遍路44日目:松山市内ビジネスホテル〜松山市太山寺集会所(14.7km)






 夜遅くから降り始めた雨は、朝になっても止むことはなく降り続いていた。明け方には雨風が窓を叩く音にビックリし、ベッドから飛び起きたくらいである。このような天気の中歩くのは非常に億劫なので、チェックアウト時間の11時ギリギリまでホテルの部屋に引きこもることにする。

 松山に到着して既に五日目となり、「いつまで宿に根を張ってるんだ! いい加減に進みやがれ、このものぐさ遍路!」と怒られても言い返せないレベルである。確かに随分と悠長にしている気がするが、これでも今日こそはちゃんと進むつもりだ。……いや、ホントですってば。

 ありがたいことに、ホテルを出た時には雨が止んでくれていた。久方ぶりの歩きではあるが、体の調子は良いようで、荷物がさほど重く感じない(まぁ、あれだけ長く休んでいたのだから、当然といえば当然であるが)。とりあえずは先日最後に歩いた遍路道に合流すべく、道後地区へと引き返す。


先日はスルーしていた道後温泉本館に立ち寄った
道後温泉のシンボル的な共同浴場で、重要文化財に指定されている

 道後地区といえば、やはり道後温泉を抜きに語ることはできないだろう。遥か昔、足を痛めた白鷺が傷を湯に浸していたことにより発見されたと伝わる道後温泉。古代より広く知られており、日本三古湯のひとつに数えられている。

 遍路道の途上に位置することから四国遍路とも縁が深く、江戸時代には巡礼者に限って三日まで無料で温泉に入ることができたという。現在はそのような特別待遇はなく、一般客と同じ料金を払う必要があるものの、道後温泉で旅路の疲れを癒していたかつての遍路にあやかり、私もまた軽く汗を流していくことにした。ホテルの連泊ですっかり疲労が抜けている身ではあるものの、休養の仕上げとしてひとっ風呂浴びるのも悪くはない。

 温泉街の中心に位置する道後温泉本館は明治27年(1894年)に築造され、明治32年(1899年)、大正13年(1924年)など数度にわたって増築された昔ながらの共同浴場だ。外観は純和風であるのに対し、浴場は石張りでレトロモダンな雰囲気。土曜日である為か、お昼前という早めの時間にしては混雑気味ではあるものの、それを上回るほどに魅力的な温泉施設である。


サッパリした後は、いよいよ遍路道を進んでいく

 結局、私が徒歩を再開したのは12時半過ぎであった。「本当に進む気があるのか!」という声が聞こえてきそうな気がするが、この牛歩戦術は今日と明日の宿泊地を考慮した結果である。今日はあえてゆっくり進み、約10km先の第52番札所太山寺までにしようと思っているのだ。

 私はホテルの滞在中は原稿の執筆に勤しんでいたが、それと同時にインターネットを駆使してこの先の遍路情報を集めてもいた。その綿密なリサーチの結果、どうやら太山寺には通夜堂があるとのことで、なおかつ太山寺からならば翌日の宿泊予定地までもちょうど良い距離であることが判明したのである。

 政治における牛歩戦術は決議の時間を引き延ばすだけの幼稚な嫌がらせに過ぎないが、遍路においては歩く距離を都合良く調節できる非常に有益な策なのである。決してサボりではない。サボりではないぞ。


細い路地から県道20号線に出て、祝谷地区を北西へ進む

 遍路地図に記されている太山寺までの道のりは複数あり、私はそのうち道後地区から北西へと向かい、祝谷地区から丘陵を抜けて鴨川橋に向かうルートをチョイスした。しかしながらこれは昔ながらの遍路道ではなく、かつては清水川沿いを西へ行き、旧今治街道と合流して鴨川橋まで北上するルートが一般的だったようだ。その事実を裏付けるかのように、私が歩いた道沿いには古い道標が皆無であった。


溜池やミカン畑が広がる丘陵地帯を抜ける
舗装路なので坂道も大した事はなく、遍路道としては少々味気ない


丘を越えてからは、住宅地を流れる吉藤川に沿って進む

 程なくして吉藤川は大川と合流し、旧今治街道が通る鴨川橋に差し掛かった。かつての遍路道はここで街道筋から離れて大川沿いを西へと向かう。ただし旧街道をそのまま北へ少し進んだところには真念の『四国邊路道指南』にも記述が見られる蓮華寺という寺院があり、そこに立ち寄る遍路も少なくなかったようだ。遍路地図にも番外霊場としてバッチリ記されており、私もまた寄ってみることにした。


蓮華寺はちょっとした丘に境内を構えており、山門から石段が続く


現在の本堂は延宝2年(1674年)築造とのことである

 小ぢんまりとした寺院ではあるもののその歴史は極めて古いらしく、寺伝によると奈良時代の天平15年(743年)に薬師如来が丘の上から光を発して現れ、その後に巡錫してきた行基が仏堂を建てたことに始まるという。境内からは5世紀の石棺が出土しており、この丘全体が古墳なのではないかとも言われている。

 境内は鬱蒼とした木々に囲まれており、私以外に人の姿はなく非常に静かな趣きである。あまりに静かすぎてちょっと怖いくらいだ。手早くお参りを済まし、丘を回り込むようにして国道196号線に出る。


国道196号線の歩道橋脇に置かれている旧今治街道の一里塚石

 今日歩くのは太山寺までと決め込んでいるが、地図を見る限りこの先には店の類がないようだ。ここらで夕食を仕入れておかないと、明日まで干乾しになってしまう。というワケで国道沿いのスーパに立ち寄り弁当を購入したのだが、その帰りにメダカの直売所を見かけて驚いた。


遍路道では様々な無人販売を見かけてきたが、メダカは初めてだ

 どうやら日本メダカ協会松山姫ダルマ支部なる団体がやっている直売所のようである。小さなメダカがちょろちょろ泳ぎ回る様はなかなかにかわいらしい。たぶん、近隣に住む子供たち向けなのだろう。


歩道橋で国道196号線を渡り、引き続き西に向かって進む

 今日は雨になることを覚悟していたのだが、意外にも出発してからはまったく降らず、むしろ太陽が出てきたくらいである。もちろん雨が降らないに越したことはないのだが、これはこれで若干拍子抜けという感じでもある。……いや、そんなことを言ってるとお天道様の起源を損ねかねないので、ここは断言しておこう。雨より晴れの方がずっとイイ!


北へと進路を変えた大川に架かる橋を渡ると――


広々とした水田が広がる田園地帯となった

 直線的だが幅の狭い農道をてくてくと歩きながら、徐々に北西へと進んでいく。この辺りでは今の時期に田植えを行うようで、耕されたばかりの新鮮な土に水を引き込んでいる最中であった。一ヶ月以上前、遍路を始めた直後にも同じような光景を目にした気がするが、徳島県と愛媛県ではこんなにも田植えの時期に差があるものなのか。気候はそれほど変わらないと思うので、考えられるのは稲の品種の違いだろう。


安城寺という集落を通り、さらに北西へ

 久々の遍路でややくたびれてきた体を押して歩いていると、ふとご婦人に呼び止められ「よろしければどうぞ」と甘夏を三個頂いた。おそらくご自宅で採れたものなのだろう、なんともありがたいお接待である。お礼と共に納札を手渡し、「後で頂きます」と甘夏をザックにしまって先を急ぐ。


予讃線の踏切を渡り、里山の裾に沿って進んでいく


その先で、なんと道が冠水していた

 今朝の雨の影響だろうか、未舗装の農道が水浸しである。私の靴は防水素材のゴアテックスではあるものの、さすがにここをじゃぶじゃぶ通り抜けようとすると、靴紐の部分から染みてきてしまうだろう。なので水溜まりを避けて畑の縁を歩かせてもらおうと思ったのだが、これが大きな間違いであった。

 水をたっぷりと吸った柔らかい畑の土は、足を一歩踏み入れた途端にズブズブと沈み込んだのだ。それはまるで底なし沼のように、足首の上まで丸ごと飲み込まれてしまった。靴はもちろん、靴下やズボンの裾まで泥だらけである。


教訓、水溜まりの横にある畑を歩こうとしてはいけない

 結局のところ、避けようとしていた水溜まりで靴を洗い、泥を落とすハメになった。ホテルで洗濯したばかりだというのに、その初日でドロドロになってしまうとは。甘夏を頂いた幸運の後にこの不運。世の中、運のバランスというものは実に良くできているものである。


少しだけしょんぼりしながら、農家の庭先を通りすぎる


車道と合流してさらに進むと、やがて前方に冠木門が現れた
第52番札所、太山寺の「一の門」である

 おぉ、この門には見覚えがあるぞ。私は去年の愛媛旅行でこの太山寺にも足を運んでいたのだが、その時は伊予鉄道高浜線の三津駅から徒歩でアクセスを試みた。しかし思いのほかに長い道のりで、この門を見た時にはようやく到着したかと安堵したものである。もっとも、この一の門から本堂まではまだ結構な距離があって、さらにしんどい思いをしたのだが。


門前町を通り過ぎた先に構えられている「二の門」
鎌倉時代の嘉元3年(1305年)に築かれた仁王門で、重要文化財だ

 太山寺の開基は豊後国の真野長者という人物とのことである。飛鳥時代の用明2年(587年)、船で難波に向かっていた真野長者は高浜の沖で暴風雨に遭遇したのだが、観音菩薩に祈ったところ岸に聳える山の頂上から光が射し込んだ。すると嵐が弱まり、無事着岸することができたという。光の元である経ヶ森を訪れたところ、そこには十一面観音菩薩像が祀られていた。長者は助けられたことに感謝し、豊後国へと引き返して木組みした建材を経ヶ森に運び込み、一夜にして観音菩薩を祀る堂宇を建立したという。

 その後、奈良時代の天平11年(739年)には、聖武天皇の勅願により行基が本尊の十一面観音像を納めており、また天平勝宝元年(749年)に聖武天皇の娘にあたる孝謙天皇もまた十一面観音像を勅納すると同時に七堂伽藍を整備したと伝わっている。その後も歴代天皇が十一面観音像を納めたというが、本尊をはじめ現存する六体の十一面観音像は作風から平安時代後期のほぼ同時期に作られたと見られ、一括して重要文化財に指定されている。また天長年間(824〜834年)には空海が訪れており、その際に法相宗から真言宗へと改められた。


「二の門」からは坂道が続き、息を切らしながら上っていく


ようやく上り詰めた「三の門」の奥にたたずむのが太山寺の本堂だ


仁王門と同じく嘉元3年の建築で、こちらは国宝に指定されている
松山市内に存在する三つ目の国宝建造物だ

 現在の本堂は中世に伊予国の守護を務めていた河野氏によって嘉元3年(1305年)に再建されたものである。日本古来の建築様式である和様を基調としながらも、鎌倉時代に宋より伝わった禅宗様や大仏様を部分的に取り入れた折衷様で建てられている。真言密教の仏堂として最大級の規模であり、鎌倉時代らしい力強さを感じさせる仏堂だ。

 本堂と大師堂でお参りを済ませると時間はおよそ16時半。通夜堂を借りるにはちょうど良い頃合いである。納経所で朱印を頂き、納経帳を受け取る際に「通夜堂を一晩お借りすることはできますでしょうか?」と尋ねる。すると若いお坊さんは申し訳なさそうな顔をして一言。「すみません、通夜堂は閉鎖したんです」………………え、マジ?!

 今夜は通夜堂のお世話になることしか考えていなかった私は、そのお坊さんの言葉に面食らってしまった。以前は確かに通夜堂があったようだが、現在はもう利用できなくなってしまったらしい。どうやらネットで見た情報は古かったようである。まったく、綿密なリサーチとは聞いて呆れる。

 軽いパニックに陥りながらも何とか頭を回転させ、「それでは、どこか野宿に適した場所を御存じありませんでしょうか?」と言葉を続ける。すると「山門を出た右の道を行くと東屋のある公園がありますので」とのお返事。ほぉ、通夜堂がなくても東屋があるなら、それはそれで結構だ。喜び勇んで教わった公園に向かったものの……そこには既に先客のテントが張られていた。無情である。

 東屋の外で野宿することも考えたものの、しかし天気予報によると今夜もまた雨になりそうな感じである。できれば屋根のある場所で幕営したい。苦肉の策として、近くにあった集会所の軒先をお借りすることにした。


周囲の様子を伺いつつ、日が暮れる前にテントを張る

 住宅地の外れに位置していた先ほどの公園とは違い、こちらはすぐ側に民家があるので通報されたり追い出されたりしないか心配だ。どうにかお目こぼし頂けますようにと祈りつつ、夕食の弁当をもぐもぐ食べた。