遍路37日目:十夜ヶ橋〜千人宿記念大師堂(24.1km)






 ……眠い。とにかく眠い。一応なんとか眠ることはできたものの、頭上を通る車や耳元を飛び交う蚊の音に度々起こされており、寝覚めの気分はすこぶる悪い。熟睡はおろかせいぜい仮眠といった程度であり、いつものテント泊より体力が回復していない感じである。

 先日土佐清水の道の駅でご一緒したお坊さんなど、遍路の中にはテントを持たずに野宿をしている人も少なからずいるようだが、いやはや、凄いものである。私はたぶん、体力が持たずにリタイアすることになるだろう。たった一枚の薄っぺらい幕とはいえ、あるとなしでは大違いだ。


どうにもこうにも眠いが出発せねば

 まるで徹夜した日の朝みたいに腫れぼったい瞼を何とか見開き、永徳寺の通夜堂にゴザを返してから歩き始める。次に目指すべき第44番札所大寶寺が存在するのは、大洲の遥か東方に位置する久万高原だ。第43番札所明石寺からの距離は70km弱、この十ヶ夜橋からもまだ45km以上の道のりである。今日中に辿り着くことは不可能だと思うので、途中のどこかで一泊しなければならない。テントを張れる適地があると良いのだが。


引き続き、国道56号線を進んでいく


程なくして遍路道は旧道へと入っていった


予讃線の線路を越えると、新谷(にいや)という町に辿り着く


大洲城下の志保町と同様、漆喰塗の商家が建ち並ぶ集落だ

 大洲からの国道56号線はまさしくTHE国道といった現代的な風景が続いていたのに対し、この町には随分と歴史のありそうな空気が漂っている。それもそのはず、この新谷は江戸時代に大洲藩の支藩である新谷藩の藩庁が置かれていた、いわばもう一つの城下町なのである。

 大洲藩初代藩主の加藤貞泰は後継者を定めないまま元和9年(1623年)に急死してしまう。間もなく長男の泰興(やすおき)が将軍に謁見して相続が認められたのだが、その際に次男の直泰(なおやす)もまた1万石を分与する内諾を幕府から得て新谷藩が成立した。しかし泰興がこれを認めなかったためにお家騒動となり、結局は寛永16年(1639年)に内分分知として決着する。新谷藩は支藩であるにも関わらず幕府からは大名として扱われ、明治維新まで存続していった。

 その町人地は大洲と松山を繋ぐ大洲街道に面していることもあり、商家町としても賑わっていたのだろう。直線的な通りに沿って現在も立派な構えの商家が並んでおり、古い町並みとしてもなかなかのものである。かつての藩庁跡には麟風閣と呼ばれる陣屋建築も残っているようだが、小学校の敷地内にあるので拝観はできないようだ。


町の出口には、やけに充実した品揃えの無人販売所があった

 遍路をやっているとこの手の無人販売所によく出くわすものの、これほど商品のラインナップが多様な無人販売所は初めてだ。大根にキャベツ、タマネギにトマトといった定番の野菜から、晩柑やレモンといった柑橘類、果てはビワに梅に干しシイタケまでが並んでいる。価格も100円や200円といったキリの良いものから、80円とか70円とかやけに中途半端なものもあり、利用しやすいのかそうじゃないのか、何とも不思議な無人販売所だ。


矢落川に架かる橋を渡る
日が出てきたこともあり、どことなく幻想的な雰囲気だ


遍路道は再び国道56号線を行く


二軒茶屋という集落にはちょっとした大師堂が祀られていた

 路肩に鎮座する石仏や辻堂に道の歴史を感じつつ、谷筋の車道を東へ進む。変化に乏しい山間の風景に飽き始めたところで、道の先に「内子町」と記された標識が現れた。ようやく大洲市を抜けて、内子町へと入ったのだ。

 そういえば、このような自治体の境を示す標識を見るのは随分と久しぶりな気がする。ここのところ自治体の境ではいつも峠道を越えていたので目にする機会がなかったのだ。そのくらい、南予の町は山々によって区切られているということなのだろう。


内子町に入って程なく、遍路道は再び国道から反れた


道幅広めの農道といった旧街道を歩き、ちょっとした山を越える


谷間を縫うように進んでいくと、やがて駄馬池という溜池の横に出た


その側には弘法大師ゆかりの「思案堂」が鎮座する

 駄馬池は現代的なアースダムの溜池として整備されているものの、池自体は昔から存在していたらしく、内子町の出入口と称されてきたそうだ。その水面の傍らに建つ思案堂は、かつて弘法大師がこの地で泊まろうかと思案したという伝説から名付けられたという。十夜ヶ橋で野宿した空海がこの地で宿泊するというのは随分と距離が近すぎる気もするが、でもまぁ、十夜ヶ橋に泊まった時とは違う巡錫だったのかもしれないし、それにこういう類の伝説にツッコミを入れるというのも無粋である。


駄馬池の堤体から細い路地を下りていく


道なりに進んでいくと、内子町の中心市街地である六日市に到着だ

 六日市の通りを進んでいくにつれ、覚えのある風景に記憶が蘇ってくる。宇和島や大洲と同様、この内子町もまた去年の愛媛県旅行の際に訪れた場所の一つなのだ。その目的は古い町並みの散策であった。

 内子町の目抜き通りである六日市地区にも、明治12年(1879年)に築かれた旧化育小学校(現内子町児童館)や昭和11年(1936年)の旧内子警察署(現内子町立図書館)など歴史ある建築が数多く現存する。しかしそれ以上に凄いのが、六日市の北側に位置する八日市地区と護国地区だ。両地区には極めて高い密度で伝統的な商家建築が軒を連ねており、先日立ち寄った宇和町の卯之町と同様、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。

 去年に来ているとはいえ、訪問の時間帯や季節が違うと町並みの表情は変わるものだ。その時には修復工事中だった町家もあったことだし、今一度見学してみようではないか。ちょうど良く通りがかった公園に東屋があったので、その片隅にザックを置かせてもらい、身軽になってから散策開始である。


旧大洲街道に沿って続く八日市の町並み


黄土を混ぜた、淡い黄色の漆喰壁が印象的だ

 内子町には非常に立派な商家が多いが、これは江戸時代から明治時代にかけて木蝋の生産で多大なる財を成したことによる。ハゼの実を絞って採る木蝋は、和蝋燭やビンツケ油、化粧品や医療品など様々な用途で用いられていた。最盛期には海外にも輸出されていたという。


明治22年(1889年)に建てられた本芳我(ほんはが)家住宅
この家を含む三件の商家が重要文化財に指定されている

 緩やかな上り道から始まり、クランク状に折れ曲がった桝形を越えると平坦な路地となる。旧街道沿いに途切れることなく続く商家は淡い黄色の漆喰で統一されており、極めて高いクオリティでまとまっている。何度訪れても目を見張る、愛媛県――いや四国を代表するトップクラスの町並みといえるだろう。

 路地を少し進んではシャッターを切り、少し進んではまたシャッターを切る。再訪なのにも関わらず写真撮影に夢中になってしまい、気が付いたら1時間以上が経っていた。そろそろ切り上げ時だろう。後ろ髪を引かれつつも荷物を置いた公園へと踵を返す。

 ザックを回収し東屋で一息入れていると、ふとスラリとした男性と女性の二人組がこちらに近づいてきた。なんだろうと思う間もなく「木村さんですか?」と声を掛けられる。少々面食らいつつも「はい」と答えると、男性は「そこでレストランをやっているのですが、よろしければランチを食べていきませんか?」と仰る。どうやら私がネットに発信している情報で内子町にいることを知ったらしく、東屋に置いていたザックに目を付けていたようだ。昼食をお接待して頂けるという大変有難い申し出に、恐縮しつつも御馳走になることとした。


招いて頂いたのは「Poco a Poco(ポコ ア ポコ)」さんだ
旅館「松乃屋」に併設されている、イタリアンダイニングのお店である


内子産の豚と味噌を使ったパスタを頂いた

 パスタに味噌とはまた意外な組み合わせであるが、これが不思議とマッチして非常に美味であった。味噌と豚肉の相性は言わずもがな、細めのパスタに味噌の風味が良く絡む。付け合わせの麹味噌がまたうま味を加える上に食感と味のアクセントとなっており、和風パスタここに極まれりといったお味である。

 洒落た雰囲気の内装とは裏腹に、地元の食材をふんだんに用いた内子ならではのイタリアンレストラン。ご主人に話を伺うと、なんでも都会から実家である松乃屋にUターンしてレストランを開いたのだそうだ。このお店の他にも、内子にある和菓子屋の息子さんが洋菓子の修行をして戻り、レパートリーを増やしたという話もあった。昔ながらのものをそのまま後世に伝えるのみならず、外の文化をも取り入れて新しい風を起こす。古いモノが数多く残る内子町には、地元にさらなる活気をもたらそうという気概のある若い人が多いようである。

 大変おいしいパスタを御馳走頂き、ご主人にお礼を述べてからお店を後にする。さてはて、これからであるが、内子の町を出る前にもう一箇所だけ寄ってみたい場所がある。内子座だ。


大正5年(1916年)に築かれた芝居小屋である

 かつてこの内子座では歌舞伎や文楽などが催され、人々の娯楽の場として親しまれてきた。戦後になると映画館に改装され、また昭和42年(1967年)以降は商工会館のホールとして利用されるようになる。一時期は老朽化によって取り壊されそうになったものの、町民の熱心な要望により存続が決定。竣工当時の姿に復原され、平成27年(2015年)には国の重要文化財に指定された。

 まさしく内子の顔といった建造物であるものの、表通りから奥に入った少々分かりづらい場所にあり、去年に内子町を訪れた際には見落としてしまっていた。次に内子町を訪ねる際には必ず立ち寄ろうと決めていたのである。


外観は純和風だが、広々としたホールや照明が西洋的だ
実に大正ロマンの香りが漂う雰囲気である


地下の奈落では「すっぽん」(舞台に迫り上がる装置)も見学できた

 町並みと同様、内子座もまた想像以上に楽しめた。そもそも芝居小屋というものを見学するのは初めてで、見るものすべてが新鮮だ。大正時代の華やかな雰囲気も感じられ、なかなかに珍しいものを見ることができたという感想である。

 内子座を出てから時間を確認すると、既に13時を過ぎていた。内子町に辿り着いてから3時間半が経っていることになる。いい加減、そろそろ出発しなければ。少々の焦燥を募らせつつ六日市の通りを歩いていくと、ふと右手に「高橋邸」という案内が見えた。文化財の匂いがする細い路地に、今しがたの焦りを忘れて足を踏み入れる。


路地の奥には堂々たるたたずまいの邸宅があった

 この立派な門構えの高橋家は、「日本のビール王」と称される高橋龍太郎(たかはしりゅうたろう)の生家だそうだ。明治8年(1873年)に生を受けた龍太郎は、高校卒業後に大阪麦酒株式会社(後のアサヒビール)に入社。明治31年(1898年)から7年に渡ってドイツへ留学し、ビール醸造の研究を行った。帰国後は製造責任者としてビール造りに携わり、後には社長に就任して国産ビールを普及させたという。

 日本のラガービールは世界的に見てもレベルが高いと思うが、その礎を築いた人物ということなのだろう。今の私たちがおいしいビールを頂けるのは、この人がいたからなのだろうか。そう考えると、とてつもなく偉大な人物のように思えてくるから不思議なものだ。ビール王に敬意を表しつつ、内子の町を後にする。


北へと向かう旧大洲街道に別れを告げ、国道379号線を東へ進む

 手持ちの遍路地図に従うと、内子からは国道379号線を行くことになる。だが本来の遍路道はもう少しだけ旧大洲街道を進み、北側の水戸森峠(みともりとう)を越えていたようだ。遍路地図のルートはできるだけ古い遍路道を踏襲しているとは思うのだが、必ずしも古い道だけ行くとは限らないようである。


水戸森峠を越える旧遍路道と合流し、そのまま小田川沿いを行く


道自体はごく普通の国道ではあるが、周囲の景色は良い感じだ

 次の札所がある久万高原を目指し、ひたすら国道379号線の歩道を歩く。山間の川沿いであるとはいえ、アスファルトで舗装された道路の上だ。先月よりも日差しが一段と強まっていることもあり、これまでにないほどの暑さを感じている。まだ梅雨の最中でもあるのに関わらず、太平洋高気圧が本気を見せ始めたようである。寝不足であることも相まって、内子を出て早々にバテ気味である。

 それともう一つ、暑さに関しての問題がある。今日と明日はどうやらお店の少ない山間部を行くようなので、先ほど内子のスーパーで明日の昼食分まで仕入れておいたのだ。こうも暑いとなると、食料が痛んでしまわないか心配である。雨に降られるのは嫌なものだが、暑くなりすぎるのも困ったものだ。初夏という季節は実に難しいものである。


倉庫を改装したのだろうか、「お遍路無料宿」なる施設があった

 長岡山トンネルを抜けた下和田という集落で見かけたこの善根宿。外観からは中の様子がうかがえないので少々不安な感じもするが、宿泊しても良いというお墨付きはありがたい。ただ、今は15時前と切り上げるにはいささかか早い時間である。まだ久万高原までかなりの距離があるし、今日はできる限り距離を稼いでおきたいところだ。というワケで、申し訳ないがスルーさせて頂く。

 中和田集落から上和田集落のトンネルを抜けてさらに国道を進んでいくと、その先の掛木集落で遍路道は旧道へと入っていった。のんびりとした棚田の風景を楽しみながら歩いていくと、やがて大瀬という町場に辿り着いた。


やけに外観の色彩が統一された町並みの集落である


中程にある鮮魚店では、なぜか鯖を焼いていた

 店先からもくもくと白い煙が立ち昇っていたので、鮎でも焼いているのかと思いきや鯖である。海沿いの港町とかならともかく、山の中の集落でなぜ鯖なのだろうか。不思議に思って調べてみると、内子やその周辺地域では昔から焼き鯖を好んで食べていたという。特にこれといった起源があるわけでもなく、なんとなく広まり定着した文化らしい。

 不思議な名物が残るこの大瀬は、ノーベル賞作家である大江健三郎(おおえけんざぶろう)が生まれ育った村でもある。旧道に沿って並ぶ町家の一つに「大江」という表札が掲げられており、なるほどこのお宅がその生家なのだろう。


手前の町家が大江健三郎の生家である

 それにしても、大瀬の町並みは不自然なほど綺麗に整っている。確かに古い町家も存在するようだが、あまり古そうに見えない家であっても伝統的なデザインで統一されているのだ。なんでも大瀬では平成19年(2007年)から5箇年計画で「街なみ環境整備事業」を実施しており、このような町並みに整えられたそうだ。その先陣を切ったのが大江家とのことで、他の家もそれに続いて整備していったという。

 まだ修景されたばかりなので町並みの綺麗さが目立つが、これから年月が下るにつれて伝統的な意匠にふさわしい落ち着きと貫録が出てくることだろう。10年後、20年後に見る大瀬の町並みは、また一味違った印象になるに違いない。


大瀬集落の出口で再び国道379線と合流した


旧道に架かる橋の袂に、何だか凄い民家が建っていた
土地を精一杯活用したのだろうが、見ていてハラハラする造作である


再び遍路道は国道を離れて旧道を行く


その途中の集落に、大師堂があった

 17時に近付き、そろそろ寝床を探さなければと思い始めた頃合いに見つけたこの大師堂。扉が開け放たれていたので何となく堂内を覗き込むと、なんとそこには白髪浅黒のおじいさんがいた。昨日の永徳寺に引き続きの再会である。

 話をうかがうと、この大師堂は善根宿としても機能しており宿泊することが可能なのだそうだ。なんというグッドタイミング。他に宿泊地のアテがないので、私もまたこの大師堂で宿泊させて頂くことにしよう。おじいさんが言うには向かいにある製麺所「やなぜうどん」の山本商店が管理をしているとのことで、店内にいた気さくそうな奥さんに挨拶して宿泊の許可を頂いた。

 なんでもこの大師堂は、昔からこの地で遍路に善根宿を提供し続けてきた山本さんが、千人の宿泊を記念して昭和5年(1930年)に建てたのだそうで「千人宿記念大師堂」と称されている。善根宿として数多くの遍路に利用されてきたのだろう。建立から80年以上が経ち、私は一体何人目の宿泊者になるのだろうか。


すっかり日が落ち、それぞれ夕食を取る

 私の夕食は内子で買っておいた稲荷寿司であったが、自炊セットを持っているおじいさんが即席の味噌汁を作ってくれた。お昼に内子でパスタを御馳走なったこともそうであるが、温かい食事にありつけるというのは実に有難いことである。寿司飯で冷えた喉を通り抜ける温かな感触に、私は確かな幸せを感じながらそう思った。