―旧閑谷学校 附 椿山石門津田永忠宅跡および黄葉亭―
きゅうしずたにがっこう
つけたり つばきやませきもんつだながただたくあとおよびこうようてい 岡山県備前市 特別史跡 1954年指定 岡山県備前地方、その山間部の小盆地にたたずむ閑谷学校は、岡山藩主の池田光政(いけだみつまさ)が、家臣の津田永忠(つだながただ)に建設を命じた庶民の為の学校である。儒教を信奉し、教育を極めて重視していた光政は、寛文9年(1669年)に最古の藩校である岡山学校(岡山藩藩学)を設立。さらに庶民に読み書きを教える手習所を藩内123ヶ所に作った後、それらを統合する形で閑谷学校の設立に至っている。藩校は自国藩士の子を教育する為の学校であるのに対し、閑谷学校は藩士の子のみならず庶民や他藩の子も広く受け入れるという、革新的な教育施設であった。 寛文5年(1665年)、池田光政は池田家の墓所を造成するに適した場所を探すよう、津田永忠に命じた。永忠は翌年、山間の木谷村と、さらに山奥の脇谷村の二ヶ所を候補地として挙げ、光政はそれらを視察しに行く。このうち木谷について光政は、静かで風光明媚な土地は学問に最適であり、ここは学校を作るべき場所であると述べ、墓所は脇谷に作るよう命じた。その後、池田家墓所や旭川放水路など土木工事の総奉行として経験を積んだ永忠は寛文10年(1670年)に木谷村の学校建設を任され、その工事に着手する。木谷村は閑静たる山谷、すなわち閑谷と改められ、学校も閑谷学校と名付けられた。 延宝2年(1674年)になると永忠は閑谷に屋敷を構え、その後も閑谷学校の建設と運営に尽力した。創建当時の閑谷学校には、儒教の始祖である孔子を奉る聖廟、授業を行う講堂、生徒たちが生活する学房などの建物があったが、それらはすべて茅葺屋根の簡素な建物であったという。現在に見られる赤瓦の建物になったのは、光政没後の元禄14年(1701年)であった。永忠は閑谷学校を永続させるという光政の意思を継ぎ、建物をより長く持たせるべく、堅固なものに建て直した。それが、現在の閑谷学校なのである。 閑谷学校の敷地は東西に分かれており、そのうち東側には講堂とそれに付随する習芸斎や飲室、小斎、文庫があり、その東北には孔子を奉る聖廟と池田光政を祭る芳烈祠(閑谷神社)がある。このうち講堂は国宝に指定されており、他はすべて重要文化財学校である。西側には生徒や教師、役人たちが住まった学房があったが、今は明治38年に建てられた洋風の校舎(現在の閑谷学校資料館)がある。なお、これら西側と東側の敷地の間は、火除け山という築山によって隔てられている。これは永忠の作った防火壁であり、たとえ西側の学房で火事が起きたとしても、東側の学校建築には火を移させないようにする工夫である。 閑谷学校の敷地は、総延長765メートルにもなる石塀(せきへい)によって囲まれている。カマボコのような形状の石塀は、切込接(きりこみはぎ)という切り出した石を隙間無く積む方法で築かれており、丸みを帯びた独特の形状と相まって非常に美しい表面を見せる。石塀内部には洗浄された栗石が詰められており、それゆえこの石塀には草が一切生えてこない。石塀の南側五ヶ所には出入りの為の門が設けられており、このうち一番立派な鶴鳴門が正門である。鶴鳴門の屋根の上には鯱が見られるが、屋根に鯱が乗るのは閑谷学校の建造物の中で唯一であり、その格の高さが分かる。 学校の東隣には椿山という小さな築山がある。これは光政が没した後に永忠が作った塚であり、光政の髪や爪、歯などが埋められている。閑谷学校から川沿いに東へ行くと、津田永忠が住居を構えた跡地があり、さらにその先には学校を訪れた客人をもてなす黄葉亭という茶室が建つ。また、閑谷学校から南へ1kmほど行ったところには、元禄10年(1697年)に建てられた石門(せきもん)がある。これはかつての校門で、ここから先の土地すべてが閑谷学校の敷地であった。この広大な学校領もまた永忠が行った学校永続の工夫であり、藩から独立した領土を与えることで例え藩主が変わっても学校が存続できるようにしていたのだ。 2009年03月訪問
【アクセス】
JR山陽本線「吉永駅」から徒歩約40分。 【拝観情報】
拝観料300円、拝観時間は9時〜17時(入場は16時30分まで)。 休館日は12月29日〜31日。 ・旧閑谷学校講堂(国宝建造物) ・旧弘道館(特別史跡) ・廉塾ならびに菅茶山旧宅(特別史跡) ・岡山後楽園(特別名勝) Tweet |