が成立する。直次は漆川(月布川)と小漆川(市の沢川)に囲まれた河岸丘陵上に小漆川城を築き、城下町を整備した。また寛永4年(1627年)には、左沢楯山城の寺屋敷に由来を持つ巨海院を小漆川城の北西に移し、境内の西と南に土塁を設けて支城としての機能を持たせた。




クランク状に折れ曲がる天神前の通り

 城下町は街道に沿って築かれ、「内町」「横町」「原町」の通りには現在も短冊状の町割が継承されている。また「天神前」の通りはクランク状に折れ曲がる枡形が設けられているが、これは見通しを利きにくくすると共に敵の直進を防ぐ目的の防衛遺構である。直次は跡継ぎに恵まれなかったことから左沢藩は一代で途絶え、以降は出羽松山藩の飛び地として町場の南東に代官所が置かれていた。代官所跡の西側、現在の八幡神社は代官所の米蔵跡であり、代官所と米蔵を繋ぐ「代官小路」と「袋町」は武士が住む武家町であった。なお、この八幡神社は元々左沢楯山城内に鎮座していたもので、城下町を築くにあたり前田(現在の左沢駅前)に移し、明治16年(1883年)に現在地へ移転されたという。




米沢舟屋敷跡(左側)と桜町渡船場跡(右側)

 原町通りから最上川へ降りる通りは、山形へと通じる「山形道」である。その街道沿いには舟運に関わる人々が住まい、川岸には桜町渡船場が設けられ人々を対岸へと運んでいた。またその袂には米沢藩の舟屋敷が構えられていた。元来、左沢から米沢に至る五百川(いもがわ)峡谷には難所が多く、舟の運行が難しかった。米沢藩の御用商人であった西村久左衛門(にしむらきゅうざえもん)は最上川の開削を米沢藩に申し出たものの、財政難を理由に断られてしまう。結局、久左衛門は独力で最上川の河川整備を行い、米沢までの舟運を開くことに成功、米沢藩の経済や文化の発展に貢献した。大江町内の範囲においても、深沢地区や富沢地区、用地区などに久左衛門が開削した舟道の跡が残るという。




頂上に弁財堂(現在は厳島神社)を祀る断崖絶壁「明神ハゲ」

 巨海院の金毘羅堂や大瀧山不動尊の波切不動堂など、左沢や最上川沿いの周辺地域には金毘羅権現や不動明王を祀る寺社が数多い。金毘羅権現は海上交通の守護神であり、不動明王は金毘羅権現の本地仏であることから、舟運に携わる人々に信仰されてきた。金毘羅信仰を表す「象頭山」の文字が刻まれた石碑も残る。また用地区に存在する高さ150メートルの断崖絶壁「明神ハゲ」は、江戸時代より最上川の名所として著名であった。その頂上には弁財堂(明治時代の神仏分離令により厳島神社に転向)が祀られており、こちらもまた舟人たちの崇敬を集めていたという。弁財天は市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)の本地仏であり、金毘羅権現と同じく舟運の安全を司る存在なのだ。

2015年10月訪問




【アクセス】

JR左沢線「左沢駅」下車すぐ。

【拝観情報】

散策自由(ただし、住民の迷惑にならないように)。

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