―本山寺本堂―
もとやまでらほんどう
香川県三豊市 国宝 1955年指定 唐から日本に真言密教をもたらし、高野山を開いて仏教の興隆を支えた弘法大師空海。その生誕の地である讃岐国の善通寺を始め、四国には空海にゆかりのある霊場が数多く存在する。それら四国に散らばる八十八箇所の霊場を巡礼するのが、四国遍路である。元は辺路(へち)修行の場として開かれ、後に弘法大師を慕う人々がその足跡を訪ね歩く事で発展した四国遍路は、今でも四国に根強く息づく文化である。その四国遍路の第70番札所として香川県西部の三豊市に存在するのが、七宝山(しっぽうざん)本山寺だ。本山寺の境内には今もなお、数多くの古建築が現存し、そのうち鎌倉時代に建てられた本堂が国宝に、室町時代建立の二王門が重要文化財に指定されている。 寺伝によると、本山寺が開かれたのは平安時代初期の大同2年(807年)、平城天皇の勅願によって、空海が自ら刻んだ馬頭観音像を本尊として創建したとされる。中世には数多くの子院を持つ大寺院に成長し、多大に栄えていたという。四国の寺社は、戦火に巻き込まれて荒廃したり、また明治時代の初頭における神仏分離令によって廃寺に追い込まれた所も数多い。それは四国八十八箇所霊場においても例外ではなく、現在では古建築が残っているのはおろか、境内の位置すら変わってしまった札所も少なくない。本山寺もまた戦国時代、土佐より進軍してきた長宗我部氏によって戦火を被ったが、幸いにも主要伽藍が焼失する事はなく、古来の姿を今に留める札所として貴重な存在である。 本山寺本堂は、桁行五間に梁間五間の規模で、屋根は本瓦葺きの一重寄棟造。正面に三間の向拝が付属する、中世密教本堂の典型例である。昭和28年から行われた解体修理によって、棟木と礎石から墨書銘が発見されており、それにより鎌倉時代後期の正安2年(1300年)に建てられた事が判明、修理が完了した昭和30年に国宝の指定がなされた。また同じくその墨書銘より、末清および国重という二人の人物をリーダー格として建てられた事が分かっているが、この二人は南都の工匠であり、奈良の富雄に現存する霊山寺本堂や、同じく奈良は西の京の薬師寺東院堂も、彼らによって建てられたものである。故にこの本山寺本堂もまた、それらと似た雰囲気を持つ建物に仕上がっている。 その建築様式は、日本古来の建築様式である和様を基調とする。純和様に限りなく近いものの、細部には鎌倉時代に大陸より伝来した禅宗様や大仏様の手法も見られ、厳密には折衷様と言える。建具は、正面五間すべてを和様の蔀戸(しとみど)とするが、側面の手前一間には禅宗様の桟唐戸(さんからど)が用いられ、その隣は引違格子戸。背後の中央間にも桟唐戸が入れられている。また、頭貫の木鼻は猪目(いのめ)を持つ大仏様のもの。軒下の組物は出組であるが、軒支輪(のきしりん)を用いておらず、中備の間斗束(けんとづか)や組物の三斗の上には板蟇股(いたかえるまた)が乗っている。一方、向拝の水引虹梁に乗るのは透かし彫りが施された本蟇股(ほんかえるまた)だ。 内部は前より二間を外陣とし、中央の桁行三間、梁間二間を内陣、その左右一間を脇陣、後ろ一間を後陣とする。外陣と内陣の間は、吹寄せ格子戸と菱欄間によって隔てられており、俗と仏の空間を厳密に区別している。外陣は虹梁を前後に渡して柱を省略しているが、両端の入隅柱(いりすみばしら)は残している。また、虹梁の上には大瓶束(たいへいづか)が乗っているが、これは禅宗様の影響だ。内陣には、本堂と同時期に作られた厨子が据えられている。この厨子は装飾が立派な小堂というべき大型のもので、内部には室町時代初期の春日厨子が3基鎮座し、本尊の馬頭観音像と脇侍の阿弥陀如来像、薬師如来像を納めている。これらの厨子もまた、本堂の附けたりとして国宝だ。 境内の入口に構えられている二王門は、室町時代中期の建立とされる、三間一戸の八脚門(やつあしもん、本柱の前後に二本ずつの控柱がある門)である。元々は本堂の南東に建てられていたが、江戸時代の享保9年(1724年)に現在地へ移されたという。その組物は和様の三斗だが、肘木には禅宗様の繰形(くりがた)彫刻が施されている。柱の下に礎盤(そばん)が入るのも禅宗様の特徴だ。また、木鼻は皿斗を乗せる大仏様のものであるなど、この二王門はより禅宗様、大仏様の色が濃い、折衷様の建築である。なお、本堂の隣に建つ五重塔は明治43年(1910年)の再建であるが、その造りは立派なもので、田園風景の中に一際高くそびえる本山寺のランドマーク的な存在である。 2009年10月訪問
2011年06月際訪問
【アクセス】
JR予讃線「本山駅」より徒歩約15分。 【拝観情報】
境内自由。 ・霊山寺本堂(国宝建造物) ・薬師寺東院堂(国宝建造物) ・太山寺本堂(国宝建造物) Tweet |