大崎八幡宮 本殿、石の間、拝殿

―大崎八幡宮 本殿、石の間、拝殿―
おおさきはちまんぐう ほんでん、いしのま、はいでん

宮城県仙台市
国宝 1952年指定


 伊達正宗が慶長6年(1601年)に開府した東北一の城下町、仙台。その中心である仙台城から北西に行った所に、荘厳華麗な装飾によって彩られた桃山様式の社殿を持つ大崎八幡宮が鎮座している。京都や紀州から職人を招いて建てられたその社殿は、建物全体に黒漆が塗られ、また金箔押しの飾り金具や色鮮やかな彩色によって、華やかに飾り立てられている。その見る者を圧倒する大崎八幡宮社殿は、松島にある瑞巌寺の本堂や庫裏などと共に、正宗が東北地方に伝えた桃山文化の遺構として貴重であり、国宝に指定されている。




大崎八幡宮の大鳥居
ここから石段を上がると社殿前へと辿り着く

 大崎八幡宮の正確な創建時期は定かではないが、平安時代に東方征伐を行った武官である坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が、武門の神である宇佐八幡宮を鎮守府の胆沢城(いさわじょう)に勧請し、それを鎮守府八幡宮と称したことに始まるとされる。室町時代には奥州の管領であった大崎氏が、鎮守府八幡宮を現在の宮城県大崎市に遷して篤く祀ったことにより、大崎八幡宮と呼ばれるようになった。しかしながら大崎氏は、豊臣秀吉が北条氏を倒した小田原征伐には参加せず、それにより秀吉の怒りを買い改易となってしまう。




総黒漆塗の社殿に散りばめられた彫金が目を引く

 関ヶ原の戦いの後、東軍に付いた出羽国の伊達政宗は徳川家康の許可を得て仙台に居城を移し、仙台藩が誕生した。政宗は仙台開府に際し、仙台城の築城や城下町の建設と合わせて数多くの寺社を建立。そのうちの一つとして、伊達氏の旧領である米沢にて代々祀ってきた成島八幡宮と大崎氏の大崎八幡宮を合祀して、仙台城の乾の方角(北西)にその社を置いた。これが現在の大崎八幡宮である。その造営は慶長9年(1604年)に開始され、慶長12年(1607年)に完成。上方より呼び寄せた豊臣家御用達の工匠や絵師たちの手により、陸奥国に色鮮やかな桃山の華が咲いた。




右手前の建物が拝殿で左奥が本殿、その間が石の間(いしのま)だ

 大崎八幡宮の社殿は、権現造(ごんげんづくり)と呼ばれる形式を取っている。権現造は石の間造(いしのまづくり)とも言い、神が宿る本殿と人が参拝する拝殿を、石の間と呼ばれる部屋で繋いで一体化した神社建築の事である。後に徳川家康(東照大権現)を祀る日光東照宮にもこの形式が用いられたことから、このような形式の社殿を権現造と呼ぶようになった。なおこの大崎八幡宮の社殿は、京都の北野天満宮社殿(大崎八幡宮と同じく慶長12年(1607年)に竣工)と共に、権現造としては現存最古のものである。




装飾著しい拝殿正面の千鳥破風と軒唐破風

 拝殿と本殿の屋根は入母屋造で石の間は切妻造、いずれもこけら葺きである。拝殿正面には大きな千鳥破風を持ち、その下の向拝には小さな軒唐破風が付けられている。柱と柱を繋ぐ長押(なげし)より上部分にある頭貫(かしらぬき)やその木鼻(きばな)、蟇股(かえるまた)、肘木(ひじき)や斗(と)などは、色鮮やかな顔料によって彩色が施され、飾り立てられられている。長押より下の部分には黒漆が塗られ、また建物全体には彫金具が散りばめられており、その極彩色、彫金、黒漆が織り成すコントラストは、華やかな桃山文化の粋を見せる。




社殿の前に建つ長床(ながとこ)

 社殿の前には長床がある。長床とは拝殿の役割を担う建物で、大崎八幡宮の長床は中央部分を通り抜けることができる割拝殿の形式を取っている。長床が建てられた時期は正確には分かっていないが、社殿よりやや時代を下った寛文年間の1661年から1672年ごろと見られており、社殿と共に貴重な遺構であるとして重要文化財に指定されている。規模は桁行9間で梁間3間、屋根は一重の入母屋で、こけら葺き。中央部分には唐破風が付属している。豪華絢爛な桃山建築の社殿に対し、長床は簡素な素木造りで落ち着いたたたずまいだ。

2007年10月訪問
2015年10月再訪問




【アクセス】

JR東北本線「仙台駅」10番、15番バス乗り場から市営バスで約20分、「大崎八幡宮前バス停」下車すぐ。

JR仙山線「国見駅」より徒歩約15分。

【拝観情報】

境内自由。

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