遍路43日目:松山市内ビジネスホテル




 5時に目が覚めてしまう遍路の体内時計も、原稿が未完成という今の状況にとってはむしろありがたいというものだ。このビジネスホテルのチェックアウト時間は11時とかなり遅めなので、それまでにはなんとか書き上げてしまおう。


今日もホテルの朝食サービスがなかったので自前のパンとバナナを食う
ここのところ微妙な体調を整える為、サプリメントも買ってみた

 とりあえず全てのテキストを埋めることはできたものの、原稿を見直してみるとイマイチ出来に納得がいかない。もう時間ギリギリだし、これで入稿してしまおうかとも思ったが、気象庁のWebサイトを見て思い止まった。これはもう一泊して、記事の完成度を高めた方が良さそうだ。というのも、天気予報によると、明後日辺りからまたしばらく雨になるらしい。これがちょっとマズイのだ。

 数日後に訪れることになる第60番札所の横峰寺は標高750mの山上に位置している。険しい山道を歩くことになるのだが、先月の29日にその登山道で遭難者が出たと聞かされた。ちょうど台風が来ていたタイミングであり(私は宿毛のホテルに避難していた日だ)、濃霧により道を間違えたのが原因であったという。しかも歩き遍路を体験取材中のフリーライターと、私と同じ立場の人だ。幸いにも無事救助されたようだが、同じ轍を踏まない為にも悪天候の場合は山道を避け、車道で迂回せざるを得ない。昔ながらの遍路道を歩く為に遍路をやっているといっても過言ではない私にとって、古道を歩けないのは非常に辛いものがある。故に、天気が好転する頃に横峰寺へ辿り着けるよう、出発のタイミングをずらしたいのである。

 とりあえずフロントに赴いて延泊の旨を伝える。チェックアウト時間の間近であるし、断られたらどうしようかと思ったが、特に問題なく延泊することができた。もっとも、朝食サービスを休止するくらいの客入りのようだし、梅雨の平日は閑散期なのだろう。

 もし出かけるなら部屋の掃除をしてくれるとのことなので、気分転換がてらホテルの自転車を借りて松山を散策してみることにした。


市内を走るチンチン電車を横目に、松山駅の西側に出る


大峰ヶ台という丘の麓に位置する大宝寺にやってきた

 先日訪れた久万高原の第44番札所と全く同じ寺名であるが、あちらと同様、大宝元年(701年)に創建されたことから付いた名だそうだ。遍路で賑わう札所の大宝寺とは違い、訪れる観光客もほとんどいない小さな寺院ではあるものの、鎌倉初期に建てられた本堂が現存しており国宝に指定されている。

 愛媛県内に存在する国宝建造物は三件で、そのすべてが松山市にあるのだが、この大宝寺本堂はその中で最も古いものだ。


平安時代の阿弥陀堂建築を踏襲している仏堂だ

 去年の愛媛旅行の際にも立ち寄っているので訪れるのは二度目であるが、いつ見ても美しい建築である。シンプルな外観ながら、大陸の影響を受けていない純和様の美しさ、雅やかさが感じられる。

 堂内の厨子に祀られている本尊は、平安時代末期に刻まれた阿弥陀如来坐像である。永らく秘仏として開扉されず、昔から薬師如来として信仰されてきたという。しかし蓋を開けてみたら阿弥陀如来だったとは、さぞビックリだったことだろう。堂内には他にも平安時代前期の阿弥陀如来坐像と木造釈迦如来坐像が安置されており、本尊と共に国の重要文化財に指定されている。

 ちなみにこの大宝寺は第二次世界大戦の松山大空襲で被害を受けており、本堂横の池にも焼夷弾が落ちたという。幸いにも不発弾であった為に本堂は無事であったが、西の壁には今もなお焼夷弾の破片が突き刺さったままだ。その生々しい痕跡を見るに、まさしく危機一髪。よくぞ残ってくれたものである。


古刹らしく、いわれのある桜も存在する

 本堂のすぐ側で生育するこの桜は「うば桜」と呼ばれており、次のような伝説が残されている。かつてこの地には、角木(すみき)長者という豪族がいたのだが、子宝に恵まれなかった。そこで薬師如来に祈願したところ娘が生またとのことで、「露」と名付け、乳母を与えて大事に育てた。乳母の乳が出なくなってしまった際にも薬師如来に祈ると再び乳が出るようになり、長者はお礼として堂宇を建立した。それが大宝寺の始まりであるという。

 露は美しい娘に成長したものの、15歳の時に病に罹ってしまう。乳母が自分の命と引き換えに露を助けて欲しいと薬師如来に祈ったところ、露の病気は見事完治する。しかし代わりに乳母が倒れてしまい、「薬師如来へのお礼に桜の木を受けてくれ」と言い残して死んでしまった。長者は乳母の遺言通り本堂の前に桜を植えたのだが、不思議なことに乳房のような花が咲き、その色は母乳のように白かったという。

 この伝説は小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)によって英訳され、1904年にイギリスとアメリカで出版された『怪談』にも収録されている。一聞すると美談のようであるが、よくよく考えると確かに少々不気味な話で、どちらかというと怪談というべき言い伝えですな。

 一年ぶりの再訪に満足した私は、気分良く大宝寺を後にした。再び駅前へと戻り、路面電車の線路を辿る様に自転車を走らせる。次に向かうは松山城の東側、道後地区の山の上に鎮座する伊佐爾波(いさにわ)神社だ。こちらは去年の愛媛旅行で訪問しておらず、再び松山へ行く機会があったらぜひとも立ち寄ってみようと思っていたのだ。


見上げるほどに急な石段が連なる伊佐爾波神社の参道

 自然石で築かれている石段なので、一段ごとの高さや幅がまちまちだ。その不揃いな感じが昔ながらの情緒を醸し出しているが、足を踏み外してしまいそうで怖くもある。手すりにしがみつきながら、這い上がる様にして登り終えた。


石段の上にたたずむ伊佐爾波神社の社殿群


楼門と回廊に囲まれて鎮座する本殿は、全国に3例しかない八幡造だ

 本殿に祀られている祭神は、神功皇后、仲哀天皇、応神天皇、それと三柱姫大神(みはしらのひめおおかみ、宗像三神)である。かつて神功皇后と仲哀天皇が道後温泉を訪れた際の行宮跡に建てられたといい、平安時代中期の『延喜式神名帳』にも記されている式内社である。元は現在の湯築城跡に位置していたが、建武2年(1335年)頃に伊予国の守護であった河野通盛(こうのみちもり)が湯築城を築くにあたり、現在地に遷されたという。

 現存する社殿群は江戸時代前期の寛文7年(1667年)に伊予松山藩第三代藩主の松平定長(まつだいらさだなが)が造替したもので、国の重要文化財に指定されている。京都の石清水八幡宮を模して建てられたとされ、故にそちらと同じく楼門と回廊が本殿を取り囲む構造となっている。山の上の狭い土地に建ち並ぶ朱塗りの社殿は想像以上の規模と密度で驚かされた。


楼門では力士が屋根を支えている
邪鬼が梁を支えていることはよくあるが、力士は珍しいという

 うーむ、これは完全に想像以上に見ごたえがある神社である。なぜ前回松山に来た際に訪れなかったのか、過去の自分を叱咤したいくらいだ。まぁ、こう改めて来ることができたから、結果オーライではあるのだが。

 続いて私は、伊佐爾波神社に自転車を置いたまま先日歩いた遍路道を引き返すように東へ進んだ。やがて第51番札所の石手寺に辿り着く。この間は雨と時間に追われていてまともに境内を散策することができなかったので、改めて訪れてみようと思ったのだ。


門前の仲見世通りは木造のアーケードが連なっていて独特の風情だ


その先に構えられている楼門形式の山門
鎌倉時代末期の文保2年(1318年)の建立で、国宝に指定されている

 石手寺は四国八十八箇所霊場の札所であるものの、遍路のみならず地元の参拝客や普通の観光客も数多い。道後温泉の近くなのでアクセスしやすいということもあるが、それ以上に鎌倉時代末期から室町時代初期にかけての建造物が数多く残る古刹であることが大きいのだろう。

 国宝の山門は言わずもがな、本堂や三重塔、鐘楼、護摩堂、訶梨帝母天堂といった堂宇が重要文化財に指定されている。四国八十八箇所霊場において、これほど古い建造物が群として現存する寺院は少なく、非常に貴重な存在だ。


数多くの文化財を有しながらも、庶民的かつ土着な雰囲気がある

 一方で、石手寺は極めて自由……というか、個性的……というか、ぶっちゃけ「変」と言っても過言でない寺院である。その最たるものが「マントラ洞窟」だ。本堂の裏手に存在する人工的に築かれた洞窟なのだが、これがいろいろとおかしいのである。


マントラ洞窟の入口では奇妙な仮面が睨みを利かせている


ほぼ真っ暗な洞内には仏像が並び、奇抜にデコレーションされている

 洞窟に潜ることで仏の教えを体感できる施設として作られたのだろうか。照明がほとんどない上、暗闇にぼんやりと浮かび上がる奇妙なオブジェはかなり不気味だ。仏像の独特な雰囲気と相まって、得も言われぬ禍々しさすら感じられる。歴史ある寺院に存在するとは思えない、不可思議なB級スポットである。

 ちなみに洞窟を抜けた先には閻魔大王が睨みを利かせる広場があり、奇怪な木彫りの像が無造作に並べられている。私は去年の愛媛旅行でも国宝の山門を目当てにこの寺院に来たのだが、境内に漂うあまりに独特すぎるセンスに唖然とされるばかりであった。歴史や伝統? そんなもの知ったことか。ウチはウチでやりたいことをやる! という確固たる意思が伝わってくるような、色々な意味で特異すぎる札所である。


同じくトンネルを抜けた先にある鎌倉時代の五輪塔(重要文化財)
おかしなものに紛れて、ガチな文化財が潜んでいる所がまたおかしい

 石手寺に立ち篭める濃ゆい空気にあてられ、いささか精神的に疲れてきた気がする。そろそろホテルへ引き返すことにしよう。

 帰り道は表の車道ではなく、石手寺の裏へと抜ける山道を歩いてみることにした。先日は気が付かなかったルートであるが、遍路地図にもしっかりと記されており気になっていたのだ。伊佐爾波神社に自転車を停めておいたのも、この道を使って戻ろうと思っていたからである。


山の頂上にある奥の院への参道を兼ねた山道のようだ
道沿いには弘化2年(1845年)に開かれた写し霊場の石仏が祀られている

 遍路が次の札所に向かう為の道というより、お寺の境内に設けられた散策路の延長といった感じであるが、まぁ、古い写し霊場があったりと、これはこれで歴史と風情が感じられる道である。

 歩き始めて5分足らずで車道に抜けたので、そのまま道なりに西へと進んでいく。伊佐爾波神社の裏手から北に抜ける道を少しだけ歩くと、宝厳寺というお寺の門前に辿り着いた。


谷間に境内を構えている宝厳寺
踊念仏で知られる時宗の開祖「一遍」の生誕地と伝えられている


本堂には重要文化財の一遍上人立像が安置されていたのだが……

 この宝厳寺もまた歴史のあるお寺であり、明治維新以前の神仏習合時代には石手寺と共に伊佐爾波神社の別当寺を担っていたという。本堂には室町時代中期にあたる文明7年(1475年)に刻まれた一遍上人立像が祀られていたのだが、私が訪れた後の平成25年(2013年)に火災が発生し、本堂や庫裏などと共に焼失してしまった。

 500年以上守られてきた文化財も失われる時は一瞬である。木造の文化財というものは何と脆くて儚いものなのか。非常に残念なことではあるが、この事案を教訓に文化財の災害対策をより充実させて頂きたいものである。

 伊佐爾波神社に停めていた自転車を回収し、そのまま真っ直ぐホテルへ戻る。既にルームメイクは終わっており、真新しいシーツが敷かれた気持ちの良いベッドに寝転んで一休み。シャワーを浴びてリフレッシュした後は、夜まで原稿の手直しだ。


午後10時を回ったところで寝ることにした

 ようやく原稿も満足がいくところまで仕上がった。後は一晩寝かせておいて、朝に最後のチェックをしてから編集部に入稿だ。心身共に調子はバッチリ。いよいよ明日からは遍路の再開である。

 それにしても、まさか松山で四泊することになるとは思わなんだ。だがそのお陰で優れなかった体調も回復したし、松山市内の観光もできた。ここからは瀬戸内海の沿岸部に入り、私の遍路もいよいよ佳境へと向かいつつあるのだろう。今一度、兜の緒――いや菅笠の顎紐を締め直し、気張っていこうじゃあないか。