―宇太水分神社本殿―
うだみくまりじんじゃほんでん
国宝 1954年指定 奈良県宇陀市 奈良盆地より南東に少し入った山間の地、宇陀市菟田野(うたの)。宇陀川の支流である芳野川(ほうのがわ)が流れ、昔懐かしい田園風景が広がるその里村には、大和から伊勢へと至る街道が通っており、かつては往来で賑わっていたという。宇太水分神社はその街道沿いの、菟田野町へと入るその手前。古くは市場町として栄えた、古市場地区に鎮座する古社である。平安時代の延長5年(927年)にまとめられた、全国の神社一覧表である延喜式神名帳にもその名が記載されているほどの歴史を持つ宇太水分神社の境内には、五棟の社殿が横一列に建ち並び、そのうち鎌倉時代後期に建立された第一殿、第二殿、および第三殿の三棟が、国宝に指定されている。 水分(みくまり)とは水配りが変化した言葉で、水分神社はその名の通り、水の分配を司る神を祀った神社である。農業、特に稲作において、水は最も重要な天の恵みであり、人々はその水をもたらす水分の神を信仰し、豊穣を願ったのだ。特に奈良盆地には大きな川が無く、人々は慢性的な水不足に悩まされ続けてきた。現在も奈良県の各地に残る溜池は、渇水と戦った人々の努力の証である。遥か昔、古代国家の人々もまた渇水に悩み、そこで第10代天皇、崇神天皇(すじんてんのう)は、都を中心とした東西南北の位置に水分神社を置いたという。それはそれぞれ、南が吉野水分神社、西は葛木水分神社、北は都祁(つげ)水分神社、そして東が宇太水分神社にあたるという。 一の鳥居、二の鳥居をくぐって宇太水分神社の境内に足を踏み入れると、正面に銅板葺きの拝殿が建ち、その背後に一直線に配された五棟の朱塗りの社殿が鎮座するのが目に留まる。そのうち姿形がそっくりな左側三棟が、国宝の宇太水分神社本殿である。この三棟は、向かって右から第一殿、第二殿、第三殿となっており、それぞれ天水分神(あめのみくまりのかみ)、速秋津彦命(はやあきつひこのみこと)、国水分神(くにのみくまりのかみ)を祭神として祀っている。これらは鎌倉時代後期の元応二年(1320年)に建てられた事、第二殿は永禄元年(1558年)に修理が行われた事が、棟木により判明しており、これは神社建築として極めて古い建物である。 三棟はいずれも一間社(いっけんしゃ)の隅木入春日造で建てられている。一間社とは、正面の柱が二本(柱間が一間)からなる社殿の事で、神社建築としては一般的な規模だ。春日造は春日大社本社本殿に代表される神社建築の様式であり、屋根がやや反った切妻造の妻入をベースとし、正面に庇を付けた形状となっており、正面から見るとまるで入母屋造のように見えるのがその特徴である。宇太水分神社本殿が採る隅木入春日造とは、通常の春日造社殿に加え、正面の屋根の両端に、柱筋より45度の角度で隅木(垂木を支える横材)を入れた形式の事だ。隅木入春日造の社殿の中では、この社殿が現存最古のものだという。 現在、宇太水分神社本殿の柱や梁、長押などには、朱塗りの上に極彩色の文様が施されている。これらの彩色は、2003年に行われた平成の大造営における社殿の塗り直しの際に発見された古い彩色の跡を元に、その文様を2004年に復元したものである。調査によると、その古い彩色は永禄元年における修理以降、各社殿に施されたものであるといい、菊やボタンなどの花文様や唐草文様、波文様などが色鮮やかに描かれている。絢爛豪華、華美荘厳な彩色や彫刻が特徴的な桃山建築が流行する以前、このような山間の地にて、それも白木や朱塗りを主とする神社の社殿にこのような彩色が施されることは非常に珍しく、極めて異例と言えるだろう。 宇太水分神社本殿三棟の右隣に建つのは、末社の春日神社本殿である。これは、この地が春日大社の荘園であった縁で勧請され、祀られたものだ。宇太水分神社本殿と同じく一間社隅木入春日造だが、一回り小さい作りとなっており、その建造時期も室町時代の中期頃と、やや時代が下る。祭神は、奈良の春日大社本社本殿第二殿と同じ、天児屋根命 (あめのこやねのみこと)。さらにその右隣の社殿は、同じく末社の宗像神社本殿である。こちらは一間社の流造で、室町時代末期の建立。祭神は市杵島比売命(いちきしまひめのみこと)である。これらは、宇太水分神社本殿とまではいかないものの古い神社建築であり、どちらも重要文化財に指定されている。 2007年01月訪問
2010年04月再訪問
【アクセス】
近鉄大阪線「榛原駅」より奈良交通バス10系統「菟田野」方面行きで約20分、「古市場水分神社前バス停」下車、徒歩約3分。 【拝観情報】
境内自由。 ・春日大社本社本殿(国宝建造物) ・宇陀市松山(重要伝統的建造物群保存地区) Tweet |