―山上碑および古墳―
やまのうえひおよびこふん
群馬県高崎市 特別史跡 1954年指定 群馬県高崎市の南部には、城山と呼ばれる丘陵地帯が存在する。その名の通り、山名城や根小屋城などといった、中世山城の遺構が残る山であり、その麓には7世紀から8世紀にかけて刻まれた三基の石碑、金井沢碑、山上碑、多胡碑が点在している。それらは上野三碑(こうづけさんぴ)と称され、そのうち城山の南東部を流れる沢沿いの斜面に鎮座する山上碑は、上野三碑の中でも最も古い、飛鳥時代末期の天武天皇10年(681年)に建碑されたものであり、日本全国を見ても最古級の石碑である。またその碑文は、隣接する古墳の埋葬者を伝えるものであり、埋葬者や築造年が明らかな古墳は極めて少なく、貴重である。故に、その石碑と古墳の両方が、特別史跡に指定されている。 山上碑は、幅約47センチメートル、高さ約111センチメートル、奥行き約52センチメートルの輝石安山岩でできており、下部は台石によって支えられている。碑文は4行53文字から成る漢文であり、薬研彫り(やげんぼり、溝の断面がV字になる彫り方)によって刻まれている。書体は、隷書の特徴が見られる楷書、すなわち隷書から楷書への移行期のものだ。中国において、隷書は漢代に用いられていた文字であり、楷書はその後の南北朝から隋唐の時代にかけて標準となった文字である。山上碑が建碑された当時は、そのさらに後の唐代であったのにも関わらず、隷書のような古い書体の特徴が見られるのは、朝鮮半島を経由して日本に中華文化がもたらされた為である。 以下が碑文の全文である。 辛己歳集月三日記 佐野三家定賜健守命孫黒売刀自此 新川臣児斯多々弥足尼孫大児臣娶生児 長利僧母為記定文也 放光寺僧 なお、冒頭の辛己歳(辛巳の年)とは、西暦を60で割ると21余る年の事で、江戸時代後期の考証学者である狩屋掖齋(かりやえきさい)の考えに基づき、天武天皇10年(681年)の事とされている。 碑文の意味は、「天武天皇10年(681年)の10月3日に、佐野三家(みやけ、屯倉とも書く。大和朝廷が直轄していた倉庫、領地を管理する役人の事)を定め賜った健守命(たけのもりのみこと)の子孫である黒売刀自(くろめとじ)が、新川臣(にっかわのおみ)の子である斯多々弥足尼(したたみのすくね)の子孫、大児臣(おおごのおみ)に嫁いで生まれた子である長利僧(ちょうりのほうし)が、母の為に記し定めた文なり」というものだ。すなわちこの石碑は、放光寺の僧侶であった長利僧が、母親である黒売刀自(なお、父親は大児臣である)の菩提を弔う為に建てたという事であり、山上碑の横にある古墳には、この黒売刀自が埋葬されたと考えられる。 なお、三家という名は、城山北部にある金井沢碑にも見る事ができ、それは佐野三家と同一の可能性が高いという。三家氏は、城山の東を流れる烏川の両岸、現在の佐野から山名までの広い範囲を治めていた豪族であった。また山上碑の建立者である長利の父親は、現在の桐生市新川を治めていた豪族の一族であったと考えられ、また前橋市総社町にある山王廃寺跡からは「放光寺」の銘が入った瓦が出土しており、長利はそこに在籍していた事が分かっている。このように、山上碑の碑文からは、大和朝廷による地方統治の制度、地方豪族とその婚姻関係、地方への仏教の伝播などを読み取る事ができ、当時における東国の実情を紐解くにあたり、極めて重要な史料と言える。 黒売刀自が埋葬されたと考えられている古墳は、山の斜面を利用して築かれた、山寄せ式の円墳である。その直径は約15メートル、高さは約5メートル。全長6メートル程の横穴式石室が、南南西に向け口を開いている。内部の石積みは非常に精巧であり、有力首長クラスの古墳と考えられている。また築造時期も、山上碑が建碑された天武天皇10年(681年)より数十年古い、7世紀中頃と推定される事から、元は長利の父親である大児臣の為に築かれた古墳であり、後に母親の黒売刀自が追葬され、その際に山上碑が建碑されたと考えられている。なお、現在この古墳の玄室には馬頭観音像が祀られており、江戸時代には三郡坂東の札所として、堂が建っていたという。 2006年12月訪問
2011年09月再訪問
【アクセス】
上信電鉄「山名駅」または「西山名駅」より徒歩約20分。 【拝観情報】
拝観自由。 ・金井沢碑(特別史跡) ・多胡碑(特別史跡) Tweet |