遍路16日目:安芸市営球場〜高知県立のいち動物公園(33.7km)






 もう5月も半ばだというのに、いまだに朝は肌寒い。できれば温かい飲み物が欲しいところであるが、安芸市営球場の自販機ラインナップはすべて「つめた〜い」である。

 そろそろ初夏ということで自販機から温かい飲み物が取り除かれたのか、あるいはスポーツ施設なのであえて冷たい飲み物しかないのか。それは定かではないが、ただ一つ確かなことは朝の冷え込みで腰が痛む30歳のむさい男が固くなったパンを冷たい水でモソモソとかじっているということだけだ。

 心身ともになんともお寒い朝食となったが、太陽が昇ると途端に気温がぐっと上がってきた。昨日に続き今日も天気は良さそうだ。自然とテンションが上がり、意気揚々と安芸市営球場を後にする。


旧街道沿い、安芸市本町五丁目の町並み

 安芸郡の支配拠点であった安芸城は、安芸市街地から2kmほど北に位置している。しかし城の周囲に存在するのは武家町のみで、町人地はより港に近い土佐東街道沿いに発達した。現在も旧町人地にあたる本町には昔ながらの町家が数多い。

 ただし町の中心部に近い本町の東側は現在も商業地として現役であり、新しく更新された建物も多いため少々雑多な印象だ。もっとも、町として活気が感じられるのは非常に良いことである。

 一方で本町の西側は現在閑静な住宅街となっており、東側より古い建物の現存率が高い。途中には酒蔵もあり、しみじみとした風情が感じられる町並みだ。安芸の町並みといえば野良時計で知られる安芸城周囲の武家町ばかりが有名で国の重要伝統的建造物群保存地区にも選定されいるがあるが、旧街道沿いの町人町もなかなかどうして良い感じじゃぁないか。


腰に瓦を張った海鼠壁(なまこかべ)がシックで垢抜けた印象

 早速この町並みの感動を伝えるべくiPhoneの電源を入れたのだが(バッテリー節約の為、普段は電源を切っている)、その初期画面を見て我が目を疑った。ディスプレイの左上に「SIMなし」という5文字が表示されていたのだ。たちまち血の気が引き、続いて顔面から大量の汗が噴き出した。慌てて電源を入れ直してみるものの、やはり「SIMなし」の文字は変わらない。「え、おい、嘘……だろ?」

 携帯電話は「SIMカード」というICカードに電話番号や契約している通信事業者の情報が記録されており、これがないと電話回線を用いた通信を行うことは不可能だ。もちろん私のiPhoneにもSIMカードが入っており、今朝出発するまでは普通に通信できたのだが……ここに来るまでの道すがら、落としてしまったというのだろうか。

 SIMカードの有無を確かめてみようにも、iPhoneのどこにSIMカードが格納されているのか私は知らない。いろいろいじってもそれらしいスロットが見当たらず、結局なんだかよく分からないが、どこかに格納されていたはずのSIMカードをいつの間にかなくしてしまったらしいというぼんやりとした結論に達した。

 私は半べそかきつつ今歩いてきた道を引き返し、SIMカードが落ちていないか地面を探す。しかし安芸市営球場まで戻ってもそれらしきものは見当たらず、私はがっくりうなだれた。とりあえず携帯ショップを探すしかないか……私は肩を落としながら今一度iPhoneの電源を入れ直してみると「……あれ?」いつの間にやら「SIMなし」の文字は消え、いつも通りアンテナが立っているではないか。どうやらSIMカードをなくしたわけではなく、内部の接触不良だったようである。

 心底ほっとしたが、朝から1時間以上ロスしてしまった。いや、時間の浪費よりもそれ以上に精神面でかなり疲労した感じである。また同じ症状が起きないとも限らないので、携帯ショップを見かけたらSIMカードについて聞いてみることにしよう。そんなことを考えつつ、気を取り直して再出発である。


安芸の町並みを抜けると、ちょっとした広場に出た

 この広場はかつて土佐電気鉄道安芸線の終着駅があった場所らしい。土佐電気鉄道は大正時代から昭和初期にかけて敷設された路線で、南国市の後免と安芸を結んでいたが昭和49年(1974年)に廃線になったという。いわばごめん・なはり線の前身といった立ち位置の鉄道なのだろう。

 遍路地図を確認すると今日は海沿いを延々と歩くことになりそうだが、どうやらその道筋は土佐電気鉄道の廃線跡のようである。この広場はそのスタート地点というわけだ。


広場から廃線路を辿り、安芸港を横切る


軌道の痕跡がうっすら見える廃線路は堤防の上を続いていく

 その廃線路は思った以上に海に近く、風や波の影響をもろに受けそうである。台風が来た時など、さぞ運休が多かったことだろう。現在のごめん・なはり線は海から離れた内陸側を通っているが、それも納得できるというというものだ。


堤防で釣りをしている人が菅笠を被っており親近感が湧いた


ひたすら堤防上を歩いていくと、ちょっとした岬に差し掛かった


岬の先端には、八流山(やながれざん)極楽寺というお寺がある

 このお寺は大正13年(1924年)に田辺寛道師が一刀三礼(いっとうさんらい。ひと彫りごとに三度礼拝する)で不動尊を刻み、それを祀ったことに始まるという。比較的新しい霊場ではあるものの、注目するのはその立地だ。

 極楽寺のある切り立った岬の下には千丈岩と呼ばれる岩場が広がっており、そこではかつて空海が修行をした、あるいは衣を洗ったとされる。いわゆる御霊跡の一つである。


極楽寺の境内からは千丈岩が一望のもとだ

 まぁ、よくある空海伝説の一種であるが、眼下の荒々しい千丈岩と遥か彼方まで続く水平線のコントラストがなかなかに素晴らしく、伝説を抜きにしても寺を構える場所として申し分がない。いや、こうして人々の心を惹きつける印象的な場所だからこそ、伝説が生まれ、受け継がれ、こうして霊場として定着したのだろう。


岬を越えた先には砂浜が広がっていた。琴ヶ浜というらしい

 安芸からの廃線路は堤防の上に続いていたが、この琴ヶ浜では海岸沿いに広がる松林を横切っていく。平坦かつ車が進入してこないので歩きやすく、アスファルト舗装なのでコンクリートの堤防より足に掛かる負担も少ない。近世の鉄道跡なので昔ながらの遍路道というわけではないが、このような廃線路を歩くのもなかなか楽しいものだ。

 ゴキゲンに歩いていると、ふと道の傍らに立派な小屋が建っていた。入口のサッシ戸は大きく開かれ、「いらっしゃいませ」と書かれた看板が掲げられている。どうやら接待所のようである。


一息入れる場所としてちょうど良い場所にあった接待所

 小屋の前では一人のおばあさんが花壇の手入れをしていたのだが、私の姿を認めるや否や作業の手を休めて「休んでいきませんか?」と中へ招かれた。そろそろ休憩しようと思っていたところだったので、ありがたく休ませて頂くことにする。……と、入口から一歩中に入ったところで私は思わず目を見張った。


なんだか色々な意味で凄い接待所だ

 室内には遍路の姿をしたマネキンが並んで座り、壁にはズラリとイラストや箴言が記された紙が張られている。いやはや、なんともインパクトのある光景だ。

 しかし外観の印象より広々としており、テーブルや椅子も多く、複数のグループがカチ合っても問題ないキャパシティである。折り紙細工や編み物のクッションなど、手作り感あふれる風情で優しさと温かみが感じられる。うん、この雰囲気、嫌いじゃない。

 どうやらこの接待所を運営されているおばあさんは有名なお人のようで、遍路地図にもきちんと掲載されていた。おいしいコーヒーを頂き、お礼を述べて後にする。


心身ともにリフレッシュして足取り軽く浜辺の遊歩道を行く


昔ながらの木造舟があったり、なんとも情緒的な光景の砂浜だ


廃線路は松原の中を通り抜けていく

 東西約6kmにも渡って広がるこの琴ヶ浜の松原は、津呂港や室戸港を築いた土佐藩家老、野中兼山の時代から守られてきた防風防潮林だそうだ。木々が太陽光を遮ってくれるのでとても涼しく、また木漏れ日が落ちる中を歩くのは清々しいものである。おそらく江戸時代の遍路も琴ヶ浜を横切る際はこの松原の中を歩いていたことだろう。

 しばらく松原を歩いていくと、廃線路はやがてごめん・なはり線と合流し、その高架と並走して歩く形となった。その途中、高架下のスペースに数棟の小屋が建ち並ぶ一角があり、私は不思議に思って足を止めた。どうやら無料で宿泊できる善根宿らしい。


立地といい、外観といい、独特な雰囲気を放つ善根宿である

 先ほどの遍路小屋は開放的で明るいたたずまいであったが、こちらは少々閉鎖的で怪し気な雰囲気である。とはいえ英語表記で外国人にも対応していたり、男女別に部屋が分かれているなど、パッと見の印象よりしっかり管理されているようだ。

 夕方ならばぜひともお世話になりたいところであったが、残念ながらまだ時間は正午前。スルーして先へと進もう。以前も通夜堂がある東洋大師に着いたのは午前中であったし、どうも私は善根宿と歯車が合わないらしい。


琴ヶ浜を抜けると、廃線路は国道55号線と共に手結山(ていやま)を上る

 この坂道を上り詰めたところにはトイレ付きの休憩所が設けられていた。ちょうど正午ということもあり、そこでお昼ご飯を食べることにする。メニューは昨日無人販売で買った小夏と、スーパーで買ったいなり寿司だ。

 いなりを一口食べて気が付いた。どうも酢飯から柚子の風味が漂ってくるのだ。気になってパッケージを確認すると、なるほど、柚子酢を使っているようである。そういえば昨日の夕食に食べた弁当のおかずも柚子の風味がするものばかりだった。柚子胡椒も有名だし、やはり高知といえば柚子なのだろう。柚子風味のいなり寿司はおいしいし、小夏もジューシーかつ甘酸っぱくて最高だ。シトラス好きとして、高知県は実にたまらない天国のような土地である。

 柑橘の爽やかな香りと味を満喫したところで歩行再開だ。手結山の下りに差し掛かったところで廃線路は再び国道55号線から離れ、切通しの道となった。途中には古めかしいトンネルも二箇所あり、これがまた独特な雰囲気でテンション上がる。


掘り切られた道を進んでいくと、ぽっかり口を開けるトンネルが


トンネルの内部は碍子(がいし)が残っており、廃線路であることを物語っている

 また二箇所のトンネルの間には手結岬へと抜けられる道があり、せっかくなので寄り道してみることにした。岬とか先端とか突端とか、そういう言葉に私は弱いのだ。


手結岬にはかわいらしい灯台が立っていた


岬の下に降りてみると、これまたかわいらしい夫婦岩が

 室戸岬の夫婦岩を見た後だとだいぶ小さく思えるが、これでも高さは7.5m以上ある。左の男岩が7.55m、右の女岩が7.53mとのことで、全国に夫婦岩は数あれどほぼ同じ大きさの夫婦岩は珍しいそうだ。そういわれれば、確かに夫婦岩は大きさが不揃いなことが多い気がする。だからどうしたという感じはするが、まぁ、なんだか縁起は良さそうだ。


廃線路へと戻り、二つ目のトンネルを抜けるとそこは手結の町だ

 手結は長宗我部地検帳にも記されている昔からの漁村とのことで、江戸時代になると津呂港や室戸港と同じく野中兼山によって港が整備された。その工事は他の二港よりも早い慶安3年(1650年)に始まり、明暦3年(1657年)に竣工している。人力で陸地を掘削して築いた掘り込み港湾であるのは津呂港などと同じだ。

 歴史のある港のようだし、せっかくなのでこちらにも寄ってみよう。何の気なしに廃線路から降りて手結港に出てみたのだが、これが本当に凄い港で驚いた。


築港当時の石積みがそのまま残っているのだ

 津呂港や室戸港は後世に改修の手が加えられていたが、手結港は江戸時代の頃のまま現役で利用されているのである。しかも掘り込み港としては日本最古とのことで、歴史的な意義も極めて大きい。こんな港が現存しているとは、まったく思いもしなかった。


港の入口を横切る橋は、跳ね上げることができる可動橋だ

 野中兼山は土佐藩の家老として藩政改革を担い、こうした港湾整備を始め新田開発や他藩との交易などで藩の財政を好転させた。昔からの山内家の家臣である“上士”のみならず、かつて土佐を治めていた長宗我部家の旧臣である“郷士”をも役職に登用するなど、革新的かつ効率的な人物だったのだろう。

 ただ、ストイックに改革を推し進めようとした兼山は領民から年貢を厳しく取り立て、華美贅沢を禁止した。それにより領民の不満が募り、また郷士を登用したことで上士からの反感を受けて晩年に失脚。兼山の死後も一族は幽閉の憂き目にあう。

 しかしその功績はまさしく土佐藩の礎を築いたというレベルである。兼山がいなければおそらく藩政は安定せず、幕末に土佐藩の志士藩士が活躍することもなかっただろう。その先見性と技術力の高さは、築港から350年経った現在もそのまま活用されている手結港を見れば一目瞭然だ。


手結を出ると程なくして廃線路は終わり、遍路道は旧街道へと続く

 安芸から続いてきた廃線路は手結のすぐ隣に位置する夜須駅で終了となり、そこから先は現在のごめん・なはり線の高架線路に上書きされている。遍路道はその少し先で鉄道から離れ、旧土佐東街道に沿って続いていく。

 道の両端には家屋が途切れることなく続いており、普通の住宅街のような様相を呈してきた。大きな町に近づいてきたなと察する。


その途中には宿泊可能な遍路小屋があった

 この遍路小屋には布団や毛布が用意されており、どうやら宿泊OKなようである。しかし周囲には家屋が多く、いささか人目が気になりそうだ。日が暮れたのに寝場所が確保できてない時などには、駆け込みシェルターとしてありがたい存在となるだろう。

 ところで、徳島県の日和佐を出て以降、これまで私はずっと海沿いの道を歩いてきた。毎日夕陽が沈む方向へ、西へ西へと歩き続けてきたのである。しかしながら、赤岡という町に差し掛かったところで旧街道は北へと進路を変えた。

 それはすなわち、ついに海から離れる時が来たということである。日和佐からの遍路道は海と山が直結しているような、地形が険しく平坦な土地が少ない漁村を渡り歩いてきた。しかし、ここにきて内陸にも土地が広がる平野部――高知県の人口の大部分を占める高知平野に入ったのである。もちろん、県庁所在地である高知市もこの平野にある。どうりで街道沿いに建つ家屋の数が増えたわけだ。


北に折れた道沿いにも古い町家が残っている
赤岡は土佐東街道における主要な町のひとつとして栄えたのだろう


旧街道沿いとはいえ普通の住宅街という感じだが、道端には古い道標も残る

 現在時刻はちょうど15時。次なる札所の大日寺は約5km北にある。今日は手結岬や手結港などいろいろ寄り道したので少々時間が心配だったのだが、これなら納経所が閉まる17時までには問題なく到着できるだろう。

 ……などと余裕ぶって写真を撮ったりスーパーで買い物していたら、いつの間にか時間がカツカツになってしまっていた。早歩きで国道55号線を進み、香南市の中心地である野市からは西へと向かう旧土佐東街道に別れを告げ、県道22号線を北へと進む。


車道から丘の上へと続く未舗装の遍路道に入る


雰囲気たっぷりな石段を上り詰めたところにあるのが――


第28番札所の大日寺だ

 ようやく高知平野に出たので札所も平地にあるのかと思いきや、この大日寺もまたこれまでの土佐の札所と同様、ちょっとした山の上に境内を構えていた。さすがは土佐国、修行の道場である。疲労が溜まった体に鞭を打ちつつ「えっほえっほ」と石段を上り、なんとか16時半頃到着した。

 寺伝によると、大日寺は奈良時代の天平年間(729〜749年)、聖武天皇の勅願により行基が創建したという。その後は廃れていたが、弘仁6年(815年)に空海が楠の大木に爪で薬師如来像を彫って復興させたという。

 以降、このお寺は大日如来坐像を本尊に祀ることから大日堂と称され、江戸時代には土佐藩の祈願所として発展した。しかし明治時代に入ると廃仏毀釈によってあえなく廃寺になってしまう。明治17年(1884年)に大日寺として再興し、現在の本堂は平成9年(1997年)に再建されたものだ。再建とはいえ昔ながらの古式和様で建てられており、非常に美しく立派な構えのお堂である。

 お参りと納経を済ませて門前で一息ついていたところ、不意に奥の院への案内が目に留まった。そう遠いわけでもないようなので、見にいってみることにする。駐車場を通り過ぎ、細い山道を少し歩いていくと、木々に囲まれた小さなお堂が建っていた。


大日寺の奥の院「爪彫り薬師堂」である

 かつてこの奥の院には、寺伝にある空海が爪で薬師如来像を彫った大木が聳えていたという。しかし明治初頭の台風によって倒れてしまい、その跡地に祠を建てて霊木を祀ったのが現在の姿だ。首から上の病気に霊験があるといわれており、もしご加護があった場合には穴の開いた石を奉納するのが習わしなのだという。


お堂の中を覗いてみると、確かに穴の開いた石が納められていた

 また爪彫薬師の袂からは清水が湧いており、カラカラに乾いた喉を潤させて頂いた。非常に冷たく気持ち良く、生き返った気分である。

 さて、時間は17時を過ぎ、太陽も沈みかけてきた。早いところ寝床を探さなければならない。大日寺を後にした私は、とりあえず西にある高知県立青少年センターへと向かうことにした。安芸市営球場に幕営させてもらった昨日の経験を踏まえ、今日もまたスポーツ施設の駐車場でテントを張らせて貰おう思ったのだ。


大日寺から遍路道を少しだけ進み、青少年センターに向かう

 しかしながら、その施設は思っていたより人の出入りが激しく、そして管理が厳しそうな雰囲気であった。ここでの幕営は不可能と判断し、そのままスルーして通り過ぎる。都市部に近くなり市街地が増えてくると、寝床の確保が難しくなるのが悩みの種だ。

 焦る気持ちを抑えつつ、コンビニで買ったラムネ味のスムージーを飲みながら地図を眺める。どうやら大日寺の南側にも体育館があるようだ。……そういえば、大日寺までの道すがら、それらしき施設の案内標識が出ていた気がする。うん、そちらに行ってみよう。

 再び大日寺まで引き返し、先ほど歩いてきた道を南へ戻る。その途中、男子高校生に「大日寺はそっちじゃなく、こっちですよ」と言われたが、「ちょっと戻るんで」と我ながら意味不明な返事をしてごまかした。さすがに野宿する場所を探しているとは言いづらい。

 結局、野市総合体育館の奥にあった「のいち動物公園」の駐車場にテントを張らせて頂いた。夕食を食べて寝袋に体を横たえると、どこからともなくバイクをふかす音が聞こえてきた。そういえば今日は土曜日、バイクに乗った怖いお兄ちゃんたちが一晩中頑張ってしまいそうな日である。まさかとは思うが、ひと気のないこの駐車場が溜まり場になっていたりなんてことは……いやいや、ないよな?! 一抹の不安を覚えつつ、程なくして意識は遠ざかっていった。