瑞巖寺本堂(元方丈)、瑞巖寺庫裏及び廊下

―瑞巖寺本堂(元方丈)―
ずいがんじほんどう(もとほうじょう)
国宝 1953年指定

―瑞巖寺庫裏及び廊下―
ずいがんじくりおよびろうか
国宝 1959年指定

宮城県宮城郡松島町


 無数の島々や奇岩が連なる景勝地であり、日本三景のうちの一つにも数えられている松島。臨済宗の仏教寺院である瑞巌寺(ずいがんじ)は、その絶景の広がる松島湾が最も奥まった場所に位置している。正しくは松島青龍山瑞巌円福禅寺(しょうとうせいりゅうざんずいがんえんぷくぜんじ)と言い、元はその立地より松島寺と呼ばれていた延福寺(えんぷくじ)という寺院を母体としている。現存する本堂と庫裏は、伊達政宗が瑞巌寺を再興したその時に建てられたものであり、政宗が東北地方にもたらした桃山文化の特徴を良く表す建造物として価値が高く、国宝に指定されている。




瑞巌寺の境内には鎌倉時代に穿たれた石窟が数多く残る

 瑞巌寺のルーツである延福寺(えんぷくじ)は、そもそも天台宗の寺院であった。その起源は非常に古く、南北朝時代か室町時代初期の頃に記されたと推測される天台記によると、平安時代の天長5年(828年)、淳和天皇の勅願により慈覚大師円仁が開山したとされる。延福寺は奥州藤原氏の庇護の下に存続し、また奥州藤原氏の滅亡後は鎌倉幕府により維持されていた。鎌倉時代中期には天台宗から禅宗の臨済宗に改められ、寺の名称も円福寺という名に変えられた。しかしながらその後の戦国時代になると円福寺は戦乱により衰退し、戦国時代末期には廃寺同然の有様であったという。




外観は極めて簡素な瑞巌寺本堂

 関ヶ原の戦いの後、仙台に居城を移した伊達政宗は仙台城を築くと共に寺社の造営も精力的に行った。正宗は荒廃した円福寺を復興すべく、慶長9年(1604年)よりその伽藍整備に着手。工事は4年の歳月をかけて行われ、慶長14年(1609年)に完成した。現在に伝わる松島青龍山瑞巌円福禅寺という寺名は、この再興の時に付けられたものだ。瑞巌寺の境内には桃山形式の豪華で華やかな堂宇が建ち並び、江戸時代を通じて伊達氏の篤い庇護を受け、隆盛を極めたという。明治時代には廃仏毀釈の流れにより寺勢は落ちたが、住職の努力により何とか持ちこたえ、現在まで存続した。




本堂右手からは庫裏へと廊下が伸びる

 瑞巌寺本堂は桁行13間、梁間8間という大規模な入母屋造本瓦葺の方丈建築に、クランク状に折れ曲がった御成玄関が付属した形となっている。本来方丈とは禅宗における住職の住居であり、この本堂も内部は10の部屋に仕切られた書院造となっている。外観は非常にシンプルだが、内部には豪華絢爛な装飾が施されており、特に仏間の前に配される孔雀の間は、金碧の襖絵を始め、色とりどりの顔料で彩色された欄間や扉の彫刻など、桃山様式の特徴に溢れ見るものを圧倒する。これはまさに、簡素な禅宗様の方丈と華やかな桃山文化が融合した建築であると言えよう。




正面から見た瑞巌寺庫裏

 寺院において、僧侶の住居や台所として用いられる建物のことを庫裏(くり)という。瑞巌寺の庫裏は本堂と同時期に建てられたもので、これもまた国宝に指定されている。本堂とは廊下によって接続されているのだが、この廊下も国宝だ。庫裏は切妻屋根妻入で本瓦葺、屋根には入母屋屋根の煙出しがちょこんと乗っている。この庫裏は妻飾が見事で、複雑に組み上げられた梁と束、それらの両脇に据えられた海老虹梁、そして桃山風の唐草彫刻が白い漆喰の上に美しく映えている。天井を張っていない為、中に入れば見事に組み上げられた梁を見ることができ、建築技術の高さを伺い知ることができる。




庫裏全景

 本堂、庫裏の他にも、寺の入口にあたる総門、本堂の御成門の前に建つ御成門、本堂前に建つ中門、そしてそれらの門を繋ぐ太鼓塀が現存しており、これらのうち総門以外は全て重要文化財に指定されている。また、松島湾に浮かぶ小島には五大堂がある。これは大同2年(807年)に建てられた毘沙門堂をルーツとしており、その後、延福寺創建の際に五大明王を祀る仏堂が建てられ五大堂と呼ばれるようになった。現存するお堂は伊達政宗が瑞巌寺の復興に先駆けて再建したものであり、東北地方最古の桃山建築として1995年に重要文化財に指定された。

2007年10月訪問




【アクセス】

JR仙石線「松島海岸駅」から徒歩約10分。

【拝観情報】

拝観料700円
拝観時間は1月が8時〜15時30分、2月は8時〜16時、3月は8時〜16時30分、4月〜9月は8時〜17時、10月は8時〜16時30分、11月は8時〜16時、12月は8時〜15時30分。

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