佐渡相川の鉱山及び鉱山町の文化的景観

―佐渡相川の鉱山及び鉱山町の文化的景観―
さどあいかわのこうざんおよびこうざんまちのぶんかてきけいかん

新潟県佐渡市
重要文化的景観 2015年選定


 中世の頃より金や銀の島として知られてきた佐渡島。その西部に位置する相川鉱山は、佐渡最大の産出量を誇った金銀山である。江戸時代の初頭に鉱脈が発見されて以降、近世から現代に至るまで金銀の採掘が行われてきた。そこには今もなお、江戸時代に掘られた坑道や露頭掘りの跡、明治時代以降に築かれた竪坑や施設群が現存しており、各時代における鉱業の様相を今に伝えている。一方、麓に位置する相川は、鉱山と共に発展してきた鉱山町である。通りに沿って並ぶ家々は近世由来の町割を継承しており、また町外れには鉱石を選別していた北沢浮遊選鉱場、生産品の搬出に利用されていた大間港といった近世の鉱業施設の跡が残り、鉱山町ならではの独特な景観を作り出している。




昭和初期に築かれた工業施設群
背後には江戸時代の露頭掘り跡である「道遊の割戸」が見える

 相川金銀山の歴史は慶長6年(1601年)、隣接する鶴子銀山の山師によって鉱脈が発見されたことに始まる。その直前に佐渡島を天領(幕府の直轄地)としていた徳川家康は、慶長8年(1603年)に石見銀山を任せていた大久保長安(おおくぼながやす)を佐渡代官に任命し(のちに佐渡奉行となる)、鉱山の開発にあたらせた。長安は鉱山に携わる人々が住まう鉱山町をはじめ、鉱山までの幹線道路、物資を搬入出する港湾などを整備し、相川はたちまち日本有数の鉱山町として発展した。石見銀山などで培った採掘法・精錬法を用いて産出された金銀は1610〜1630年代にピークを迎え、年間に一万貫(37.5トン)もの銀を納め、幕府の財政を強固に支えていた。




昭和12年(1937年)に築かれた北沢浮遊選鉱場跡

 江戸時代中期以降は新たな鉱脈の発見がなく産出量が激減したものの、明治時代に入ると海外からの技術により近代化を果たし、採掘量が大幅に増加した。明治8年(1875年)に開削された大立(おおだて)竪坑は、日本初の西洋式立坑である。深さ165メートルの垂直坑道には、49.5メートルごとに水平坑道が切られており、相川鉱山の中心的な坑道として活躍した。相川鉱山は明治29年(1896年)に三菱へと払い下げられ、また昭和13年(1938年)には重要鉱物増産法に基づいた鉱山施設の再整備が行われており、今に残る鉱山施設群のはこの時に築かれたものである。採掘は戦後も続いたが、採算が取れなくなったことにより平成元年(1989年)に中止となった。




緩やかに傾斜する道沿いに家々が建ち並ぶ上町の町並み

 相川の鉱山町は、台地の尾根伝いに築かれた上町と、台地下の海岸線沿いに築かれた下町から成る。海を見下ろす台地の端には奉行所が構えられ、金銀山の経営を管轄する山奉行と、佐渡の民政を管轄する町奉行が置かれていた。上町は奉行所から相川鉱山へと通じるかつての幹線道路上に位置しており、奉行所に近い京町には鉱山長や技師など上層部の家々が並び、鉱山寄りの大工町には鉱夫が住んでいたなど、職業別に住居区が分けられていた。上町の入口には、かつて町人たちに時刻を伝えていた時鐘楼が設けられている。この一角の風景は、明治18(1885年)に築かれた旧裁判所の煉瓦塀や、平成12年(2000年)に再建された奉行所などと共に、相川の町の象徴ともなっている。




昭和6年(1931年)に建てられた旧相川税務署と長坂

 下町の町立ては上町より僅かに遅く、17世紀前半に海岸を埋め立てて築かれた。上町と下町は長坂や西坂などの石段で繋がれており、坂道の多い独特の町並み景観を作り出している。下町は主に商業都市としての機能を持ち、最盛期には5万人もの人口があったとされる相川の生活を支えていた。約2キロメートルにも渡って連なる下町は、上町と同じく業種別に分けられており、現在も塩屋町や材木町、炭屋町などといった地名が残されている。18世紀になり金銀の産出量が減ると、商人の中には廻船業で財産を築く者が現れ、下町には地割の大きな廻船問屋が現れるようになった。下町は現在も相川の経済の中心として機能する一方、昔ながらの町家や商家も多く残っている。




上寺町に位置する「無宿人の墓」

 下町から川沿いに入った山の中腹には、寺院が密集する寺町が存在する。その入口にたたずむ大安寺は、大久保長安が慶長11年(1606年)に創建した浄土宗の寺院だ。境内には長安が死後の冥福を祈願して慶長16年(1611年)に築いた逆修塔、および慶長13年(1608)に築かれた河村彦左衛門(佐渡代官のひとり)の供養塔などが残されている。またさらに山に入った上寺町には「無宿人の墓」が存在する。江戸時代、江戸や大坂などの都市には今でいう戸籍を持たない無宿人が多く、幕府は治安維持の名目でそれらの無宿人を徴用し、相川鉱山の湧水を汲み上げる水替人足として利用した。嘉永6年(1853年)に建てられたこの墓は、坑内で死亡したそれらの無宿人を弔う為のものである。

2014年05月訪問
2015年05月再訪問




【アクセス】

両津港より新潟交通佐渡バス「本線」で約70分、「佐渡市相川支所バス停」下車すぐ。

【拝観情報】

散策自由(ただし、住民の迷惑にならないように)。

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