―金井沢碑―
かないざわひ
群馬県高崎市 特別史跡 1954年指定 群馬県の高崎市。そこは江戸から碓氷峠を越えて信濃へ至る中山道と、三国峠を越えて越後へ抜ける三国街道の分岐点にあり、古来より現在に至るまで、交通の要衝として栄えてきた。その高崎市街地より3、4キロメートルほど南に下った所には、城山と呼ばれる丘陵地帯が存在する。現在は城山団地として開発された、その城山北部を流れる金井沢の谷筋には、金井沢碑と呼ばれる石碑がひっそりとたたずんでいる。それは奈良時代初期にまで遡る古碑であり、同じく城山の周囲に点在する山上碑、および多胡碑と共に、上野三碑(こうづけさんぴ)と称されている。数少ない古代の石碑として極めて貴重であり、また古代の様相を教えてくれる重要な史料として、特別史跡に指定されている。 金井沢碑の碑身には、輝石安山岩の川原石が用いられ、台石にはめこまれて立っている。その大きさは、幅が約70センチメートル、高さは約110センチメートル、奥行きは約65センチメートル。表面には、9行112文字から成る漢文が刻まれている。その文字は、古い隷書(れいしょ)の特徴が見られる楷書であり、薬研彫(やげんぼり、溝の断面がV字になる彫り方)によって刻まれている。碑文の末尾に記された年号によると、金井沢碑が建碑されたのは奈良時代初期の神亀3年(726年)2月29日の事だ。現在は磨耗が進んでおり、文字が判別しにくくなっている。それ故、これ以上の劣化を防ぐ為に覆屋が設けられており、金井沢碑はその内部において管理、保護がなされている。 以下が碑文の全文である。なお、文中の「蹄」は新字体だが、実際の碑文では旧字体で記されている。 上野国群馬郡下賛郷高田里 三家子孫為七世父母現在父母 現在侍家刀自他田君目頬刀自又児加 那刀自孫物部君午足次蹄刀自次若蹄 刀自合六口又知識所結人三家毛人 次知万呂鍛師礒マ君身麻呂合三口 如是知識結而天地誓願仕奉 石文 神亀三年丙寅二月廿九日 その意味は、「上野国群馬郡下賛郷(現在の高崎市下佐野町)の高田の里に住まう三家(みやけ、屯倉とも書く。大和朝廷が直轄していた倉庫、領地を管理する役人の事)の子孫が、七世の父母(先祖の事)と現在の父母の為、家刀自(主婦)である他田君目頬刀自(おさだのきみめづらとじ)、その子である加那刀自(かなとじ)、孫である物部君午足(もののべのきみうまたり)、蹄刀自(ひづめとじ)、若蹄刀自(わかひづめとじ)と共に六名、また仏の教えにより結ばれた三家毛人(みやけのえみし)、知万呂(ちまろ)、鍛師(かなち、鍛冶職)の磯部君身麻呂(いそべのきみまろ)の三名が、仏の教えによって天地に誓願し、仕え奉るという石文」というものだ。 この文面により、この石碑は願主である三家氏とその妻、子、孫の三世代六人、および同族の三人、計九人によって建てられている事が分かり、当時の東国における有力豪族の家族構成や氏族関係、産業、そして仏教信仰の伝播状態をうかがい知る事ができる。なお、願主直系の六人のうち四人は女性であり、当時の女性の社会的地位のあり方が垣間見れる。また、大宝元年(701年)に制定された大宝律令によって定められた、国郡里制(国、郡、里の地方編成)、および和銅6年(713年)の好字二字令に基づく地名が文中に認められるなど、地方行政の実施状態も確認する事ができる。なお、現在の県名にもなっている「群馬」という地名が認められる史料は、この金井沢碑が最古のものだ。 金井沢碑を建碑した三家氏は、城山の南東に位置する山上碑に記されている、佐野三家氏と同一の可能性が高いという。その屋敷があったという下賛郷(下佐野町)は、金井沢碑が立っている位置から烏川(からすがわ)を挟んだその対岸に位置する事から、三家氏の一族は広大な土地を所有していた事が分かる。なお、金井沢碑は長らく土の中に埋もれていたと伝わっている。江戸時代の中期頃に掘り出され、なんと農家の庭先で洗濯石として使われていたのだという。しかしながら、その家で不幸が続いた為、碑を人里はなれた現在の地に移し、祀るようになった。その為、金井沢碑が出土した正確な場所や、出土した時の状況などは、はっきりしていない。 2006年09月訪問
2011年09月再訪問
【アクセス】
上信電鉄「根小屋駅」より徒歩約10分。 【拝観情報】
拝観自由。 ・山上碑および古墳(特別史跡) ・多胡碑(特別史跡) Tweet |