遍路17日目:高知県立のいち動物公園〜高知市内ビジネスホテル(24.6km)






 早朝、頭に霞がかかったまま荷物をまとめ、あくびを噛み殺しつつテントを畳む。どうにもこうにも眠気がしつこく残っており、すっきりとしない目覚めである。心配していた暴走族の襲来はなかったものの、山の上に聳え立つ風力発電の風切音が意外とうるさく、しかも一晩中回り続けておりなかなか寝付けなかったのである。ただ、この体に残るだるさは単なる寝不足のみならず、疲労が蓄積しているというのもあるのだろう。

 こういう時には無理をせず、宿に入ってしっかり休むに限るというものだ。ちょうど良く、今日は前もって予約しておいた高知市内のビジネスホテルに泊まる予定である。現在地からの距離は約25km程度とノルマは軽めだ。まぁ、のんびり行くとしよう。

 昨日も歩いた県道22号線を北へと進み、大日寺の門前へと戻る。そこから西へと延びる遍路道に入り、住宅街を抜けると広々とした田園地帯に出た。これほど開放的な景色を拝むのは実に久しぶりである。


水路が走る田園地帯。山までの距離が遠いのに新鮮さを感じる

 高知平野の中でも東部に広がるこの香長(かちょう)平野は一際開けた土地である。その歴史は先史時代にまで遡り、弥生時代や古墳時代の遺跡も数多い。飛鳥時代には物部氏の勢力下にあったとのことで、平野を流れる川の名前も物部川だ。

 古代には土佐国の国府が置かれ、かの紀貫之もこの地で土佐守としての職務を全うして京へと帰還。その旅程をかな言葉で綴ったのが『土佐日記』である。

 江戸時代になると野中兼山が物部川に山田堰を築き、暴れ川として知られていた物部川を治めると共に水路を整備して新田を開発した。それらの水田は「堰下三万石」とも称され、土佐藩の財政に大きく貢献したという。まさに高知の穀倉というべき地域なのだ。


物部川に架かる橋を渡る
川の中では朝からたくさんの釣り人が竿を振っていた


くねくねとした道筋が印象的な水田だ

 物部川を越え、道標を頼りに香長平野の田園地帯を進んでいく。この辺りの田んぼは一枚あたりの区画がまちまちで、なおかつ境界が曲がりくねっている。近現代に圃場整備された水田は規格化され、区画も直線的に直されるのが普通であるが、この辺りは江戸時代のまま再整備の手が入っていないらしい。山間の棚田とかならいざ知らず、平地部で昔のままの水田が残っているのは珍しいのではないだろうか。

 右へ左へぶれる道を楽しみながら歩いていくと、これまた昔ながらのたたずまいを残す松本集落に到着した。その外れには弘法大師を祀る「松本大師堂」が建っていたのだが、そのお堂がなかなかにユニークで感心した。


遍路小屋を兼ねていて、休憩ができる大師堂である

 以前の松本大師堂は普通の小堂であったようだが、老朽化で建て替える際に遍路小屋としての機能を持たせたらしい。向かって右側は吹き抜けで開放されているが、左側には壁が張られていて雨風もしのげそうだ。休憩はもちろんのこと、野宿をする場所としても良さそうである。……昨日ここまでたどり着いていれば、より快適に眠ることができたのだろうか。そんなことを思いつつ、ベンチで一息入れてから先へと進む。


この辺りでは古い道標をよく見かける

 この道標には「国分寺 三十五町」と次の札所までの距離が刻まれている。そう、次なる第29番札所は「土佐国分寺」なのである。奈良時代の天平13年(741年)、聖武天皇の詔により日本全国68箇所に築かれた国分寺のうちのひとつだ。

 徳島県の阿波国分寺も第15番札所として四国遍路の霊場であったが、それに引き続き土佐国分寺もまた札所のひとつなのである。ちなみに少々先のネタバレになってしまうが、愛媛県の伊予国分寺、香川県の讃岐国分寺もそれぞれ四国八十八箇所霊場の札所として組み込まれている。まぁ、阿波、土佐と続けば、残りの伊予、讃岐の国分寺も遍路の札所なのだろうと察せられるものだ。


道標に従い進んでいくと、程なくして「お遍路休憩所」なる施設があった

 ここにも休憩できる場所があるのか。中を覗いてみると畳が敷かれており、奥には布団も用意されているようである。案内を見るに、どうやら300円で宿泊が可能な善根宿のようだ。先ほどの松本大師堂で野宿するのも悪くはないが、こちらにお世話になるのも良さそうである。ことごとく、昨日のうちにもう少し進んでいればと悔やまれる。

 まぁ、過去のことを悔やんでもしょうがない。引き続きくねくねと蛇行する田園地帯の中の道を歩いていく。その景色を眺めていて気が付いたのだが、この辺りでは水田の中に小さな祠を祀っていることが多い。


田んぼの中に祠が鎮座しているのだ


こちらは盛り土に葺石が施されている

 気になったので調べてみると、どうやら高知県には「オサバイ様」という田んぼの神様を祀る風習があるそうだ。これらもまたオサバイ様なのだろう。収穫量を減らしてまで田んぼの中に築かれたままの祠を見るに、この地域の水田からは昔ながらの伝統を重んじる矜持が感じられる。

 西へ西へと続いていた遍路道はJR土讃線の線路を越え、さらに少し進んだところで今度は北へと進路を変えた。歩道の狭い県道45号線をみちなりに進んでいくと、やがて国分川に差し掛かった。

 今でこそ立派な橋が架かっているが、明治30年(1897年)までは橋がなく「地蔵渡し」と呼ばれる箇所をじゃぶじゃぶ歩いて渡っていたそうだ。現在も国分川の北岸には文化7年(1810年)の銘がある地蔵尊が鎮座しており、「地蔵渡し」の名残を見ることができる。


かつての「地蔵渡し」の由来となった地蔵尊


その裏手から伸びる畦道の先に見える木立の杜が――


第29番札所、土佐国分寺である

 6時過ぎに出発してから約2時間弱、9時に国分寺へ到着した。修行の道場こと土佐国にしては珍しく平地の寺院である。寺伝によると、土佐国分寺は行基が刻んだ千手観音像を本尊として創建したとされる。その後の弘仁6年(815年)には空海が毘沙門天を刻んで奥の院に安置し、その頃に真言宗へと改宗された。

 ちなみに国分寺の東側一帯は、かつて紀貫之が務めていた国府の跡である。一般的に、国分寺は律令制の崩壊に伴い国府と共に衰退する運命にあったが、土佐国分寺は真言宗の道場として定着していた為かその後も存続していった。

 現在に残る金堂は土佐国の戦国大名、長宗我部国親(ちょうそかべくにちか)によって永禄元年(1558年)に再建されたもので、室町時代の特徴が残る古式の仏堂として国の重要文化財に指定されている。また境内の入口に構えられた楼門は江戸時代前期の明暦元年(1655年)に土佐藩二代藩主山内忠義(やまうちただよし)が建て、金堂の西に建つ大師堂は江戸時代後期の文化二年(1805年)に10第藩主山内豊策(やまうちとよかず)が寄進したものだ。他にも平安時代前期の梵鐘や平安時代中期の薬師如来立像など、土佐国分寺に伝わる什物は数多い。

 境内は背の高い巨木に囲まれており、歴史の重みが感じられる。境内を取り囲む白壁を境に、まるで時代が変わったかのような印象を受けた。明治の廃仏毀釈の影響が大きい高知県の仏教寺院において、これほど昔ながらの様相を残すところは少ないだろう。境内からは古瓦が出土しており、また境内を取り囲む土塁や塔の礎石も現存することなどから国の史跡にも指定されている。


お参りと納経を済ませ、境内の雰囲気を堪能したのち、10時に出発


田園地帯を抜け、国分川沿いの道へと入る


菅笠をかぶったおじいさんが農作業の休憩をしていた

 昨日も安芸で菅笠を被った釣り人を見かけたが、今日は農作業のおじいさんである。高知県では屋外で作業をする際には菅笠が標準装備なのだろうか。確かに普通の帽子より陰となる部分が大きく便利であるが。遍路文化が根付いている分、菅笠を被ることへの抵抗は少ないだろうし、他の地域より入手が簡単というのも大きいのだろう。

 「なるほどなぁ」と勝手に納得しつつ遍路道を進む。水田沿いの細道から車道へと入り、高知大学のキャンパスを通り過ぎると、道路は緩やかな上り坂となった。その途中には丸太で築かれた遍路小屋が設置されていた。


企業の敷地入口に設置された遍路小屋だ

 敷地へ入る車の邪魔にならないように築かれているのでやや狭い印象だが、二、三人程度ならば問題なく休憩できるだろう。逆に言えば複数のグループで利用するのは難しそうだ。ちょうど正午を回ったところだったので昼休みにしようかと思ったのだが、既に一組のご夫婦が休憩していた。残念、昼食はお預けか……と思いきや、ちょうど休憩を終えるところだったらしく、私と入れ違えで出発していった。ひょっとしたら、息を切らせながら坂道を上ってくる私の姿を見て譲ってくれたのかもしれない。

 ザックをおろし、改めて遍路小屋に入る。意外とスペースがあって寝ることもできそうだが、やはり企業の敷地ということで野宿に使うのは厳しいだろうか。いや、夜勤のない会社ならば夜間は人がいなくなるだろうし、意外に安眠できるかも……などと考えてしまう。どうも最近、東屋や遍路小屋があると無意識のうちに野宿できるかどうかという視点で観察するようになってしまった。野宿遍路あるあるである。

 ちなみに本日の昼食はカロリーメイトのメープル味である。遍路を始めてからというものの、カロリーメイトにはお世話になりっぱなしだ。かさばらず、かつ効率的に栄養を摂取することができる。私はフルーツ味が一番好きなのだが、たまには違う味を試してみようと、初めて見るメープル味に手を出してみた。メープルシロップの風味が濃厚で悪くはない、のだが……やはり私はサッパリ爽やかなフルーツ味が一番好きだ。

 手早く昼食を終えて遍路小屋を後にし、さらに坂道を上っていくと、程なくして逢坂(おおさか)峠にたどり着いた。ここを越えればいよいよ高知市に突入だ。


峠の向こうには高いビルがにょきにょきと生えている。久々に見る都会だ


坂道を下り、古い家屋が並ぶ小路を行くと――


第30番札所、善楽寺に到着した

 パッと見では「なんとも綺麗に整備されてたお寺だな」という印象であった。本堂は真新しく、境内には手入れのされた木々や花が咲いている。軽快で気さくな感じであるが、失礼ながら霊場としてはやや重みに欠ける感じがした。重厚な歴史が感じられた土佐国分寺とは対照的である。というのも、やはりというか、なんというか、ここもまたかつての廃仏毀釈によって翻弄された札所なのだ。

 四国八十八箇所霊場ではそれぞれの札所について唄った御詠歌が存在する。善楽寺のものは「人多く たち集まれる一ノ宮 昔も今も栄えぬるかな」である。もうお分かりだろう、本来の札第30番所は土佐一ノ宮であり、善楽寺はその別当寺のひとつという位置付けだったのだ。事実、善楽寺は土佐一ノ宮こと土佐神社の境内に隣接している。

 しかし明治維新の神仏分離令によって神社から仏教的な要素が取り除かれることになり、善楽寺はあえなく廃寺となった。善楽寺の本尊であった阿弥陀如来像は、同じく一時は廃寺になったものの明治8年(1875年)に再興した安楽寺へと移され、以降はこの安楽寺が第30番札所を担っていたという。ところが昭和5年(1930年)に善楽寺が再興すると、今度は善楽寺と安楽寺のどちらが正当な札所なのかということで論争となり、第30番札所が二箇所存在する事態に陥った。さながら元祖と本家で主張し合うラーメン屋の屋号争いのようである。長らくそのような状態が続いていたものの、平成6年(1994年)にようやく善楽寺を第30番札所と定め、安楽寺はその奥の院と位置付けることで決着した。

 しかしながら、私としては現在どのお寺が札所なのかということよりも、昔の遍路が何に対して祈りを捧げてきたのかということを重視したい。御詠歌にもある通り、第30番札として認知されていたのは一ノ宮である。納経や朱印の授与は別当寺が担当していたのかもしれないが、参拝の対象はやはり一ノ宮本体と考えるのが自然である。私が何を言いたいかというと、要するに善楽寺のみならず一ノ宮にもお参りをしようぜということだ。


といワケで土佐一ノ宮こと土佐神社にも参拝する

 土佐神社の社殿は拝殿の左右に翼殿が伸びる独特なもので、本殿と併せて上から見るとトンボのような十字型に見えることから「入蜻蛉(いりとんぼ)」と呼ばれている。現存する社殿は土佐国を統一した長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)が元亀2年(1571年)頃に再建したもので、重要文化財に指定されている。


大勢の遍路でごった返す善楽寺とは対照的に、静かで静謐な雰囲気だ

 鬱蒼とした社叢に囲まれた土佐神社には国分寺と同じく歴史を積み重ねてきた趣きがあり、多重に重なる杮葺(こけらぶき)の屋根が実に良く映える。なんて美しい神社なのだろうか。参拝客は地元の方々ばかりで土佐神社に立ち寄る遍路は少ないようだが、善楽寺だけで満足してしまうのは非常にもったいないことだと思う。


石垣が連なる参道を歩いて土佐神社を後にする


入口の楼門は寛永8年(1631年)に築かれたものだ
国分寺の山門と同じく山内忠義の寄贈である

 門を出て一礼し、ふぅと息を吐いて時間を確認するとまだ14時前。もう高知市内に入ってるし、このままだと少し早目にビジネスホテルに着いてしまいそうである。そんなことを考えつつ歩いていると、「重要文化財 旧関川家住宅」という案内板が目に留まった。


ほう、おもしろそうじゃないか、時間潰しに寄ってみよう


L字型の平面を持つ曲屋(まがりや)だ

 さすがは重要文化財に指定されるだけあって、とても立派な古民家である。墨書によると、主屋は江戸時代後期の文政2年(1819年)に建立もしくは改築がなされ、付随する二棟の蔵は明治時代のものであるという。

 江戸時代、土佐藩では長宗我部氏の遺臣を郷士と称し、藩主である山内氏の旧来からの家臣である上士と区別していた。郷士は地元に根差した庄屋や農業を営んでいることが多く、この旧関川家住宅は豪農であった郷士住宅の典型例であるという。

 現在は住宅地となっているが、城下から離れたこの辺りはかつて田畑が広がる土地だったのだろう。この家の質の高さを鑑みるに、関川家はさぞ有力な地主だったに違いない。


遍路道に戻り、少し進むと車道から離れて川の堤防を行く


やがて県道44号線と合流し、高知市街地への入口まで来た
奥に見えるのは五台山だ

 次なる第31番札所の竹林寺は、この先に聳える五台山の上に鎮座している。このまま真っ直ぐ南下するのが最短ルートであるが、それだと高知市中心部をスルーすることになってしまう。今日の遍路はここまでとし、市街地のビジネスホテルに向かおう。


高知駅に向かう途中にあった「ながさきや」という車屋

 長崎という名前を意識しているのか、「カステラは売っていません」とでかでかと書かれた看板が目を引く。いや、まぁ、そりゃ車屋なのだから当然だろうと思いきや、その下には「大好評カステラ車検」という垂れ幕。……色々と突込みどころの多いお店である。

 高知駅から繁華街を歩いてはりまや橋を目指す。それにしても、どこを見ても人、人、人。そして車、車、車だ。視界に入る情報量が多く、目が回りそうである。そのような中、歩道の脇に朱塗りの小さな橋が見えた。以前高知に来たときにも見た「はりまや橋」だ。


よさこい節に唄われたことで有名になり、こうして復元されている

 竹林寺の住職をしていた僧侶「純信」が、はりまや橋で町娘「お馬」にプレゼントするかんざしを買っていた。その後、純信はお馬と駆け落ちし、関所破りで御用となって国外追放になったという。悲恋の物語として知られているが、僧侶の妻帯が禁じられていた当時、遍路の札所にもなる有力寺院の住職が戒律を破ったとなると、ダメ坊主という誹りを受けてもしょうがないように個人的には思う。

 iPhoneの地図を頼りに予約を入れたビジネスホテルをなんとか見つけ、フロントで二泊分の料金を支払いチェックインする。明日は原稿執筆日に充てるつもりだ。そろそろ掲載日が近いことだし、これまでの遍路体験を記事にまとめ、編集部へ入稿しなくてはならない。丸一日ホテルに篭ることになるだろうし、実質の休息日だ。

 部屋にザックを置き、洗濯物を済ませてから繁華街へ赴く。携帯ショップを発見したので店員さんに声を掛け、時々「SIMなし」という表記が出る旨を報告した。店員さんはクリップを伸ばし、iPhoneの脇腹にある小さな穴に差し込む。するとカシャッという音と共にスロットが飛び出し、SIMカードが現れた。そんなところにあったのか。

 とりあえずSIMカードには問題がないとのことで、やはりiPhone内部の接触が悪くなっているのではないのかということだ。確かにこれまで、地図を見るときなどかなり強くiPhoneを握りしめていた気がする。今後は気を付けて扱うようにしよう。


ホテルで自転車を借り、駅北側のスーパーで食料を買い込んだ

 明日は一日という限られた時間で写真を加工し、レイアウトを決め、文章を書き切らねばならない。外出するのも面倒であるし、ホテルの部屋に籠城する覚悟である。閉店間際のスーパーマーケットに駆け込み、兵糧を買い込む。軍備は万端だ。

 ホテルに戻り、夕食を取るとすぐに眠気がやってきた。写真の取り込みくらいは今日のうちにやっておこうと思っていたのだが、まぁ、明日やればいいか。そうぼんやり考えながら弾力のあるベッドに転がると、そのまま意識が遠ざかっていった。