生野鉱山及び鉱山町の文化的景観

―生野鉱山及び鉱山町の文化的景観―
いくのこうざんおよびこうざんまちのぶんかてきけいかん

兵庫県朝来市
重要文化的景観 2014年選定


 兵庫県の中央部、播磨国と但馬国の境に位置する生野。そこは戦国時代から江戸時代にかけて銀の採掘で隆盛を誇り、また明治以降も鉱業近代化の嚆矢として発展した日本有数の鉱山町である。400年以上に渡り鉱業が営まれ続けてきた生野には、鉱山の開発とそれに伴う鉱山町の形成によって鉱業の町らしい特有の景観が広がっていることから、生野鉱山の玄関口であり中心市街地でもある「口銀谷(くちがなや)」地区、鉱業近代化の拠点であり現在も鉱業生産が行われている「太盛(たせい)」地区、江戸時代の鉱山町である「奥銀谷(おくがなや)」地区、鉱石の採掘地であった「金香瀬(かなかぜ)」地区の一帯約963.4ヘクタールの範囲が国の重要文化的景観に選定されている。




金香瀬山に残る、高品質の銀を産出した「慶寿ひ」の露天掘り跡

 生野の周囲にはマグマで熱せられた様々な鉱物を含む熱水が断層や岩石の割れ目で結晶化して形成された熱水鉱床が発達しており、その採掘の歴史は古く平安時代初期の大同2年(807年)にまで遡るという。史料上では江戸時代中期の元禄3年(1690年)に寺田豊章(てらだとよあき)が著した『銀山旧記』が初出であり、戦国時代の天正11年(1542年)に城山の南で銀鉱脈「蛇間歩(じゃまぶ)」が発見され、但馬国の守護であった山名祐豊(やまなすけとよ)により本格的な鉱山運営が開始されたという。永禄10年(1567年)には大量の銀行石を含む鉱脈「慶寿ひ」が見つかっており、『銀山旧記』には「銀の出ること土砂のごとし」とその様子が記されている。




江戸時代に鉱山町として栄えた「奥銀谷」地区の町並み
市川の河床には当時の選鉱施設「淘り池(ゆりいけ)」も現存する

 生野では石見銀山の技術者によって導入された「灰吹法(はいぶきほう)」など、当時における最先端の技術をもって銀の採掘や精錬が行われていた。山名氏が織田信長に滅ぼされると、その後は時の権力者の直轄地となった。江戸時代には石見銀山や佐渡金山と共に重要な財源として幕府を支えており、中でも1620年代には銀山としての最盛期を迎え、ひと月に約150貫(560キログラム)の銀を産出していたという。口銀谷や奥銀谷には灰吹小屋が建ち並び、生野の人口は二万人を超えていた。しかし慶安年間(1648〜1652年)頃には銀の産出量が減少し、当初置かれていた奉行所は享保元年(1716年)に代官所へと改められている。以降は銀に代わり、銅や錫を産出するようになった。




口銀谷地区の東端に位置する「旧生野銀山職員宿舎」
明治9年(1876年)に建てられた現存最古の社宅が残る

 明治維新を迎えた明治元年(1868年)に生野鉱山は日本初の官営鉱山となり、お雇い外国人としてフランス人技師ジャン・フランソワ・コアニエを招いて鉱山の近代化を図った。明治政府は生野鉱山を模範鉱山・精錬所とすべく、太盛地区の集落を代官所跡に移転させて煉瓦造の工場群を建設。鉱山学校を開設して技術者の育成を進め、また動力用水路や堰堤、輸送用の馬車道などのインフラを整備し、近代の鉱山町が形成された。明治28年(1895年)には播但鉄道(現在のJR播但線)が開通し、輸送手段が馬車から鉄道へと変化する。その後の明治29年(1896年)には生野鉱山は三菱合資会社へと払い下げられ、社宅群や病院、劇場などの福利厚生施設も建設された。




市川にせり出すようにアーチ状の石積で築かれた「トロッコ軌道跡」
その膨大な石材は代官所が置かれていた生野城の石垣を転用したという

 大正9年(1920年)になると鉱山から生野駅までトロッコ軌道が敷設され、小型の電気機関車がトロッコを牽引して走っていた。昭和初期には鉱滓を処理・堆積するための鉱滓ダムとして谷間を埋めた九宝ダム・大仙ダムが築かれている。採掘は第二次世界大戦後も続けられ、坑道の総延長は350キロメートル以上、深さ880メートルにまで及んだが、産出される鉱石の品質低下や坑道の老朽化、山ハネなど事故の危険性が高まったことなどから昭和48年(1973年)に閉山。現在は鉱山で培われた精錬技術を活用し、海外から輸入した錫の地金を精錬したり、電子機器などのいわゆる都市鉱山から貴金属やレアメタルを回収するリサイクルなど、現在も鉱業生産が続けられている。




太盛地区の道路擁壁に用いられている「カラミ石」

 生野では独特の光沢と質感を持つ黒色の石材をあちらこちらで目にするが、これは鉱滓をブロック状に固めた「カラミ石」である。カラミ石は明治から大正時代にかけて大量に作成され、安価な建築資材として家の土台や塀、井戸や水路など様々な用途に用いられた。また赤みがかった瓦で屋根を葺いている家も多いが、これは鉄分の多い土で焼成され生野瓦であり、カラミ石と共に生野における町並みの特徴となっている。また口銀谷北側の山裾には数多くの寺院が密集しており寺町の様相を呈しているが、鉱山労働者は比較的短命であったことから数多くの寺社が建立されたことによる。鉱山にまつわる信仰として行われていた「山神祭り」は「へいくろう祭り」として引き継がれているなど、現在も生野には鉱山町ならではの風習が色濃く残っている。

2017年12月訪問




【アクセス】

<口銀谷(中心部)>
JR播但線「生野駅」から徒歩約10分。

<生野銀山>
平日はJR播但線「生野駅」から神姫グリーンバスで約5分、「生野銀山口」バス停下車徒歩約10分。土日祝日はJR播但線「生野駅」から神姫グリーンバスで約10分「生野銀山」バス停下車すぐ。(いずれも本数が少ないので要時刻表確認)

【拝観情報】

町並み散策自由(ただし、住民の迷惑にならないように)。

<朝来市旧生野鉱山職員宿舎(甲社宅)>
拝観料:無料。
開館時間:9:00〜17:00(16:30入場受付終了)。
休館日:月曜日(祝日の場合は翌日)、12月28日〜1月3日。

<生野銀山>
拝観料:大人900円、中高生600円、小学生400円、小学生未満無料。
開館時間:4月〜10月は9:00〜17:30(16:30入場受付終了)、11月は9:00〜17:00(16:20入場受付終了)、12月〜2月は9:30〜16:30(15:50入場受付終了)、3月は9:30〜17:00(16:20入場受付終了)。
休館日:12月〜2月のみ毎週火曜日(祝日の場合は翌日)。

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佐渡西三川の砂金山由来の農山村景観(重要文化的景観)

【参考文献】

・月刊文化財 平成26年2月(605号)
重要文化的景観「生野鉱山及び鉱山町の文化的景観」|朝来市
史跡生野銀山【歴史・概要】