目を覚ました私はまず最初にテントの外装をチェックした。心配していた雨はどうやら降らなかったらしく、濡れてはおらず一安心。びしょびしょのテントを片付けるのは本当に億劫だ。 東屋で寝ていた人は既に出発した後のようで、私はそのベンチに座って朝食を取った。パンを頬張りつつiPhoneで気象庁の天気予報をチェックする。四国の位置に描かれていたのは無情なる傘マーク。ここのところ雨が降りそうで降らない日が続いていたが、どうやら今日こそ逃れられない運命らしい。覚悟を決めつつレインウェアを身に纏い、6時になったので出発だ。昨日に引き続き、今日もまた足摺岬にある第38番札所を目指して歩く。 並走する土佐くろしお鉄道中村線の高架橋を横目に坂道をえっちらほっちら上り、岬の頂上に達してからは今度は下り坂となる。その先の白浜集落からは比較的平坦な道路が続き、室戸岬への道を彷彿とさせる荒々しい海岸沿いを延々歩く。 白浜から約1時間ほどで灘という港の集落に差し掛かった。岬をショートカットする長めのトンネルを抜けて田地帯を歩いていると、早くもパラパラと大粒の雨が降ってきた。さらにもう一つトンネルを越えたところに小さな寺院があったので、その軒下を借りて休憩兼雨宿りである。 土佐久礼の市場で買った飴がまだ残っていたので、ちょいと口に運んで糖分を補給した。軽い甘さのベッコウ飴にきな粉がまぶしてあり、まさに手作りといった感じの素朴ながらも優しい味だ。 ザックにレインカバーを掛け直し、雨が弱まったタイミングで再び歩き出した。……が、程なくして雨脚が格段に強まり、かなりの本降りになってしまった。 レインウェアのフードを叩く雨に耐え忍びながら歩いていくと、歩道沿いに遍路小屋が設けられていたので避難する。再びの雨宿りとなったものの、さすがにここまで降ってしまうとちょっとやそっとでは止んではくれず、30分程待っても雨の勢いが衰えることはない。やむを得ず雨の中の再出発である。 その少し先に郵便局があったので、軍資金を引き出し財布を少し厚くしておいた。さらに進むと道の駅があり、そこで本日三度目の雨宿りをする。我ながら随分と鈍足かつ怠惰な進行であるが、ぶっちゃけ、この先の区間は雨が降る中で歩きたくないのだ。 というのも、現在私がいるこの浮鞭(うきぶち)の道の駅から入野にかけての海岸線には入野松原と呼ばれる松林が広がっており国の名勝に指定されている。ぜひともその風景をカメラに収めたいと思っていたのだが、雨が降っていては遠景がかげってしまい、うまく撮ることができないのである。できるだけ時間を稼ぎ、雨が止むのを待ちたい。 私の切なる想いが天に通じたのか、1時間程待ったところでようやく雨脚が弱まってくれた。完全に止んではいないものの、先ほどの振り方に比べれば止んでるも同然だ。意気揚々と橋を渡り、入野松原へと足を踏み入れる。 入野松原の歴史は400年前以上まで遡り、天正14年(1586年)の九州征伐の後に中村城へと入った忠兵衛こと谷忠澄(たにただずみ)が囚人を使役して植樹したとされる。また宝永5年(1708年)に吉田孝世(よしだたかよ)が記した長宗我部氏の軍記『土佐物語』によると、それ以前にも松原があったとされ、忠兵衛は補植したとする説もある。 雨が強まったり弱まったりを繰り返す中、一直線に伸びる松林の遊歩道を進んでいく。雨の入野松原を歩くのは嫌だと散々言っていたものの、しっとりと濡れた松の木もこれはこれで風情がある。のんびり歩くこと1時間半、松原を突っ切り、港を横切って蠣瀬川(かきせがわ)沿いの道路と合流した。 砂地が広がる入野松原の一帯はラッキョウの産地とのことで、松原を出ると辺りにはラッキョウ畑が広がっていた。今がちょうど収穫の時期らしく、細い緑色の葉が茂る畑と刈られた後の茶色い畑がまるでパッチワークのようである。意外にもラッキョウはかわいらしい紫色の花が咲くらしく、秋には一面の花畑となるのだろう。 蠣瀬川に架かる橋を渡り、長い坂を上ったところに東屋が建っていた。時間は12時過ぎ、ちょうど良い頃合いなので昼食休憩とする。 奇しくもこの先には四万十川の河口が待ち構えており、なんともタイムリーな昼食である。昨日の窪川でも高岡神社へ行くのに四万十川を渡ったが、今日もまた今一度、今度は四万十川の河口を渡ることとなる。 ちなみに入野から四万十川までの遍路道は主に三通りのルートが存在する。一つ目は国道56号線を歩いて土佐中村の市街地に辿り着く旧中村街道ルート。二つ目は四万十大橋が架かる竹島集落に出るルート。そして三つ目は海岸沿いの県道42号線を進み河口の下田集落に出るルートである。私はこのうち、三つ目の下田ルートを選択した。 このルートを歩く人は少ないらしく、道中では誰一人として遍路を見かけることはなかった。それどころか通りかかる地元の車も少ない。開放的かつ南国的な趣きの道ではあるが、グズグズとした天気も相まってどこかうら寂しい雰囲気も漂っていた。 入野から歩くこと1時間強でようやく下田集落に到着した。ここは四万十川最河口の港町であり、かつて四万十川の河口から源流まで遡る取材をした際に、まず最初に訪れた思い出のある集落である。そしてその際にとある標識を見つけ、四国遍路をやる際には必ず利用しようと心に決めたものがある。それは――「下田の渡し」だ。 かつて四万十川には数多くの渡し舟が存在したという。しかし土木技術の近代化によって橋が架けられるようになると、沈下橋や抜水橋に取って代わられるようになる。各所の渡し舟は次々と姿を消し、唯一河口の「下田の渡し」だけは市営によって近年まで維持されてきたものの、2005年12月をもって廃止されている。しかしその後の2009年4月、地元の方々による「下田の渡し保存会」によって再開を果たしたのだ。 現在の遍路は4kmほど上流に位置する四万十大橋を渡るのが一般的であるが、かつての遍路たちは皆この渡し舟を使って四万十川を越えていた。私もまた先人たちにあやかって、下田の渡しを利用するとしようじゃないか。それが、下田ルートを選んだ理由である。 早速、渡船場の立札に書かれていた電話番号に連絡を入れる。天候が天候なだけに船を出してもらえるか不安であったが、電話口では「分かりました。ちょっと待っててくださいね」と良い感じの応答であった。しかし、やってきたお兄さんは開口一番「すみません、海が荒れているのでお接待として車で対岸まで送らせて下さい」と言った。わざわざ“お接待”という言葉を使うあたり、よく分かってらっしゃる方である。お接待は遍路を助けることにより功徳を積む一種の行だ。故に、遍路は基本的にお接待を断ってはならないとされているのである。 私は逡巡したが、「お接待を断るのは良いことではありませんが」と前置きした上で、「船で渡れないなら歩いていこうと思います」と申し出を断った。お兄さんは少し困ったような顔をしたが、意固地な私の反応を半ば予期していたのか、すぐに笑顔で「それなら、船を出しましょう」と運航してくれることになった。なんだか無理を通したような感じで申し訳ない感じもするが、結果的に下田の渡しに乗ることができて恐悦至極である。 私は感謝を述べ、運賃の500円を払うと港に降りた。お兄さんは再び舵を握り、そのまま離岸して下田港へ戻っていく。10分足らずの短い船旅ではあったものの、私は満足感 に浸りながら去りゆく漁船を眺めていた。 さてはて、時間を見ると16時過ぎ。そろそろ寝床を探した方が良い頃合いであるが、私にはひとつ心当たりがあった。前に四万十川を遡った際、四万十大橋の側に東屋があったことを思い出したのだ。雨が再び強くなってきたことでもあるし、今日はそこまで行って終わりにするとしよう。 四万十川を遡った時には、河口の下田から四万十川の左岸沿いを自転車で走った。左岸の方が人口が多くて川沿いもだいぶ開発された感じであったが、こちらの右岸は集落が少なく自然豊かで落ち着いた雰囲気である。川岸には洗い場として利用されていると思われる小さな桟橋なども見られ、昔ながらの風情が今に残っている。 津蔵淵川(つくらぶちがわ)との合流地点に設けられた水門の上を通り、四万十川に沿って歩いていく。本来の遍路道は津蔵淵川に沿って西へと入るのだが、今は四万十大橋を目指しているのでその道標はスルー。四万十川沿いに通る国道321号線を北上する。 渡し舟で渡った四万十川を、四万十大橋で渡り直す。なんだか本末転倒な気もするが、まぁ、下田の渡しを利用したという事実こそが重要なのだ。雨が酷くなる中、屋根付きの寝床を確保できたという点も大きい。 天気予報を確認すると、どうやらこの雨は明日の朝まで続くそうだ。日が暮れるとさらに雨脚は激しくなり、挙句に風まで強くなってきた。テントが激しくたわみ、屋根から落ちる水はじょろじょろと蛇口のような音を立てている。この東屋は段差のないバリアフリーな造りである故、雨水に対してもバリアフリー。既に床には水が侵入し始めており、テント内に染み込んでこないか非常に心配だ。朝まで持ってくれると良いのだが……。 それにしても、今日は酷く疲れた。雨というのは肉体的にも堪えるが、それ以上にメンタル的な部分がガリガリと削られていく感じである。強い雨音を聞きながら寝る夜も不安だ。果たしてこの雨は、天気予報の通り朝までに止んでくれるのだろうか。いや、きっと止んでくれることだろう。 Tweet |