始発がやってくる前にテントをかたし、駅のベンチに座ってパンを食べる。朝食は毎日パンばかりであるが、これには二つの理由がある。 一つ目は、重量が軽いから。野宿遍路は人目につかない早朝に起きるのが鉄則なので、スーパーや個人商店はまだ閉まっている時間である。また野宿に適した場所は街から外れる場合が多く、24時間営業のコンビニがあるとも限らない。前日のうちに食料を購入しておく必要があり、必然的に持って移動するのに楽なパンとなるのである。 二つ目は、安いから。おにぎりだと2、3個食べるので一食300円前後かかるのに対し、パンは8個入りで150〜200円ほど。4つも食べれば腹いっぱいになるので、食費を安く抑えることができるのだ。腹持ちや力をつけるという点ではおにぎりの方が優れているのであろうが、まぁ、あまりお金のない貧乏遍路ゆえ致し方ない。 標高278mの七子峠を越えて高所ということもあり、雲が非常に低く垂れ篭めている朝である。山間の土地なのにも関わらず周囲を取り囲む山容が見えず、今日も天気はイマイチであることがうかがえる。雨にならなければ良いだが……。 次の第37番札所がある窪川まではもう残り10kmの距離だ。影野駅から国道56号線を少しだけ歩いたところで脇道へと入り、仁井田川沿いに拓けた畑の道となった。線路を駆けていく始発汽車を横目に進み、15分ほどで再び国道56号線と合流だ。 国道自体はなんの変哲もないごく普通の道路であったが、途中のお店にあった大漁の鯉のぼりが目を引いた。四月下旬に遍路を始めてからこれまであちらこちらで鯉のぼりを見かけてきたが、たいていは親子の鯉が四、五匹程度と、場合によっては長細い幟や大漁旗のような四角い旗をたなびかせていることもあった。しかし、こんな運動会の万国旗のごとく大量にぶら下げた鯉のぼりは初めてだ。この辺りの地域特有なのだろうか。所変われば鯉のぼりも変わるものである。 窪川市街地の入口に位置するこの道の駅は「あぐり窪川」という名称だ。“あぐり”とは一体なんのことだろう、F1レーサー鈴木亜久里の出身地だったりするのだろうか。などとTwitterに投稿したら、フォロワーさんより「アグリカルチャー(農業)」の略なのではないかとご指摘頂いた。“あぐり”とひらがなで書いてあっただけに日本語由来なのかと思い込み、英語由来だとは考えもしなかった。いやはや、トンチンカンなことを言ってお恥ずかしい限りである。ちなみに鈴木亜久里の出身地は埼玉県所沢市とのことだ。 道の駅の綺麗なトイレで用を済ませ、たっぷり休憩を取ってから歩行再開である。このまま国道56号線を道なりに進めば窪川の中心街へと入り、第37番札所の岩本寺(いわもとじ)に辿り着く。次なる札所はもう目と鼻の先であるが、だが、ここはあえてひとつ寄り道をしたい。岩本寺の前に、窪川市街地の北西に位置する高岡神社へと参るのだ。 窪川は仁井田川が四万十川へと合流する地点に位置しており、二本の河川沿いに広大な田畑が広がっている。それらへ水を引く用水路を開発したのもまた、もはやおなじみとなった感のある土佐藩家老の野中兼山その人である。古来より窪川の人々は四万十川から水を引こうと試みていたが、台風の度に堰が壊れてしまい難儀していたそうだ。一方で野中兼山は荒ぶる四万十川ではなく比較的御しやすい仁井田川に富岡堰を築くことで水路の建設に成功。現在、窪川は仁井田米の産地として広く知られている。 現在は訪れる人も少なく静かな空気に包まれている神社であるが、何を隠そう、かつてはこの場所こそが第37番札所だったのだ。だからこそ、現在の第37番札所である岩本寺を訪れる前に立ち寄っておきたかった。 正式名称は「仁井田明神」。別名「仁井田五社」とも称され、四万十川の流れを臨む山の麓に東大宮・今大神宮・中ノ宮・今宮・森ノ宮が一列で並んでいる。祭神はそれぞれ大日本根子彦太迩尊・磯城細姫命・大山祇命および吉備彦狭嶋命・伊予二名洲小千命・伊予天狭貫尊であり、現在はこの五社を総称して「高岡神社」と呼んでいる。昨日歩いた添蚯蚓の古道にあった「おなみの墓」の背面には「五社へ四里」との道標が刻まれていたが、その“五社”とは、まさしくこの高岡神社を示していたのである。 社伝によると、高岡神社の創建は飛鳥時代の6世紀頃、伊予国の豪族であった河野氏の一派が一族の内紛によってこの地へと逃れ、土豪と共に開拓して永住した。その際に祖神として仁井田明神を祀ったのが始まりであるとされる。その後、奈良時代の弘仁年間(810〜824年)には聖武天皇の勅命を受けた行基が訪れ、仁井田明神の側に七つの末寺を持つ「福円満寺」を創建、これが仁井田明神の別当寺となった。さらに天長三年(826年)には弘法大師空海が来訪し、仁井田明神を五つに分けてそれぞれに不動明王・観世音菩薩・阿弥陀如来・薬師如来・地蔵菩薩を祀って五社大明神に改めたという。これらの五社は福圓満寺の七ヶ寺と併せて十二福寺とも称されていたそうだ。 戦国時代には戦火によって寺社共に衰退したものの、江戸時代に土佐藩二代藩主山内忠義によって再興されている。その際、別当職は周辺地域の神社を統括していた岩本寺へと移された。以降、高岡神社は神仏習合の札所として巡礼者で賑わっていたものの、明治維新を迎えると神仏分離令の廃仏毀釈運動によって神社から仏教要素が取り除かれた。別当寺であった岩本寺は一時的に廃寺となったものの、明治23年(1890年)に再興している。以降、四国八十八箇所霊場の第37番札所は岩本寺が担うことなった。 江戸時代には数多くの遍路を迎えていた仁井田五社こと高岡神社であるが、今や訪れる遍路はごくごくわずかなのであろう。その建ち並ぶ鳥居に歴史の威厳を感じつつも、どこかうら寂しい雰囲気を漂わせている。しかしこの神社こそ本来の札所であり、遍路たちが祈りを捧げてきた場所なのだ。その歴史の末席に私の存在を刻むべく、丁重にお参りさせて頂いた。 せっかくなので朱印を頂こうと社務所を訪ねてみたものの、建物の中にひと気はない。窓口に電話番号が記してあったので連絡を入れてみると、すぐに男性がやってきて紙に押された朱印を頂くことができた。 お参りを済ませて朱印まで頂き、既に私の中では第37番札所への参拝が済んだ気分である。だが、まぁ、いちおう現在の第37番札所にも参っておくとしよう。四万十川の橋を戻り、南へ進んで窪川の市街地へと入る。 岩本寺の本尊は不動明王・観世音菩薩・阿弥陀如来・薬師如来・地蔵菩薩の計五体とかなり特異な形態だ。これは前述の廃仏毀釈の際、仁井田五社にそれぞれ祀られていた本地仏(祭神の本来の姿であるとされる仏)を移した為である。 本尊が五体なので、唱える真言もまた五種類だ。いつもは般若心経を読経した後に本尊の真言を一つだけ詠唱するのに対し、ここでは五つの真言を次々と述べることになる。どうにもこうにも手当たり次第、どの仏に対して祈りをささげているのか曖昧な感じがしてイマイチ落ち着かない。五社を無理矢理ひとつの堂宇に押し込めたことによる歪みが感じられるというか、やはり少々の不自然さを拭えない感じである。とりあえず機械的にお参りと納経を済ませ、そそくさと境内から出た。 さてはて、高知県内の札所も残すところわずか二箇所であるが、しかし一筋縄ではいかないだろう。昨日の「おなみの墓」にも刻まれていた通り、次なる第38番札所があるのは足摺岬。遥か彼方、四国島の最南端なのだ。ここ窪川からの距離は約80km。日和佐の薬王寺から室戸岬の最御崎寺までの距離(約75km)を越える、四国遍路の最長区間である。 長い道程になりそうであるが、とりあえずは20km程先の佐賀という町を目指すことにする。窪川を出たら佐賀まで町はなさそうなので、スーパーで昼食を買っておいた。ついでにアイスを食べてリフレッシュ。気持ちを切り替えて、いざいざ再出発だ。 直径5mの水車が目を引くこのお店、看板に大きく書かれた水車亭(みずぐるまや)という文字にはなんとなく見覚えがあった。気になったのでその店先に目をやると、山積みになった青いラベルのいもけんぴ。……あ、これ、室戸の友達の家で食べた「塩けんぴ」じゃないか! そういえば、友達は「窪川にある有名店の塩けんぴだ」と言っていた気がする。いやはや、まさか遍路道沿いにお店があるとは。甘じょっぱいタレが絡む細目のいもけんぴ、一口食べたらやめられない止まらない、クセになる味で酒もぐいぐいと進んだものだ。思わず購入しそうになったものの、グッと堪えてスルーする。さすがにこの量のいもけんぴは荷物になってしまうし、なによりあの味を思い出したら酒に手を出しかねない。 ぐいぐいと引っ張られる後ろ髪をなんとか振り切り、国道56号線の歩道を進む。町を出るとすぐに山間の道となり、一時間ほど歩いたところで「峰の上」という集落に辿り着いた。遍路道はここで国道から離れ、未舗装の峠道へと続いていく。 窪川は標高200mの盆地に位置する町である。故に久礼から窪川へと入る七子峠は上り坂が主体であったが、窪川から佐賀へと出るこちらの片坂峠は下り坂がメインだ。とはいえ、こちらの遍路道は七子峠の添蚯蚓のような長さや険しさはなく、30分程度で抜けることができる、「ちょっとした古道」といった趣だ。 古い石仏や遍路墓など道の来歴を示す物証は見当たらなかったものの、部分的に苔むした石段やえぐれている箇所もあり、昔から人々が歩いてきた道なのだろうと想像できる。特に際立った特徴はないものの、身近で気さくな印象の遍路道だ。 片坂峠を下り市野瀬という集落に出てからは伊与木川に沿って進む。山間に拓かれた土地には石積の棚田が築かれており、これがまた非常に良い風情を醸していた。 市野瀬から国道56号線を一時間ほど歩いていくと「土佐佐賀温泉こぶしのさと」という温泉施設があった。まだ15時と少々風呂には早い時間ではあるが、せっかくなので汗を流させて頂くことにする。 さっぱりしたところでコーヒー牛乳をぐい飲みしていると、ふと窓の外に鯉のぼりが連なっているのが見えた。今朝方に見たものと同じ、無数の鯉のぼりをぶら下げたメザシのぼりである。やはりこの辺りの地域では、このような鯉のぼりが普通らしい。 温泉施設を出てからは伊与木川の左岸を行く国道56号線から離れ、右岸を通る里道を歩くことにした。何の変哲もないアスファルトの車道ではあるものの、走る車がほとんどないので歩きやすい。水田や伊与木川の景色もなかなかだ。 横には薪が積まれているので、現在も使われているのだろう。なかなかにハードコアなカマドを横目に遍路道を進む。未舗装路の山道はすぐにアスファルトの舗装路と合流したのだが、その先には立派な煉瓦造の隧道が口を開けていて驚いた。 傍らにあった説明板によると、このトンネルに使われている煉瓦はこの先の佐賀港から小学生などが一個一銭の駄賃で一、二個ずつ運んだそうだ。長さは90mと結構長く、完成したトンネルを見たある人は「トンネルというものは入口は大きいけど出口は小さいものぢゃのう」と述べたという。なんとも庶民的な、親しみの持てる逸話である。 伊与木川は熊井集落の先で大きく西へ蛇行しており、かつてはこの山を越えてショートカットするのがメインのルートだったのだろう。熊井トンネルが完成してから昭和14年(1939年)までは県道として利用されていたそうだが、伊与木川沿いに国道56号線が通された現在、通る人は歩き遍路とわずかな地元民のみである。 トンネル内は灯りがまったくなく、遠くに見える出口の光だけを頼りに進んでいく。湧き水の影響だろうか、煉瓦の色合いが黒くくすんでいたり、逆に白くなっていたりする箇所もあって少々スリリングだ。光が遠のく中央付近では足元さえ見えなくなり、暗闇に対する恐怖が頭を持ち上げ背中に冷たいものが走る。しかし道はしっかり平坦に維持されており、躓いたりすることはない。後ろを振り返らず、早歩きで一気に抜けた。 温泉でのんびりしすぎたのが仇となったか、佐賀に到着した頃には18時を過ぎていた。暗くなりつつある空に焦りを感じつつも、そのまま町を抜けて海岸沿いを通る国道56号線を進む。地図によるとこの先には佐賀公園があり、そこなら野宿ができそうだ。 目論見通り、佐賀公園はトイレも東屋もあり野宿に適した場所であった。ただし遅い時間の到着だったことから東屋には既に先駆者がおり、私は駐車場の隅にテントを張らせて頂くことと相成った。いつ雨になってもおかしくない曇天の下、屋根のない場所で寝るのはいささか億劫であるが、すべては早い者勝ちである。 Tweet |