―金剛輪寺本堂―
こんごうりんじほんどう
滋賀県愛知郡愛荘町 国宝 1952年指定 滋賀県は琵琶湖の東部、そこに広がる湖東平野を望むように、南北に連なる鈴鹿山脈。その西側の山腹には、西明寺(さいみょうじ)、金剛輪寺(こんごうりんじ)、百済寺(ひゃくさいじ)という三つの天台宗寺院が存在している。湖東三山と称されるそれら三ヶ寺のうち、金剛輪寺はそのちょうど真中、北の西明寺と、南の百済寺に挟まれる形で鎮座する古刹である。標高450メートルほどの秦川山(はたかわやま)中腹に至る長い石段を上り詰めたその先、境内の最も奥まった所には、鎌倉時代に建てられたとされる本堂が構えられており、中世における天台宗建築の好例として、国宝に指定されている。 金剛輪寺は奈良時代中期の天平13年(741年)、聖武天皇の勅願により、僧侶行基が開いたと伝わるが、そのような例は関西に数多く、確かとは言えない。その後、一時は衰退するものの、平安時代に天台宗の開祖である最澄の弟子、慈覚大師円仁が天台宗の寺院として金剛輪寺を再興した。それからは比叡山の影響の元で大々的に発展し、中世には100を超える僧坊が境内に建ち並ぶ大寺院になっていた。しかしながら元亀2年(1571年)、天台宗の総本山である比叡山が織田信長によって焼き払われると、比叡山の傘下であった湖東三山もまたその標的とされてしまい、天正元年(1573年)に兵火を被り炎上してしまう。 しかし幸いにも、境内の最奥部に位置する本堂一帯だけは、火の手が回らず焼失を免れた。これは僧侶が「既に全山焼失」と虚偽の報告をしたゆえ、それ以上の放火がなされなかった為だという。僧侶の機転もあって、金剛輪寺には本堂を始めとした焼き討ち以前の建物が複数現存している。ただし室町時代末期に建てられた二天門は、かつては二層の楼門であったのだが、江戸時代中期に二層部分が取り払われており、建造当時の姿ではない。南北朝時代に建てられたと見られる三重塔も、江戸時代末期には荒廃して三重目が欠損。初重と二重目を残すだけという状態であった。三重目が復元され、元の三重塔の姿を取り戻したのは、1978年の事である。 現在に残る金剛輪寺の本堂は、元寇を退けたその戦勝を記念して、近江国の守護であった佐々木頼綱(ささきよりつな)の寄進により建てられたものであるとされる。築年は堂内の須弥壇に付けられた金具に弘安11年(1288年)という刻銘が打たれている事から、本堂もその年に建てられたものであると考えられているが、本堂内部に見られる木鼻の装飾や構造の様式から、室町時代前期の建造であるとする説もあり、本堂の建造年についてはいまだはっきりしていない。その建築は桁行七間で梁間七間、天井の高い規模の大きな和様建築であり、屋根は一重の入母屋造で、檜皮によって葺かれている。 本堂の内部は、前より3間を外陣、中央2間を内陣、後より2間を後陣とし、それぞれの境界に格子戸を入れて区切るなど、天台密教における本堂の典型的な様式を取っている。内陣に据えられた須弥檀には厨子が置かれ、その内部に秘仏の本尊が安置されている。なお、この厨子もまた、本堂の附けたりとして国宝に指定されている。本尊の聖観音立像は鎌倉時代に作られたもので重要文化財。非常に荒削りであるが、これには、行基が像を彫っていたところ、突然木から血が滴ったのでそれ以上彫らずに祀ったという伝説が残っている。須弥檀上には他にも、不動明王立像や毘沙門天立像、四天王立像など、鎌倉時代の仏像が数多く鎮座している(いずれも重要文化財)。 本堂へと繋がる石段のたもとには、金剛輪寺の本坊である明寿院が存在する。桃山時代、江戸時代初期、江戸時代中期に作られた三庭から成るその庭園は、作庭の時期が散じている割には良くまとまっており、また斜面の地形を利用したその巧みさから、名園として国の名勝に指定されている。庭園に面した位置にある書院は、江戸時代の中期に建てられたものであったが、1977年の火災で他の建造物と共に焼失してしまっており、現在のものはその後の再建である。ただし庭園内に配されている護摩堂、および茶室の水雲閣は火災の火の手を免れた例外であり、江戸時代より変わらず庭園のアクセントとしてあり続けている。 2009年06月訪問
【アクセス】
JR東海道本線「彦根駅」よりレンタサイクルで約60分。 JR東海道本線「稲枝駅」よりタクシーで約15分。 紅葉シーズンはJR東海道本線「河瀬駅」よりバスあり。 【拝観情報】
拝観料500円、拝観時間8時30分〜17時。 ・西明寺本堂(国宝建造物) ・延暦寺根本中堂(国宝建造物) Tweet |