遍路45日目:松山市太山寺集会所〜青木地蔵堂(26.8km)






 寝ていた場所が場所なだけに、夜が明けると同時にテントを撤収していつでも出発できる態勢を整えた。道路からも非常に目立つ場所であったにも関わらず、追い出すことなく居させてくれた近隣住民の皆様に感謝である。

 今日は朝から結構な強さの雨が降っており、多少強引にでも屋根のある場所に潜り込んでいて正解であった。昨日のように昼ぐらいに止んでくれると嬉しいのだが、非情なる天気予報は今日一日中降り続けると仰っている。なかなかしんどい一日になりそうだ。

 とりあえず朝食を取り、一息入れて時間を見ると5時40分。いつもよりかなり早めの出発ではあるが、人目に付く前にぼちぼち歩き始めることとする。


そぼ降る雨の中、県道183号線を北東に進む


突然道幅が狭まり、古い建物が見えたと思ったら――


それが第53番札所の円明寺であった

 歩き始めて30分弱、あっけなく次の札所に到着した。それもそのはず、太山寺から円明寺までの距離は約2.5km。今日のスタート地点である太山寺集会所からはわずか1.5km足らずなのだ。納経所が開く7時までまだ1時間近くあるが、その分丁寧にお参りをさせて頂こう。

 円明寺の起こりは天平勝宝元年(749年)、聖武天皇の勅願を受けた行基が本尊の阿弥陀如来像と脇侍の観世音菩薩像・勢至菩薩像を刻んで開基したとされる。その後に弘法大師空海が訪れ、伽藍を整えたとのこと。

 当初は現在地よりも北西の海沿いに位置しており、「海岸山圓明密寺」と称していた。しかし鎌倉時代以降に兵火によって荒廃し、江戸時代初期の元和年間(1615〜1624年)に和気(わけ)の有力者であった須賀重久(すがしげひさ)が現在地にて再興したという。寛永13年(1636年)には京都仁和寺の直末とされ、その際に現在の寺名に改められている。

 また円明寺には慶安3年(1650年)の銘がある銅板納札が存在する。これは大正13年(1924年)、四国遍路をしていたシカゴ大学のスタール博士が本尊を納めている厨子に打ち付けられているのを発見したもので、破損のない銅板納札としては四国霊場最古のものだという。


境内にはマリア像を浮き彫りにした十字型のキリシタン灯籠も存在する

 掃き掃除をしていた感じの良いおばちゃんと挨拶を交わし、既に灯りがともされている本堂の前に立つ。和気の町中にある札所なので境内はコンパクトな印象であるものの、木造建築の密度が高くてなかなか好みの雰囲気だ。早朝かつ雨ということで私以外には参拝者がおらず、気持ち良く読経をすることができた。

 お参りを済ませ、トイレを済ませてもなお時間は余っている。私が納経所の前で所在なさげにたたずんでいると、先ほど掃除をしていたおばちゃんがやってきて、まだ少し早い時間なのにも関わらず納経所を開けてくれた。うん、やっぱりここは良いお寺だ。朱印を頂き、お礼を述べて山門を後にする。


円明寺は周囲の町並みもなんだか良い感じだ

 さて次の目的地であるが、第54番札所の延命寺はここから約35km離れた今治市の阿方(あがた)というところにあり、そこそこの長距離区間となっている。私の歩行ペースでは納経所が閉まる17時までに到着することは難しいだろう。その少し手前、約30kmの地点に星の浦海浜公園なるトイレを備えた大きめの公園施設があるようなので、今日はそこにテントを張ろうと考えている。

 手持ちの遍路地図によると、円明寺からの遍路道は複数のルートがあるようだ。最初は境内左手の細い路地から始まるルートを選ぼうとしたものの、すぐに道幅の広い新道と合流したため、なんとなく引き返してもう一方の旧今治街道に向かうルートを選ぶことにした。


少し先に文久3年(1863年)の立派な道標が立っていた
こちらのルートにして良かったと確信した瞬間である


和気の町を抜け、川を渡ったところで旧今治街道と合流した

 旧街道とはいっても、この辺りには町場はなくかつては畑が広がっていたのだろう、道幅が広くて古い家屋も見られないものの、緩やかに湾曲する通りは古い道の名残を見せる。そのまま道なりに歩いていくと、少し先で旧街道がJR予讃線の線路によって分断されており、しょうがなく並行して通る県道347号線の高架橋で線路を越え、再び旧街道に復帰することとなった。


レトロな橋を渡ったところには――


大部分が地面に埋もれている不遇な道標があった

 なんでも川が氾濫する度に堤防がかさ増しされたらしく、結果的にこのように埋没してしまったとのことである。遍路道の道標は近現代の道路改修等により破棄されたり別の位置に移されるケースも少なくないようで、原位置に残ってる分マシといったところだろうか。かろうじて進むべき方向は分かるものの、息苦しそうでかわいそうだ。できれば掘り起こしてあげたいものである。


歴史あるたたずまいの家屋が並ぶ堀江の町を進む

 この堀江は古くより港町として知られており、江戸時代から明治時代にかけてはここから舟で安芸の宮島に向かう遍路もいたそうだ。帰りは延命寺に近い港から再上陸し、陸路をショートカットしていたとのことである。もっとも、そのような優雅な船旅を楽しめたのは、旅銭に余裕のある者限定だったのだろうが。


町はずれには「五右衛門堂」なるコンクリート製の龕と塔があった

 これはかつて堀江を治めていた花見山城の第6代城主であり、江戸時代に入ってからは庄屋を務めていた西山五右衛門道周(にしやまごえもんみちちか)なる人物を祀るためのものらしい。

 江戸時代前期の寛永7年(1630年)、堀江の人々は作物の不作により苦しい生活を強いられていた。道周は農民に代わって年貢米の免除を役所に何度も願い出たものの、認められることはなかった。そこで道周は農民の命を守るためにもみ米をこぎ取らせ、残った藁を田に集めて燃やし、「不作で米が取れないから稲を焼いた」と役人に述べたという。結果的に道周は堀江東海岸の波打ち際で磔に処されたのだが、残された村人たちは五右衛門堂を建てて弔ったそうだ。

 かつては木造の小祠だったのだろうが、経年で朽ちたのか現在はコンクリートで再建されている。しかし400年近く経った今もなお忘れられることなく堀江の人々が祀ってくれているのだから、道周も命を賭した甲斐があったというものだろう。


堀江からは海岸沿いの県道347号線(旧国道196号線)を行く

 幸いにも雨は弱まり、だいぶ歩きやすくなっていた。それにしても、こうして海沿いを歩くのは随分と久しぶりな感じがする。これまでは太平洋側の荒れ狂う海ばかりを見てきたが、瀬戸内海はベタ凪だ。今日は天気がよろしくないにも関わらず、波が全く立っていないので気味が悪いくらいである。瀬戸内海の沿岸地域に入ったのだという、これ以上ない実感を得た。

 まるで湖のように静かな水面を眺めつつ歩いていくと、やがて粟井という町に差し掛かった。そろそろ一息入れたいという私の考え知ってか知らずか、その入口に立派な大師堂が建っていたので少し休憩していくことにした。


粟井大師堂の基壇に腰掛け、しばし休ませていただく


道路を挟んだ反対側には、屋根付きの井戸があった

 この井戸は粟粒のような水がふつふつと湧き出すことから「粟乃井」と呼ばれており、それが粟井という地名の由来にもなったという。私が先ほど歩いてきた海沿いの道路は明治13年(1880年)に拓かれたもので、それ以前の旧街道は粟井坂と呼ばれる山道を通っていた。山を越えてきた遍路や旅人たちは、この井戸の水で喉を潤したことだろう。


引き続き、遍路道は旧今治街道を行く


その途中には「松山札辻より三里」の一里塚石が立っていた

 この辺りの旧街道は大部分が旧国道と重なっていることから道幅がかなり拡張されているものの、それでもなお町家や石造物など古いモノは数多い。私が写真を撮りながら歩いていると、後方より二人の遍路が追い越してきた。すれ違いざまに顔を見合わせてビックリ、それはポングたちフランス人二人組だったのだ。


まさかまさか、二週間ぶりの再会である

 私が松山で四日間も停滞していたというのに、まだ彼らがこの辺りにいるとは本当に驚きである。やはり彼らは先を急ぎがちな普通の遍路とは違い、松山など主要スポットで観光を楽しみつつ歩いているようだ。外国人にとって四国遍路というものは、日本の伝統文化に触れつつも四国を丸ごと満喫できる、とても優れた旅行手段といえるのかもしれない。

 相変わらずポングたちの歩くペースは早く、二人はあっという間に道の先へと消えて行った。まぁ、この調子ならまたいずれ再会することもあるだろう。私は私で、自分のペースを崩さず行くことにする。そんなことを考えながら歩いていくと、ふと特異な姿の石仏が祀られているお堂があって度肝を抜いた。


赤い体に真っ白な顔、ギョッとする風貌である

 この石仏は「赤大師」や「赤地蔵」と呼ばれており、地元の人々が朝晩にお参りをし、願いが叶ったらベンガラで化粧を施すという習わしからこのような姿になったらしい。大変ありがたい石仏なのだろうが、その姿が視界に入った瞬間、私は得も言われぬ恐怖というか畏怖の念が呼び起こされた。恐らく、宇宙人と遭遇した時もこのような感情を抱くのだろう。

 この赤大師の辺りで旧街道は部分的に旧国道と分離し、その少し先で再び合流している。しかし電柱に貼られていた遍路道シールは旧国道へと戻らず、並走する裏路地に続いていた。遍路地図とは違うルートで少し戸惑ったものの、とりあえず道標に導かれるがまま進んでいく。


すると、程なくして北条港に辿り着いた

 ここ伊予北条もまた昔ながらの港町らしく、港の周囲には古い家屋や石積みの水路などが残っていてなかなか良い感じだ。しかし遍路道シールは港を過ぎた辺りで途絶えてしまい、どちらへ行けば良いのか分からなくなってしまった。しょうがないので港から旧国道へと合流し、遍路地図通りに歩くことにする。


こちらの方が確実だし、町の中心を歩くので古い町家も多い


町の北端には「杖大師」こと青面山養護院という寺院があった

 養護院は永禄年間(1558年〜1570年)に修験道場として創建され、大正9年(1920年)に現在の今治街道沿いに移転したそうだ。この寺院には杖をはじめとする遍路の道具が伝わっており、「杖大師」とも呼ばれている。

 なんでも江戸時代後期の文政8年(1825年)、北条に住む亀次郎という人物の家に修行僧が托鉢にやってきたという。妻が寸志を渡すと僧侶は喜び、その後も七度に渡って立ち寄り宿泊した。すると翌年の正月、亀次郎の夢枕に修行僧が立ち、仏教の教えを説いて杖や数珠、草鞋などを置いて去ったそうだ。その話を聞いた京都智積院の明星法印は、亀次郎を訪ねた修行僧は弘法大師であったと悟り、残された品々を養護院に奉納したという。

 杖大師の先で旧街道は立岩川に差し掛かる。かつては木造の橋が架かっていたというが現在は存在せず、迂回して県道の橋を渡らなければならない。遍路地図のルートではそのまま旧街道から外れ、農道を東へと進む。その手前に大きなスーパーがあったので、とりあえず昼食を仕入れておいた。


ここにきて、再び雨が強まってきた

 遍路道は伊予北条を出ると海岸から離れ、山越えである「鴻之坂(こうのさか)」へと向かう。しかしこの天気では、山に入るのが少々億劫な感じだ。もっとも、地図を見る限りではそれほど本格的な山道ではなく、車も通れる舗装路のようであるが。


田園地帯を抜け、鴻之坂へと進んでいく


その入口には「鎌大師」と呼ばれるお堂があった

 この鎌大師にもまた弘法大師に纏わる伝説が残されている。空海が四国を巡錫している最中、泣きながら鎌で草刈りをしている少年を見かけたそうだ。話を聞くと、家族が疫病でこのままでは全員死んでしまうという。空海は少年の持っていた鎌で自身の像を刻むと、これに祈る様に伝えて去った。少年が言われるがままに祈ったところ、たちまち家族や村人の病が完治したとのことで、その後に堂宇を建てて空海像を祀ったのが鎌大師の始まりだという。

 創建伝説はともかく、真念の『四國邊路道指南』にも「かうの坂、ふもとに大師堂」という表記があり、江戸時代には既にお堂が存在していたことが分かる。かつては境内に黒松の巨木が聳えており目印になっていたというが、残念ながら平成6年(1994年)にマツクイムシの被害で枯死してしまったそうだ。

 門を入ったすぐ横には立派な遍路小屋があり、休憩できるようになっている。まだ11時半と少し早めの時間ではあるものの、雨宿りがてらここで昼食を取ることにした。先ほど買った弁当で腹を膨らまし、雨が弱まったタイミングを見計らって再び歩き始めた。


舗装路の坂道をてくてくと上っていく

 なお、鴻之坂が存在する腰折山の一帯にはエヒメアヤメという植物が自生しており、その南限地のひとつとして国の天然記念物に指定されている。コカキツバタという別名を持ち、正岡子規の俳句にも詠まれている可憐な花だそうだ。

 鴻之坂は地図から分かっていた通りそれほどキツイ道のりではなく、15分程で峠まで辿り着くことができた。相変わらず雨は降り続けていて視界が悪く、本格的な山道ではなくて逆に助かったという感じである。


道標に従い、急な坂道を一気に下っていく


すぐに古い集落に辿り着いた


立派な椅子をベッドにしてくつろぐ猫に癒される


国道を渡ったところには地蔵堂が鎮座していた
かつてはここに松山藩の番所があったという

 鴻之坂を越えて海沿いに位置する浅海原の町場に出たが、旧今治街道はここから再び山へと入り、「窓坂」と「ひろいあげ坂」という二つの峠を越えていく。江戸時代には参勤交代で松山藩主の行列も通った由緒ある道ではあるものの、現在はすっかり荒廃していて道筋が追えなくなっており、またゴルフ場の建設により断絶している部分もあるそうだ。当然の如く遍路地図には記載がなく、必然的に私は海岸沿いの国道196号線を行くこととなった。


雨がさらに酷いことになってきた

 浅海原を抜けた辺りから雨脚が極端に強まり、土砂降りの様相を呈してきた。国道196号線は通行する車が多い割に歩道が狭く、車が通る度に雨水を跳ね飛ばして飛沫を巻き上げる。こりゃたまらんと途中にあった閉店中のうどん屋に逃げ込み、しばらく軒先で雨宿りをさせて頂くことにした。


しかしいくら待っても雨脚は衰えないままだ

 この様子では、今日はもう止むことはなさそうである。この雨の中を歩くのは非常に億劫ではあるが、ここで立ち止まっているわけにはいかない。せめて宿泊できる場所まで辿り着かねば。レインカバーを掛け直したザックを背負い、覚悟を決めて歩き出す。


やがて不思議な雰囲気の集落に到達した


その入口には、ででんと巨大な鬼瓦が!

 道路に面して、切妻屋根の倉庫のような建物が建ち並んでいる。どうやらこれは、すべて瓦の製造工場のようだ。この船が浦の集落から始まる菊間町は、江戸時代より瓦の生産地として知られてきた。明治時代に最盛期を迎え、その後に衰退するものの現在も様々な瓦を作り続けているらしい。

 歴史のありそうな瓦工場がひしめき合い、他では見られない特異な雰囲気が漂う集落である。普段ならば町並みを鑑賞していくところであるが、この雨では正直そんな余裕はない。後ろ髪を引かれつつも、足を止めることなく歩き続ける。


歴史ある瓦職人の集落のようだが、この天気では見学もできない

 船が浦の集落を抜けると、菊間町の中心市街地である菊間町浜へと入る。その入口には遍照院という寺院が境内を構えていた。弘法大師空海が創建したとされ、厄除大師として地元の人々に親しまれている寺院である。遍路との関りも多かったようで、江戸時代後期に病死した遍路の記録が残されているという。

 山門は町がある東を向いて構えられているが、国道に面した北側にも小さな門を構えており、ぜひとも立ち寄っていきなさいと言わんばかりである。本堂の横には雨宿りできる仮設テントが設営されていたので、休憩がてらお参りしていくことにした。


どうか雨が止みますようにとお願いしておく

 その切なる私の願いもむなしく、休憩している間に雨はさらに激しさを増していた。しかもゴロゴロと雷まで鳴り出し、もう踏んだり蹴ったりである。やはり神仏には現世利益を求めるのはものではないということだろう。


歴史のある町らしく、立派な町家も多数存在する

 菊間町浜は旧今治街道沿いを中心としつつ、複数の路地が入り組む複雑な構造となっている。古い建物も多く、なかなか良い感じのたたずまいだ。是非とも腰を据えて散策したい町並みではあるが、だがやはりこの天気では写真を撮るのもままならない。涙を呑んで先を急ぐことにする。

 旧街道を進んでいくと、スーパーがあったので夕食を購入することにした。しかし今の私は頭から靴の中まで全身水浸しの濡れネズミ状態なので、レインウェアを脱がなければお店の迷惑になってしまう。ザックともども店先の邪魔にならないところに置いてから入店したのだが、店内は店内で雨に濡れた体が冷房にさらされ寒い思いをした。

 なんとか弁当を調達し、再びレインウェアを着込む。旧街道から国道196号線に入ってひたすら歩いていると、簡易トイレ付きのグラウンドがあった。もう今日はここにテントを張ってしまおうかとも思ったが、さすがにこの雨の中、屋根のない場所で寝るのはリスクが高すぎる。かろうじて思い止まり、再び歩行を再開する。


高田(こうだ)の集落で再び旧街道に入った
前方には製油所だろうか、何基もの蒸留塔が聳えている


集落が途切れたところに、古い道標が立っていた
しかしその指し示す先は製油所の構内だ

 旧街道はこの製油所によって分断されており、国道を迂回しなければならない。製油所の敷地を通り過ぎると遍路道は再び旧街道へと戻るのだが、その合流点の近くにひとつのお堂が建っていた。遍路地図によると、青木地蔵堂というらしい。


木々に囲まれた、ひと気のない場所にひっそりたたずむ青木地蔵堂

 どこにでもありそうな仏堂ではあるものの、その前には「遍路休憩処」と記された小屋が構えられていた。戸には鍵が掛かっておらず、もしやと思って中を覗いてみると、そこには布団が用意されていた。おぉ、やはりこれは通夜堂なのか!

 宿泊地の候補としていた星の浦海浜公園までまだ7km以上あり、心が腐りかけていたところに垂れた救いの糸。この猛烈な雨をしのげるだけでもありがたいのに、布団や水道まで用意されており、実に有難い限りだ。


即決でここに宿泊させて頂くことにした

 これ以上雨が強まることはないと思っていたものの、信じられないことに私が青木地蔵堂に到着すると同時に雨はさらに勢いを増し、屋根から落ちる水で滝行ができそうな程となった。この通夜堂をスルーして歩き続けていたらと考えると、割と本気でゾッとする。

 洗濯物を片付けて一息つくと、ふと足の裏に違和感を覚えた。なんと、親指の付け根に大きなマメができてしまっている。どうやら雨に濡れてふやけた状態のまま長距離を歩き続けたのが悪かったらしい。私は遍路を始めてからこれまで一度もマメができたことはなかったので、初めてのマメに軽くショックを受けた。雨というものは、本当に嫌なものである。

 この通夜堂は詰めれば5、6人ぐらい寝られそうな広さがあるが、結局他にやってくる遍路はおらず、今日宿泊するのは私だけであった。独り占めできるのはありがたいものの、製油所からひっきりなしに聞こえてくるゴウンゴウンという重低音が気になるところだ。日が落ちて周囲が静まるとその音はますます際立ち、まぁ、寝られないということはないだろうが、やはり少々耳障りである。