―石手寺二王門―
いしてじにおうもん
愛媛県松山市 国宝 1952年指定 弘法大師空海にゆかりある、四国八十八箇所の霊場を辿る四国遍路。その51番札所であるのが、愛媛県松山市、道後温泉の近くに建つ、熊野山石手寺である。四国における有力寺社の多くが、戦国時代の戦火や、明治時代初頭の神仏分離令などによってかつての様相を失っている中、石手寺には中世に建てられた堂宇が数多く現存しており、古来よりの姿を今に伝えている。それら石手寺の古建築の中でも、特に堂々たる構えを見せる二王門は、鎌倉時代後期における楼門の傑作として国宝に指定されている。なお、石手寺の境内には、前衛的な像や、独特な手法でマンダラを表現した洞窟なども作られており、古い物のみに捉われない、ある種「生きた寺院」の様相を見る事ができる。 石手寺の創建は神亀5年(728年)、伊予の豪族であった越智玉純(おちのたまずみ)が熊野権現を祀り、翌年に行基が安養寺(あんようじ)という名の寺院を開いた事に始まるという。当時は法相宗の寺院であったが、その後の弘仁4年(813年)に空海が訪れ、真言宗に改宗した。さらに寛平4年(892年)に石手寺という名に改められるのだが、それには衛門三郎(えもんさぶろう)の伝説が語られている。衛門三郎は河野家出身の豪農であった。ある日、屋敷の前にみすぼらしい僧侶が立ち、托鉢を願った。何度追い払っても毎日やってくるので、怒った衛門三郎は僧侶の持つ鉢を叩き落し、割ってしまった。すると八人いた衛門三郎の子どもが次々亡くなり、ついには全員死んでしまったという。 托鉢僧が弘法大師である事を悟った衛門三郎は、全てを捨てて大師の後を追った。しかし四国を20周しても大師と会う事はできず、逆順に周った21周目において、ついに衛門三郎は病に倒れてしまう。すると大師が現れ、衛門三郎の手に石を握らせた。衛門三郎はそのまま息を引き取ったのだが、その翌年、伊予国の領主であった河野息利(こうのおきとし)に生まれた長男の手に、「衛門三郎再来」と書かれた石が握られていたという。その石は河野氏により安養寺へと納められ、その際に安養寺は石手寺へと改められた。なお、この衛門三郎は、空海の足跡を辿る四国遍路の始祖とされている。その後、石手寺は河野氏の庇護のもとに栄え、中世には無数の子院を持つ大寺院に発展した。 戦国時代には、土佐の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)が伊予へと侵攻し、石手寺もまた永禄9年(1566年)に戦火を被ったものの、幸いにも主要な建造物は無事であった。今もその境内には、国宝の二王門を始め、本堂、護摩堂、訶梨帝母(かりていも)天堂、鐘楼、三重塔(いずれも重要文化財)といった鎌倉時代後期から室町時代前期にかけての建造物が現存しており、そのような古建造物がひしめく中、般若心経を読経するお遍路の声が響き渡り、線香の煙が立ちこめるといった、札所ならではの光景を見る事ができる。また、かつては門の前に、鎌倉時代後期に作られた、非常に整った意匠の五輪塔(重要文化財)が鎮座していたが、これは現在、石手寺の裏手に移されている。 石手寺の境内入口からは、扇子や数珠などを売る仲見世の回廊が伸びており、二王門はそのすぐ先にたたずんでいる。松山藩士の野田石陽(のだせきよう)が江戸時代後期に記した「伊予古蹟志」によると、この二王門は鎌倉時代後期の文保2年(1318年)、河野通継(こうのみちつぐ)によって建てられたとされており、現にこの二王門には鎌倉時代の特徴が見られる事から、その頃の建立と考えられている。日本古来の建築様式のみで建てられた純和様の楼門であり、屋根はやや反りが見られる入母屋造で、本瓦葺。三間のうち中央間にのみ扉を開く三間一戸で、両脇間にはこれまた鎌倉時代に作られたとみられ、寺伝によると運慶一門の作と伝わる金剛力士像を安置している。 組物は下層、上層ともに三手先(みてさき)である。ただし、下層の三手先は三手目の巻斗(まきと)が通常より一つ多く、故にそれによって支えられている回縁(まわりぶち)もまた非常に大きくせり出している。中備(なかぞえ)は、下層の正面三間が透かし彫りが施された本蟇股(ほんかえるまた)、下層の側面および上層はすべてが間斗束(けんとづか)だ。本蟇股に施されている宝相華唐草文(ほうそうげからくさもん)の彫刻は非常に緻密かつ優美なもので、この時代の代表作と評されている。また、間斗束には下方に僅かな開きを見る事ができ、これは直線的な間斗束から末広がりに下方が開いた撥束(ばちづか)へと変化する、その過渡期にあるもとのされている。 2010年03月訪問
2011年06月際訪問
【アクセス】
伊予鉄道城南線「道後温泉駅」より徒歩約20分。 【拝観情報】
境内自由。 ・般若寺楼門(国宝建造物) ・長保寺大門(国宝建造物) Tweet |