長保寺本堂、長保寺多宝塔、長保寺大門

―長保寺本堂―
ちょうほじほんどう

―長保寺多宝塔―
ちょうほじたほうとう

―長保寺大門―
ちょうほじだいもん

和歌山県海南市
国宝 1953年指定


 和歌山県海南市、海沿いの道より少し山側に入ったところに長保寺はある。この長保寺には鎌倉時代から室町時代初期に建てられた本堂、多宝塔、大門が現存しているのだが、中世のほぼ同一時期に建てられた寺院建築がまとまって残っている例は少なく、それもこのように主要建造物がそろっているのは大変貴重。個々の建築にも特徴が見られることから、長保寺のこの三つの建造物はそれぞれが国宝に指定されている。また、長保寺は紀州徳川家の菩提寺としても名高く、その背後の山の斜面には歴代藩主の墓所が残されているのも特筆すべきである。




長保寺本堂を正面より臨む

 長保寺の興りは平安時代の長保2年(1000年)、一条天皇の勅願を受けて、慈覚大師円仁の弟子にあたる性空(しょうくう)が開いたと伝わっている。長保寺という寺名は、その創建時の年号から付いたものだ。寛仁元年(1017年)までには七堂伽藍が揃い、12もの子院が建てられ伽藍が整えられた。この当時の境内は現在の位置より西にあったのだが、鎌倉時代末に現在の位置に移され、今に見られる伽藍となった。戦国時代には世の中の情勢悪化と共に衰退するものの、江戸時代に紀州徳川家の菩提寺に定められ、その庇護のもと寺勢を取り戻し今に至る。




本堂軒下の光景

 長保寺の本堂は延慶4年(1311年)に建てられた。本瓦葺の入母屋造りであるその建物は、桁行、梁間それぞれ5間の正方形であり、正面に2間の向拝が付いている。桁行5間、梁間5間という、いわゆる方五間のスタイルは、鎌倉時代に中国から伝わった禅宗様(唐様)に多く用いられたものであり、他にも組物など禅宗様の特徴を多く見られる。しかしながらこの本堂は、同時に連子窓や妻壁の扠首(さす)など、和様の特徴も併せ持つ、折衷様の建築となっている。なお、本尊の釈迦如来像が納められている厨子もまた本堂と同時期のものであり、本堂の附けたりに指定され国宝である。




上下のバランスが美しい、長保寺多宝塔

 本堂の右手前に立つ多宝塔(下部が方形、上部が円形の二重の塔)は、本堂よりやや時代の下る正平12年(1357年)に建てられたものである。本堂が和様と禅宗様の融合した折衷様であるのに対し、この多宝塔は純和様の様式である(ただし内部の須弥壇は唐様となっている)。これは多宝塔がそもそも日本独自の塔であることに起因するのであろう。一重、二重のバランスが良く、それぞれの面に三つずつ添えられた透かし彫りの蟇股(かえるまた)など、細部の意匠も見事なものとして、多宝塔の傑作の一つに数えられている。




斜め後方より見る長保寺大門

 大門は嘉慶2年(1388年)に後小松天皇の勅宣により再建された。欄干を持つ三間一戸の楼門であり、屋根は入母屋造りで本瓦葺。和様を基調とし、木鼻など細部にも室町時代初期の特徴が現れている。二階には扁額が掲げられているが、これもまた大門に付属する国宝である。なお、大門の左右両間には金剛力士像が奉られている。この金剛力士像は弘安9年(1286年)に作られたものであると伝わっており、像内より発見されたと見られる文章からも、その年に作られたものである可能性は高いと考えられている。すなわち、この金剛力士像は大門の建立よりも102年早くに作られたこととなる。




初代藩主、徳川頼宣の墓

 徳川御三家のひとつ、紀州徳川家の菩提寺である長保寺の裏山には、歴代藩主たちの墓所がある。広大な敷地に作られたその墓所内には、初代藩主徳川頼宣から15代藩主徳川頼倫までの歴代藩主、およびその妻などが奉られている(ただし、後に江戸幕府八代将軍となった五代藩主徳川吉宗、同じく14代将軍となった徳川家茂の墓は江戸にあるため、ここには存在しない)。これらの墓は斜面に築かれた石垣の上に立ち、周囲を石の玉垣に囲まれてた立派なものであり、この紀州徳川家の墓所一帯は、近世大名墓所の代表例として国の史跡に指定されている。

2009年01月訪問




【アクセス】

JR紀勢本線「下津駅」より徒歩約30分。

【拝観情報】

拝観料300円、拝観時間9時〜17時。

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