遍路36日目:宇和町信里〜十夜ヶ橋(18.2km)






 今朝は雨こそ降らなかったものの、テントの外は極めて深い霧に覆われていた。とりあえず用を足しに関地池の公衆トイレに向かったが、堰堤の向こうの対岸が全く見えず、まるで水面がどこまでも広がっているかのようだ。霧の向こう側は常世なのでないかと思えるくらい、あの世っぽさが漂う光景である。


対岸の見えない水面は何とも言えぬ不気味さがある

 信里集落の人々が起きてこないうちに霧に紛れてテントをかたし、ゲートボール場の脇に置かれていたビール瓶ケースをベンチ代わりに朝食を取る。太陽が昇るにつれて霧は少しずつ晴れていき、幾分は周囲の景色が分かる様になってきた。時間は6時半、出発にちょうど良い頃合いである。


遍路道へと戻り、昨日に続き旧宇和島街道を北進する

 歩き始めて間もなく国道56号線と合流したのだが、その左手には人ひとりが寝られるかというくらいの小ぶりな遍路小屋が設けられていた。昨日はここで宿泊すれば良かったかなとも思ったが、よくよく考えると周囲に水もトイレもない上、国道沿いなので車の騒音に悩まされそうだ。やはりあのゲートボール場がベストな選択であった。そう思うことにしよう。


さらに進むと鳥坂(とさか)峠と鳥坂トンネルへの分岐点に差し掛かった

 道標の隣に掲げられていた案内によると、鳥坂峠を越える遍路道は1時間以上の道のりであるが、国道56号線をこのまま進めばわずか25分でショートカットできるとのことである。ただし全長1117mの鳥坂トンネルを抜ける必要があり、しかもこのトンネルは歩道が無いに等しく非常に恐怖を感じると聞いた。わざわざ二つのルートを提示してくれてはいるものの、国道コースを選ぶ人はよほど時間に切羽詰まった人くらいなものだろう。言うまでもなく、私は峠道を行く。


国道から離れて里道を進むと、いよいよ山へ突入だ


その入口には鳥坂番所の跡が存在する

 鳥坂峠の南麓に位置するこの鳥坂番所は、面白いことに宇和島藩ではなく大洲藩によって設置された関所である。元は鳥坂峠に存在したというが、天保年間(1830〜1844年)に現在地に移されたという。ちなみに宇和島藩側の番所は南の東多田に置かれていたとのことで、つまり宇和島藩と大洲藩の藩境は鳥坂峠ではなく鳥坂と東多田の間であったことになる。事実、この鳥坂集落と正信集落の一帯は、昭和33年(1958年)に宇和町に編入されるまで大洲市に属していた。大洲と宇和はたびたび国境紛争があったとのことで、自領地への侵入を阻む峠を麓の集落から丸ごと抑えることは、防衛上極めて重要だったに違いない。

 当時この番所では身分証明書や往来手形の提示が求められるなど厳しい取り締まりが行われていたというが、遍路に限っては比較的楽に通行できたそうだ。現存する建物は茅葺から瓦葺に改められ、また改修されている箇所も少なくないようだが、全体的には番所であった当時のたたずまいを残しているという。


番所を通り過ぎると本格的な山道となる


比較的道幅が広く、コンクリートの排水溝も整備されている

 鳥坂峠は明治時代に車道が通されているものの、そのルートは東へ大きく迂回しているため旧街道と重なってはいない。そちらの車道はトラックやバスが走ることから砂埃がひどく、旧街道は安全に歩ける生活道としてその後も現役だったようだ。しかし高度経済成長で自動車が普及し、また昭和46年(1971年)に鳥坂トンネルが開通したことにより、旧街道を歩く者は遍路のみとなった。

 ちなみに土佐と伊予の国境であった松尾峠と同様、かつては道沿いに松並木が存在していたというが、こちらもまた第二次世界大戦の際に造船用材として伐採されており、切り株も松根油を取るため掘り返されたという。わずかに残った松の木も、松食い虫によって枯れてしまったそうだ。


途中で舗装された林道を横切る


振り返ると宇和盆地の北端が一望できた

 林道を越えてからは坂道の傾斜が多少きつくなったもの、それまでの勢いに任せて一気に登っていくと、あっさり鳥坂峠に到着した。麓から約40分、想像していたよりはだいぶ楽だったという印象である。


峠に残る石垣の上には明治16年(1883年)の地蔵が鎮座する

 鳥坂峠は石積で整地されているが、なんでもこれは戦国時代に築かれた砦の跡であるという。永禄年間(1558〜1570年)、大洲盆地を中心とする喜多郡を治めていた宇都宮氏は、松山平野を拠点に中予から東予にかけて勢力を有していた河野氏と対立した。河野氏は姻戚関係のある中国地方の毛利氏に協力を要請し、また宇都宮氏は南予侵攻への意欲を見せていた土佐国幡多郡の一条氏と手を結ぶ。一条氏は宇和郡の西園寺氏を抑えて鳥坂峠を越え高島に入ったものの、河野軍は鳥坂峠に砦を建築。退路を塞がれた形となった一条氏は鳥坂峠を攻略できずに多大なる損害を被り、また大洲城は陥落して宇都宮氏は滅亡した。

 かつて伊予国の戦局を左右したこの鳥坂峠も、今となっては石仏がたたずむだけの静かな山間である。石垣に腰を下ろして10分ばかりの休憩を取ってから、緩やかに続く坂道を下りていく。


程なくして道幅の広い林道と合流した


その先にはちょっとした広場があり、簡素な社が鎮座していた


祠の扉が開け放たれており、御神体が剥きだしだ

 この社は日天月天(にってんがってん)様と呼ばれており、その名の通り太陽と月を神として祀っているものである。御神体は日月そのものを表しているように丸く、梵字と共に太陽と月らしき線刻が確認できる。農耕に不可欠な太陽はともかく、夜にほのかな明かりをもたらす月を併せて祀っているのは、生活道として夜にも歩く人がいた街道の峠道らしい信仰であるように思う。


遍路道は林道から外れ、再びの山道となる


その傍らには遍路墓が立っていた
昔から遍路が歩いてきた道であることの証左である


やがて山道が途切れ、明治時代の旧道と合流した
基本的に舗装されているが、未舗装のダート部分も残る

 鳥坂峠の上りは急な坂道ではあるものの昔ながらの雰囲気を残す古道が続いていた。一方で下りは傾斜が緩やかな分、林道や旧道と重なる部分が多い。とはいえ先ほどの日天月天や遍路墓といった古いモノも散見でき、全体としての雰囲気はなかなかのものである。

 国道56号線と並走するように続く旧道を30分程歩いていくと、再び山道へと入った。そのまま急な坂道を下りていくと、すぐに札掛という集落へ辿り着いた。


遍路道沿いに立派な門が構えられていた


佛陀懸山(ふだかけざん)札掛大師堂というお寺のようだ

 かつて弘法大師空海がこの地を訪れた際、松の枝に仏陀の御影札を掛けて祈祷をしたとのことで、この寺院はその御利益に預かる形で創建されたという。江戸時代後期に記された『四国遍礼名所図会』にもその名が見える昔ながらの番外霊場であるが、残念ながら現在は無住のようで、かなり荒れている印象だ。

 遍路道はここから大洲の市街地へと下っていくが、中には黒木や平野町を経由して別格二十霊場第7番札所の出石寺(しゅっせきじ)に参拝する遍路もいるようだ。その道中にもまた昔ながらの遍路道が残っているようなので、そちらもいつか歩いてみたいものである。


札掛集落からは国道56号線を下っていく
残念ながらこの区間の旧街道はゴルフ場によって途切れている

 峠道が終わって車道と合流してからも、遍路道は坂道を延々下り続けている。鳥坂峠は上りに比べて下りが本当に長いという印象だ。それもそのはず、宇和盆地の標高は200mであるのに対し、大洲盆地の標高はわずか16m。鳥坂峠の標高が470mなので、単純に計算しても二倍近い高低差である。さらには大洲側の方が傾斜が緩やかなこともあって、長い長い道のりとなっているのだ。

 国道の歩道をダラダラと歩くこと1時間弱、長らく続いてきた下り坂がようやく終わり、北只という集落に辿り着いた。嵩富川(たかとみがわ)に架かる金山橋を渡り、そのまま川沿いを進んでいく。


嵩富川の右岸を通る国道441号線を歩いていくと――


程なくして肘川と合流した
正面の崖上に臥龍山荘の茅葺屋根が見える

 随分と目を引く位置に建物を構える臥龍山荘は、木蝋の販売で財を成した豪商である河内寅次郎(こうちとらじろう)が10年の歳月をかけて明治40年(1907年)に完成させた別荘である。臥龍院、不老庵、知止庵などの建物と庭園から成り、肘川越しに大洲富士と呼ばれる冨士山(とみすやま)を望むことができる景勝地だ。平成28年(2016年)には臥龍院、不老庵、文庫の3棟が重要文化財に指定されている。

 臥龍山荘が見えたということは、大洲の中心部までもうあと一息だ。嵩富川と肘川の合流地点に架かる橋を渡って道なりに進んでいくと、やがて旧街道沿いに古い町家が連なりだした。かつての城下町、大洲に到着である。


城下町の東端にあたる志保町の町並み
明治時代に建てられた商家や蔵が建ち並んでいる

 遍路道を示す矢印は、大洲神社の参道から北へと伸びる路地へと続いていた。地面の舗装がアスファルトから石畳へと変わり、辺りの雰囲気が変化する。藩政時代から変わらぬ町割なのであろう路地に沿って、明治時代に建てられた建ちの高い商家や土蔵が建ち並んでいる。実に見事な町並みだ。

 基礎にしては高く積まれた石垣の上に土蔵を建てているのが特徴的だが、これは肘川が氾濫した際に浸水を防ぐための水害対策である。先ほど越えてきた鳥坂峠の南麓を源流とする肘川は、反時計回りに大きく蛇行しながら宇和盆地や喜多郡の山々から水を集めつつ大洲へと下り、大浜から伊予灘へと流れ出る。つまり大洲は周辺地域一帯の水が集まる出口部分に位置しており、昔から水害に悩まされてきたのだ。古い町並みには土地柄が強く反映されるものである。

 それにしても、同じくかつての城下町であった宇和島は広々とした道路に現代的な町並みが連なっていたのに対し、細い路地に古い町家が連なる大洲は実に対照的な存在だ。宇和島は戦災に遭ったのでしょうがないことではあるのだが、ふと、昭和を代表する日本画家の東山魁夷(ひがしやまかいい)が述べた「古い家のない町は、思い出のない人と同じです」という言葉が頭によぎった。


観光地化されていない通りにも、重厚な漆喰塗の町家が続く

 いやはや、大洲にこのような町並みが残っているとは想定外であった。重要伝統的建造物群保存地区にこそなってはいないものの、それに匹敵するぐらいにクオリティの高い町並みである。絵になる風景を求め、ついつい路地を隅々まで辿ってしまう。そうこうしているうちに、あっという間に一時間が経っていた。

 昨日の卯之町でも写真の撮影に時間を費やしてしまったが、大洲でもまた足を止められてしまった。良い町並みを見かける度に遍路の進行が妨げられてしまう。町並みトラップとはなかなかに強力なものである。


大洲城の天守と苧綿櫓を眺めつつ、肱川橋を渡る

 江戸時代を通じ、喜多郡を中心に周辺地域を治めていた大洲藩。その藩庁が置かれていた大洲城は、鎌倉時代の元徳3年(1331年)に宇都宮氏が築いた地蔵ヶ岳城を前身とし、近世に築城の名手である藤堂高虎(とうどうたかとら)が近世城郭へと改修。その後に大洲へ入った脇坂安治(わきざかやすはる)によって天守などの建造物が整えられた。元和3年(1617年)には加増移封となった脇坂安元(わきざかやすもと)の代わりに加藤貞泰(かとうさだやす)が大洲城へと入り、以降は加藤家が代々の大洲藩主として明治維新を迎えている。

 天守をはじめとした建物は大部分は明治時代に解体されたものの、台所櫓、高欄櫓、苧綿櫓、三の丸南隅櫓は現存しており、四棟すべてが重要文化財に指定されている。天守本体は平成16年(2004年)の再建ではあるものの、明治時代に撮影された天守の外観写真や木組みの雛形が奇跡的に残されていたことから、取り壊される前の天守をほぼそのまま再建することができた。このような城郭建築の再建は、文化庁により「史実に基づく再建」が強く求められているが、大洲城の天守はこの条件を満たして再建することができた稀有な例である。あと100年もすれば重要文化財になることだろう。

 現存天守と何ら遜色のない大洲城の天守は一見の価値があるが、昨年に愛媛県を旅行した際に見学しているので今回はスルーさせて頂くことにした。肘川を渡り、国道56号線を進んでいく。


ごく普通の国道を歩きつつ、大洲市街地を通り抜ける


いつの間にか13時を回っていたので、昼食休憩とした

 伊予大洲駅の近くにあったスーパーで弁当を購入したのだが、単品でも十分な量がある上に手作りの味噌汁までついてきて驚いた。これで400円はかなりのお得感がある。ほくほく顔で腹を満たし、体力と気力を充填してから出発だ。

 駅前の繁華街を抜けると、国道56号線はドラッグストアや家電量販店が林立する、どこでも見られるような郊外の風景となった。遍路道としての面白みは皆無であるが、咄嗟のトイレに困らなくて良いのはありがたい。ボリュームのある弁当で少々食べ過ぎてしまったらしく、慌ててトイレに駆け込むこととなった。

 スッキリしたところで再び歩き出すと、程なくして前方の左手に寺院らしき建物が見えた。私はようやく昨日の目的地にたどり着いたのだと察する。


四国別格二十霊場の第8番札所、永徳寺に到着だ


その境内の隣に存在するのが「十夜ヶ橋(とよがはし)」である

 一見すると、何の変哲もない国道56号線のコンクリート橋である。さらには頭上に松山自動車道の高架橋が通っておりなんとも物々しい感じであるが、何を隠そうこの十夜ヶ橋こそ、弘法大師空海の伝説が語り継がれる極めて重要な番外霊場なのである。

 なんでも、かつて空海が四国を巡錫していた際に、この地を通りがかったところで日が暮れたという。しかし辺りに宿を貸してくれる人家はなく、やむなく小川に架かっていた橋の下で夜を明かすことにした。しかしあまりに寒くて眠ることができず、一夜がまるで十夜に思えるほど大変であったという。都谷川に架かる橋であることから元は都谷橋という名であったが、この逸話より「十夜ヶ橋」の文字を当てるようになったという話である。

 空海が宿泊した伝説の場所ということもあり、十夜ヶ橋の下では野宿が正式に認められている。四国霊場唯一の野宿修行道場と銘打たれ、永徳寺に申し出れば野宿用のゴザを貸してくれることのことだ。昨日は大洲を目指していたワケは、ズバリこの橋の下で野宿をしたかった為なのだ。


とりあえず永徳寺にお参りをする
これで別格二十箇所霊場は三箇所目の参拝だ

 さてはてどうしたものか。iPhoneの時計を見るとまだ14時半を回ったところ。野宿が認められている十夜ヶ橋で一夜を明かしたいという思いはあるが、足を止めるにはまだ少し早い時間である。だがしかし、やはり空海が野宿したという場所で私もまた寝てみたい。しばらく葛藤したものの、やはりせっかくなので十夜ヶ橋で野宿をしようと決意を固めた。

 ちょうど良く、十夜ヶ橋のすぐ側に温泉施設があったのでひとっ風呂浴びて汗を流す。なぁに、まだ日没まで時間はたっぷりある。利用料の元を取る勢いで風呂に入っては出てを繰り返し、たっぷりと満喫する。のぼせそうになるくらいに温まった後に飲むのは、もちろんコーヒー牛乳である。


これが体に染み渡るくらいにうまいのだ

 時間を潰してから16時半に永徳寺に戻ると、見覚えのある人物が本堂前でお経を上げていた。観自在寺の通夜堂で一緒になった、白髪浅黒のおじいさんである。どうやら私と同じくらいのペースで歩いているらしい。


三日ぶりの再会に、読経が終わるのを待ってから声を掛ける

 おじいさんも私のことを覚えていたらしく、挨拶をすると顔を綻ばせた。話を伺うと、なんでも今日は永徳寺の通夜堂に泊まるとのことである。なんと、このお寺には通夜堂も備えられていたのか。


五人くらいは寝られそうな立派な通夜堂である

 布団まで用意されており、なかなかに居心地が良さそうだ。素晴らしい通夜堂を前に橋の下で寝るという決心が少し揺らいでしまったが、いやいや、やはりここは橋の下で野宿をせねば。


というワケで、納経所にお願いしてゴザをお借りした


橋の下にゴザを敷いて寝る……のはかなり辛い

 コンクリートの地面の上に直接寝るよりは幾分マシだろうが、いかんせん所詮はゴザである。試しに体を横たえてみるものの、固く冷たいコンクリートが容赦なく体温を奪っていく。色々な意味で超ハードな野宿である。


どうしたものかと試行錯誤をした結果、このような結論となった

 結局のところゴザの上にエアマットを敷き、寝袋を使って寝ることにした。超ハードモードから2ランクくらい下げたノーマルモードであるが、まぁ、イージーモードの通夜堂よりは弘法大師の境遇を味わうことができるだろう。

 そうこうしている最中、何やら強面のおじさんが私の元へと近付いてきた。ちょっと怖そうな感じだったので咄嗟に身構えたのだが、一本のバナナを手渡してくれた。お接待ということなのだろう。


バナナを受け取った私は、何だか少し泣きそうになった

 十夜ヶ橋で野宿に挑む遍路に対する心遣いのバナナである。嬉しかったのはもちろんだが、一瞬でも怖そうな人だと思ってしまった自分を不甲斐なく思った。夕食は温泉施設の隣にあったスーパーで買ったカレーと一緒に、頂いたバナナを噛み締める。何ともスパイシーかつほろ苦い夕食と相成った。


日が暮れても十夜ヶ橋を通る車は減らない

 夕食を終えると十夜ヶ橋の下はすっかり暗闇だ。とりあえず寝ようと試みるものの、なかなか寝付くことが叶わない。頭上を通行する車の音、橋の裏に潜む鳩の鳴き声、鯉が水面で立てる音、そのすべてが私の睡眠の邪魔をする。テントを使わない屋外での野宿ということもあって、どうにもこうにも神経が休まらず体の緊張が解けてくれない。いつまでも眠ることができず、ただただ夜の時間が流れていくだけ。なるほど、まさしくこれは十夜ヶ橋だ。

 この十夜ヶ橋にまつわる弘法大師の逸話より、遍路が橋を渡る際には橋の下で休んでいる弘法大師の睡眠を邪魔しないよう、金剛杖を突いてはならないという習わしができたという。四国遍路の作法にまで影響を与えた偉大なる番外霊場「十夜ヶ橋」。私はその伝説の地で弘法大師の足跡を追体験しつつ、うんうんと唸りながら野宿修行の厳しさを味わっていた。