中尊寺境内

―中尊寺境内―
ちゅうそんじけいだい

岩手県西磐井郡平泉町
特別史跡 1979年指定


 平安時代末期、陸奥国に一大勢力を築いた奥州藤原氏。約100年に渡りその拠点として栄華を誇った岩手県南部の平泉には、往時の繁栄を今に伝える寺院や遺跡が数多く残されている。衣川(ころもがわ)沿いにたたずむ関山(かんざん)に境内を構える中尊寺は、平泉に残る寺院の代表格といえる存在だ。東西に走る尾根に沿って本坊と17の子院が軒を連ね、奥州藤原宇治の初代藤原清衡(ふじわらのきよひら)が建立した金色堂(国宝)をはじめとする堂宇が建ち並んでいる。浄土思想に基づく国家鎮護を目指した奥州藤原氏の東北支配を理解する上で欠かせない寺院であることから、その境内全域にあたる137.2ヘクタールの範囲が国の特別史跡に指定された。




中尊寺の表参道である月見坂
仙台藩によって植えられた、樹齢350年の杉並木が連なる

 寺伝によると、中尊寺の創建は平安時代の嘉祥3年(850年)、比叡山延暦寺の慈覚大師円仁が弘台寿院(こうだいじゅいん)という名の寺院を関山に開いたことに始まり、貞観元年(859年)に清和天皇より「中尊寺」の名を賜ったという。しかしながら、そこまで遡る史料は現在まで発見されておらず、実質的には清衡が堂宇の造営に着手した長治2年 (1105年)の創建とされる。その後、二代基衡(もとひら)が築いた毛越寺(もうつじ)、および三代秀衡(ひでひら)が築いた無量光院などと共に、平泉の宗教空間を形成していたものの、文治5年 (1189年)に四代泰衡(やすひら)が源頼朝に討たれて奥州藤原氏が滅亡すると、強力な庇護を失った中尊寺は徐々に衰退していく。




山内には本坊の他に17の子院が存在する

 「後三年の役」において陸奥国守源義家(みなもとのよしいえ)の助力を得た藤原清衡は、清原氏を滅ぼし奥州奥六郡を治めるに至った。しかしその戦いは義兄や異父兄弟と刃を交える熾烈なものであり、清衡もまた戦火の中で妻子一族を失っている。永久の平和をもたらす仏教国土を築こうと願った清衡は、嘉保年間(1094年〜1095年)頃に江刺郡の豊田館から平泉へと居館を移し、まず初めに関山の頂へ塔を建てた。平泉は陸奥国のほぼ中心に位置しており、そこに塔を建てることで国家の鎮護としたのだという。天治元年 (1124年)には阿弥陀堂である金色堂が完成し、清衡が死去した後も二代基衡、三代秀衡によって堂宇の造営が続けられ、最盛期には300以上もの僧坊が存在したという。




創建当初の古材を用いて再建された経蔵(重要文化財)

 奥州藤原氏滅亡後も中尊寺は源頼朝の庇護を受けて存続していったが、室町時代に入った直後の建武4年 (1337年) に大火が発生し、金色堂を残してほぼ全焼してしまう。保安3年(1122年)に建てられた経蔵もまた被害を受けたものの、内部の品々は焼失を免れた。経蔵は堂内に一切経を納め、中央に須弥壇を置いて文殊菩薩像と眷属四体を祀っていたという。今に残るそれらの品々は平安時代後期の工芸技術を伝えるものであり、「中尊寺経蔵内具」「螺鈿八角須弥壇」「紺紙金字一切経」がそれぞれ国宝に、「文殊五尊像」は重要文化財に指定されている。また現存する経蔵は創建当初の古材を用いて鎌倉時代末期に再建されたもので、堂内には平安時代の彩色文様が残されている。




嘉永6年 (1853年) に再建された白山神社能舞台(重要文化財)

 江戸時代には仙台藩の庇護を受けて堂宇の補修や再建が行われた。現在、参道沿いに連なる杉並木もまた仙台藩が植樹したものである。幕末の嘉永2年(1849年)には中尊寺の鎮守社である白山神社の能舞台が火災により焼失したが、これも仙台藩によって嘉永6年 (1853年) に再建された。東日本において近世まで遡る能舞台は他に存在せず、また中尊寺で続けられてきた芸能の場としても貴重な遺構であり、国の重要文化財に指定されている。その後の明治42年(1909年)には現在の本堂が再建され、また戦後の昭和25年(1950年)には金色堂の学術調査が行われた。昭和37年(1962年)から昭和43年(1968年)かけては傷みが進んでいた金色堂の修理が行われ、鉄筋コンクリート造の覆堂が新設された。




初代清衡の頃に伽藍が整備された大池跡
平泉に築かれた最初の「浄土式庭園」であったと考えられる

 中尊寺の境内が広がる丘陵のほぼ中央には開けた土地があり、そこは古くより大池跡として伝えられてきた。これまでの発掘調査によって、平安時代末期に築かれたことが判明しており、それは阿弥陀如来が治める西方浄土を表現した「浄土式庭園」であった可能性が高い。その規模は南北約120メートル、東西約70メートル。中央には中島が設けられ、東側の低い部分は土堤によって護岸がなされている。天治3年 (1126年) に清衡が記したとされる「中尊寺落慶供養願文」の記述と対応させると、池の西側を中心に「三間四面桧皮葺堂」「三重塔」「二階瓦葺経蔵」「二階鐘楼」が置かれていたとされ、実際に西の高台から経蔵跡と見られる建物の礎石が確認されている。

2006年06月訪問
2015年10月再訪問




【アクセス】

JR東北本線「平泉駅」から徒歩約25分(駅にレンタサイクル有り)。

【拝観情報】

境内自由。

金色堂、経蔵、旧覆堂、及び讃衡蔵(宝物館)の拝観料金は800円。
拝観時間8時〜17時(11月11日〜3月31日は8時30分〜16時30分)。

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