多胡碑

―多胡碑―
たごひ

群馬県高崎市
特別史跡 1954年指定


 群馬県高崎市、烏川と鏑川に挟まれるように連なる観音山丘陵。その東端に位置する城山の周囲には、金井沢碑、山上碑、そして多胡碑と呼ばれる三基の石碑が現存している。上野三碑(こうづけさんぴ)と称されるそれらの石碑は、古代の様相を今に伝える貴重な史料としてそれぞれ特別史跡に指定されている。そのうち城山の南西部、鏑川のほとりに位置する多胡碑は、奈良時代初期の和銅4年(711年)に建碑されたものであり、朝廷による地方行政の一端を知る事ができる碑文の重要性に加え、書道の点からも極めて優れた筆跡を残す事から、宮城県の多賀城碑(特別史跡、重要文化財)、栃木県の那須国造碑(国宝)と共に、日本三大古碑の一つに数えられている。




覆屋に納められている多胡碑

 多胡碑は、碑文が刻まれている碑身と、その上に被さる笠石、碑身を支える台石から成る(ただし、現在は碑身がコンクリートで固定されており、台石を見る事はできない)。碑身は末広がりの長方体で、幅は60〜65センチメートル、高さ約127センチメートル、奥行き約50センチメートル。上部には笠石をはめ込む為の突起がある。笠石は幅約90センチメートル、高さ15〜25センチメートル、奥行き約90センチメートルで、底部には碑身の突起に合うホゾ穴が設けられている。いずれも部材は牛伏砂岩(花崗岩質砂岩)であり、この石は多胡碑のある吉井町の牛伏山から甘楽町、富岡市にかけて採石されるもので、地元では天引石(あまひきいし)や多胡石(たごいし)とも呼ばれている。




状態は非常に良好で、碑文もはっきり見る事ができる

 碑文は6行80文字から成る和文並びの漢文であり、その彫り方は、以前は薬研彫り(やげんぼり、溝の断面がV字)と考えられていたが、2004年に行ったレーザーによる三次元形状計測の結果、丸底彫り(溝の断面がU字)と判明した。書体は丸みを帯びた六朝風の楷書体であり、金井沢碑や山上碑のような古風然としたところが無い。多胡碑の碑文は古くより名筆として文人墨客に知られており、室町時代の連歌師である宗長(そうちょう)や、江戸時代の儒学者である伊藤東涯(いとうとうがい)などの著書にも取り上げられている。また清代の金石文学者である楊守敬(ようしゅけい)がまとめた楷書辞典「楷法溯源(かいほうそげん)」にも、手本として多胡碑から39字が採録されている。




解説板に描かれている碑拓

 以下が碑文の全文である。

弁官符上野國片罡郡緑野郡甘
良郡并三郡内三百戸郡成給羊
成多胡郡和銅四年三月九日甲寅
宣左中弁正五位下多治比真人
太政官二品穂積親王左太臣正二
位石上尊右太臣正二位藤原尊




多胡碑の周囲は、吉井いしぶみの里公園として整備されている
園内には吉井町内より移築、復元された二基の古墳が存在する

 碑文の意味は、「弁官より符す。上野国の片岡郡、緑野郡、甘楽郡を併せた三郡のうち、三百戸を郡と成し、羊に給いて多胡郡と成す。和銅四年三月九日甲寅に述べ伝える。左中弁、正五位下、多治比真人(たじひのまひと)。太政官、二品穂積親王(にほんほづみしんのう)。左大臣、正二位、石上尊(いそのかみのみこと)。右大臣、正二位、藤原尊(ふじわらのみこと)」というものだ。これは片岡郡、緑野郡、甘楽郡の三郡から300戸を分け、「羊」を郡司として多胡郡を設置せよ。という朝廷からの命令を写した建郡碑である。この「羊」なる人物については様々な解釈がなされているが、上野国分寺跡から「羊」と記された瓦が発掘されている事から、羊氏は有力な豪族であったと考えられる。




多胡碑の前には榎の古木生えている
昔から「羊さまの赤モク」と呼ばれ、親しまれてきたという

 なお、吉井町では昔から「羊太夫」の伝説が語られてきた。多胡郡の郡司であった羊太夫は、従者の小脛(こはぎ)の神通力によって馬を飛ばし、都へ日参していた。ある日、羊太夫は寝ていた小脛の脇の下に生えていた羽を、いたずら心から抜いてしまう。すると小脛は神通力を失い、都へ行く事ができなくなってしまった。羊太夫が現れなくなった事で、謀反を企んでいると考えた朝廷は、羊太夫を討伐すべく兵を送った。羊太夫は奮闘したが、やがて劣勢となり、自害したという。その伝説より、この地では多胡碑を「ひつじさま」と呼び、信仰の対象としてきた。痛みやすい砂岩の多胡碑が良好な状態で今に残るのは、人々が多胡碑を羊太夫の墓とし、堂を設けて手厚く保護していた為だという。

2006年12月訪問
2011年09月再訪問




【アクセス】

上信電鉄「吉井駅」より徒歩約30分(吉井駅に無料貸し自転車あり)。

【拝観情報】

拝観自由。

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