大宰府跡

―大宰府跡―
だざいふあと

福岡県大宰府市
特別史跡 1953年指定


 7世紀後半、九州を治めるために、また大陸との外交や防衛の拠点とするために、大和朝廷が九州北部に設置した行政機関、それが大宰府である。福岡平野と筑後平野の境に位置する大宰府は、行政を担う政庁を中心として、役人を養成するための学校、寺院などが置かれていた。またその街は平城京や平安京などと同様、碁盤目状に道路を敷いた条坊制の都市として整備されていたと考えられている。その広大な領域に渡る大宰府の遺跡のうち、政庁の跡である都府楼(とふろう)跡の一帯が大宰府跡として国の特別史跡の指定を受け、整備、保存がなされている。




回廊跡の礎石群
右奥が中門跡であり、点在する植え込みは衛門舎跡だ

 そもそも大宰(おおみこともち)とは、天皇の命(みこと)を受けて地方の行政を執っていた役職であり、その役所である大宰府(おおみこともちのつかさ)は九州のみならず吉備(岡山県)や周防(山口県)、伊予(愛媛県)にも置かれていた。その後、大宝元(701)年に大宝律令が制定され天皇および官僚を中心とする中央集権体制が整うと、九州以外の大宰府は廃止となるのだが、しかし九州の大宰府だけはアジア大陸との外交や防衛の拠点としてますます整備が進み、その立場を確立していく。




正殿跡に立つ石碑群
江戸時代末期から明治初期にかけての古いものだ

 その後も大宰府は九州における行政の中心として存続していくのだが、奈良時代以降になると、大宰府は都で失脚した貴族たちの左遷先となっていた。天平12年(740年)には、反藤原勢力の台頭によって大宰府に左遷された藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)が、弟の綱手(つなて)と共に朝廷に対して反乱を起こす事件も起きている。このように大宰府が左遷先となっていた時代は長く、平安時代の安和2(969)年に起きた安和の変により失脚した左大臣、源高明(みなもとのたかあきら)も大宰府に流されている。




正殿跡に残る大宰府政庁第三期の礎石群

 大宰府に左遷された人物の中で最も有名なのは、やはり菅原道真(すがわらのみちざね)であろう。右大臣まで上り詰めた道真は、左大臣の藤原時平(ふじわらのときひら)の謀略により大宰府に左遷され、そのまま死去してしまう。ところがその6年後、道真を左遷に追い込んだ時平もまた、39歳という若さで死亡。これを道真の祟りと恐れた朝廷は、大宰府に太宰府天満宮を、京都に北野天満宮を建て、その魂を沈めることとした。このように大宰府は様々な思惑が渦巻く中、廃止や復活を繰り返し存続していったのだが、戦国時代に入り朝廷の権力が弱まる共にその機能は失われ、歴史の中に消えていった。




正殿跡横の唐楓(からかえで)

 大宰府政庁の建造物は、時代によって形式や配置が異なっている。1943年に行われた発掘調査では、政庁跡より全部で三期の遺構が確認された。そのうち第一期は創建時から大宝律令が発せられた8世紀ごろまでのもので、建物は総じて掘立柱であった。8世紀からの第二期は、建物が朝堂院形式(大内裏の政庁に用いられていた形式)となり、礎石を用いて柱を立て、屋根は瓦葺としていた。第三期は天慶4年(941年)に起きた藤原純友の天慶の乱で焼失した後に再建されたもので、こちらも第二期同様の朝堂院形式である。現在、大宰府の政庁跡には多数の礎石が残されているが(一部レプリカ)、これらは第三期の礎石である。




政庁の東に位置する月山東地区官衙跡
大宰府における官衙(実務を行う役所)のうちの一つである

 大宰府の政庁は、最も重要な場である正殿を中心に様々な建物や回廊から構成されている。正殿とは大宰府の長官である大宰帥(だざいのそち)が政務を執り行っていた場であり、また儀式においても重要な位置を占めていた建物である。正殿の南には広場が配され、その左右には脇殿がそれぞれ二棟ずつ建てられていた。広場の南には中門が存在しており、正殿から中門にかけては広場を囲むように回廊が伸びている。中門のさらに南には南門が構えられ、また正殿の背後には後殿が、さらにその北には北門が存在していたと考えられている。

2009年03月訪問




【アクセス】

西鉄天神大牟田線「都府楼前駅」から徒歩約15分。

【拝観情報】

拝観自由。

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