目を覚ますと雨は既に上がっており、気温も歩くのにちょうど良い感じとなっていた。しかし洗濯物は全く乾いておらず、靴もびしょ濡れのままである。今日はまだ、昨日の大雨の影響を避けられそうにはないらしい。 お通じを済ませたいところであるが、この青木地蔵堂にはトイレがない。しょうがないので朝ごはんを後回しにし、昨日と同じく少し早めの5時30分に出発することにした。もっとも、今日はちょっと頑張って歩かなければならない日なので、早く出るに越したことはないのだが。 遍路道はこれから今治市の中心部へと向かうのだが、その前後には計六箇所もの札所が存在しており、松山に次ぐ札所の密集区間となっている。明日の予定も考慮すると、できれば今日中にそのすべてを制覇しておきたい。まず目指すは、約10km先に存在する第54番札所の延命寺だ。 昨夜は製油所から発せられる重低音がうるさくなかなか寝付けなかったこともあり、やや寝不足気味な感じがする。そのせいで注意が散漫となっているのか、旧街道に入る道標を見逃してしまい、そのまま国道を歩き続けてしまっていた。集落半ばの川に架かる橋まで来たところで一つ上流の橋に雰囲気の良さそうな町並みが見え、遍路地図を確認するとそちらが正しいルートだったのだ。 来た道を引き返して改めて旧街道へと入ったのだが、ところが亀岡の集落を抜けるところでもまた道を間違えて国道に出てしまった。二連続のタイムロスに、さすがに自分の不甲斐なさを感じた次第である。なんとも幸先不安なやらかし具合だ。 出発から約1時間半休まず歩き続けていたこともあり、この公園で休憩がてら朝食を取ることにした。ここの東屋は屋根が完全に閉じているタイプではなく、ベンチが雨で濡れそぼってしまっている。昨日のような大雨の中、ここで野営するには心許ない感じだ。やはり青木地蔵堂の通夜堂に泊まったのは正解であった。 私がパンをかじっていると、掃除をしていたおじさんに声を掛けられた。「ここで寝たの?」と聞かれたので、「いいえ、青木地蔵堂のお世話になりました」と答える。「ここは雨だと厳しいですね」と続けると、おじさんは「奥に行けば売店跡があって、そこなら雨でも寝られるよ」とのこと。しかもトイレはもちろん、シャワーまで完備しているそうだ。温水ではないので利用できるのは夏場に限られるのだろうが、それでも野営地としてなかなか良さそうな公園である。実際、今日もテントを張っている人がいるそうだ。 ……ん? テントを張っている人が“いた”ではなく“いる”なのは、この時間になってもまだ撤収していないということか。……ひょっとするとそのテントの持ち主は、ポングたちフランス人二人組なのではないだろうか。普通の遍路ならばとっくにテントを片付けて出発している時間だというのに、実に彼ららしいマイペースっぷりである。 江戸時代、農民は瓦葺の建物を建てることが禁じられていた。ましてやこのように屋根に天水瓶を載せるなど城郭の御殿くらいなもので、民家建築としては他に類を見ない。城郭建築の大半が失われた現在、現存する天水瓶を載せた建物はこの旧井出家住宅と高野山の金剛峯寺本坊くらいなものだろう。 なんでも、徳川が豊臣を下した大坂の陣の際、井出家は舟や兵糧、軍資金などを徳川方に提供し、その功績により特別に天水瓶を掲げることを認められたのことである。参勤交代の際には本陣として松山藩主が宿泊していたとのことで、まさにこの天水瓶は井出家の威容を藩中に知らしめていたことだろう。 大西町新町を出ると旧街道はすぐに国道と合流した。そのまま田園地帯を進んでいくと、再び国道から離れて旧道に入る。進むにつれて周囲の風景はどんどんと市街地化していき、確実に今治中心部へ近付いていると実感できる一方、遍路道としては凡庸化していき、私のテンションは下がっていく。基本的に、市街地を歩くのはあまり好きではない。 延命寺の創建は養老4年(720年)、聖武天皇の勅願を受けた行基が不動明王を刻んで祀ったことに始まるという。その後の弘仁年間(810〜824年)に弘法大師空海が再興し、不動院圓明寺と名付けた。――と、まぁ、ここのところの札所でよく聞くタイプの縁起ですな。 当初は現在地の北に聳える近見山に位置し、谷筋に僧坊が建ち並んでいたという。しかしながら戦火によって荒廃し、享保12年(1727年)に現在地へと移転したそうだ。かつては圓明寺と書いていたが、これは第53番札所の圓明寺と全く同じ寺名であり、それぞれ「和気(わけ)の圓明寺」「阿方(あがた)の圓明寺」と呼び分けられていた。明治に入ると混同を避けるため、通称であった延命寺を正式な寺名に改めて現在に至る。 この中門は今治城にあった門を移したものだそうで、建築年代は不明だが一説には天明年間(1781〜1789年)の建造だという。城門としては若干ささやかな薬医門であるものの、現存する今治城の遺構として貴重なのだろう。 また延命寺の境内には、元禄時代に縣(阿方)村の庄屋であった越智孫兵衛(おちまごべえ)の墓石が存在する。説明板によると、当時の松山藩は「七公三民」の重税を課せられていたものの、翁の尽力によって縣村だけは「六公四民」に免下げして貰っていたそうだ。昨日通った堀江の西山五右衛門道周と被る話であるが、こちらはあちら以上にうまく立ち回ったのだろう。現在も地元の功労者として親しまれているようで、毎年慰霊祭が行われているようである。 それにしても、地図上は今治のすぐ側まで来ているというのに、ここ阿方が松山藩領であったことに驚きである。私は昨年の愛媛旅行で今治城を訪れたのだが、その濠と敷地の広大さには大層驚かされたものだ。それだけに、今治藩の領地がこれほど狭いとは思ってもいなかった。 築城の名手である藤堂高虎(とうどうたかとら)が今治城を築いた当時、今治藩はその城に見合った20万石の領地を有していた。しかし高虎が伊勢国に移ってからは、今治藩は領地が大幅に削られ3万石の小藩となっている。広大な今治城はおそらく持て余されていたことだろう、以降は天守も築かれることがなかった。 延命寺裏手の墓地から続く遍路道は、緩やかに上下しながら水田やタバコ畑を横切っていく。集落を通り過ぎ、瀬戸内しまなみ海道の高架橋を潜ってやや急な坂道を越えると、前方にちょっとした山が見えた。 前方に広がる今治市街地のビル群を望みつつ坂道を下っていくと、やがて浅川に差し掛かった。川に沿って歩いていき、姫坂神社という神社の参道前で道幅の広い県道38号線に出る。そのまま道なりに北東へと進んでいくと今治の中心部を通る国道317号線に合流し、そのすぐ側に大きな鳥居の隣に仏堂が並ぶ一角があった。延命寺からわずか3.4km、第55番札所の南光坊に到着である。 立派な鳥居を持つ神社の隣という立地、そして南光坊という札所寺院にしては控えめな、まるで子院のような寺名からも分かる通り、かつて四国霊場としての主体は別宮大山祇神社にあった。大山祇神社といえば今治沖の大三島に鎮座する全国的に著名な神社であるが、この別宮大山祇神社はその名の通り大山祇神社の別宮であり、南光坊はその別当寺を前身とする寺院である。 別宮大山祇神社の始まりは大宝3年(703年)、伊予国の豪族であり河野氏の祖とされる越智玉澄(おちたますみ)が文武天皇の勅命を受けて大山祇神社から勧請し、和銅5年(712年)に社殿を造営したことによるという。大三島の大山祇神社には全部で24の僧坊が存在していたが、鎌倉時代の正治年間(1199〜1200年)に南光院を含む8坊が別宮へ移された。これらの僧坊は別宮の別当寺として大積山光明寺と称していたものの、天正年間(1573〜1592年)に伊予へと侵攻してきた長宗我部氏の軍勢によって焼き払われ、その後に南光坊だけが再建されたそうだ。そして明治に入ると神仏分離令によって南光坊が切り離され、神社と寺院が隣り合う現在の姿になった。 今治は第二次世界大戦末期の昭和20年(1945年)に三度に渡る空襲を受けており、南光坊に残る建造物は大正5年(1916年)建立の大師堂と文久年間(1861〜1864年)建立の金毘羅堂を除いて戦後の再建である。別宮大山祇神社も焼失しているものの、拝殿だけは昭和12年(1932年)の社殿建て替えの際に別の場所へ移されていたことから被害を免れ、戦後に再び原位置へ戻された。この拝殿は今治北の波方を拠点としていた村上水軍の武将、来島通総(くるしまみちふさ)により築かれたもので、歴史的な価値は高いだろう。 納経所で朱印を頂いてから時間を確認すると11時。少々お腹が空いてきた頃合いだ。次の札所はここから南西に3kmほど行ったところだが、途中にスーパーがあるようなので、そこで昼食を購入するとしよう。 それにしても、今治市内の路地はやけに直線的だ。最初は城下町時代の町割を踏襲しているのかと思ったが、城下町にしては通りが長すぎるし、そもそもこの辺りは城下町の位置からかなり外れている。かつては田園地帯が広がっていたと思うので、おそらくは奈良時代に引かれた条坊制の名残なのだろう。 どこまでも真っ直ぐな路地をひたすら進み、先ほど確認しておいたスーパーで手早く腹を満たしてから再び歩き始める。今日の目標である六箇所の札所のうち、参拝できたのはまだ二箇所。できるだけ時間を節約して先を急ぎたい。 今治には蒼社川(そうじゃがわ)という川が流れているのだが、かつては梅雨の度に氾濫して田畑や家屋を流し、人命を奪っていたことから悪霊の棲む「人取川」と恐れられていた。この地を訪れた弘法大師空海は村人を指導して堤防を築き上げ、完成時に土砂加持の秘法を行ったそうだ。すると延命地蔵菩薩が空中に顕現し、空海はその姿を刻んで堂宇を建てて安置した。これが泰山寺の始まりだという。 かつては裏山である金輪山の山頂に七堂伽藍を構えていたそうだが、度々の戦火により衰退し、現在地である麓に移された。決して広くはない寺院であるが、最近整備されたらしく随分と小綺麗な印象だ。本堂は安政元年(1854年)と江戸時代後期のものであり、また鐘楼は明治14年(1881年)に今治城内にあった太鼓楼の古材を再利用して建てられたとのこと。 泰山寺の堂宇は小高く積まれた石垣の上に建ち並んでいるのだが、その石垣は川原石で築かれている部分と切り石で築かれている部分があり、統一感に欠ける感じがした。おそらく川原石のものがオリジナルで、切り石は最近の整備で拡張された部分なのだろうが、寺院の縁起的にもすべて川原石で築く方が良かったのではないだろうか。もっとも、現在は石材としての川原石が手に入らないとか、安全上の基準に満たないとか、何らかの事情があるのかもしれないが。 ところで、この泰山寺には先客としてポングたちがいた。私が星の浦海浜公園で休憩していた時にはまだテントを片付けてすらいなかったのに、いつの間に追い越されていたのだろう。相変わらず健脚な二人である。 お参りを済ませてから遍路地図で次のルートを確認すると、泰山寺のすぐ裏手に奥の院の龍泉寺があるようだ。せっかくなのでそちらにも寄ってみることにしたのだが、これが何というか、民家の敷地にお堂が建っているようなもので、立ち入ることすら躊躇われる感じであった。 それでは改めて次の札所を目指すことにする。その距離は約3.1kmと、やはりそう遠くはない。サクサクっとやっつけてしまうことにしよう。 泰山寺から続く遍路道は舗装路ではあるものの、古道を思わせる細い路地が続いており、歩いていてなかなか楽しい。古い道標や石仏もそこここに見られ、遍路道としての歴史を感じさせられる。 そのまま道なりに10分ほど進んでいくと、かつて空海が堤防を築いたとされる蒼社川に差し掛かった。その河畔には複数の石仏と共に、古い道標が据えられていたのだが……。 建材が限られた昔は現在のような長い橋を架けることはできず、大きな川では渡し舟を使うか、あるいは水の中を歩いて渡ったそうだ。この蒼社川では増水時には舟を渡し、渇水時には石組に板を渡して簡易的な橋としていたらしい。 鉄やコンクリートの永久橋が架けられるようになった現在はそのような仮設の板橋などなくなっており、道標の通りに進むとしたらこれはもうじゃぶじゃぶといくしかない。頑張ればなんとかできないこともないかもしれないが、そもそも河川敷に植物が繁茂していて川に近付くことさえできないのが現状だ。ここは大人しく橋を渡ることにする。 不思議なことにこの鳥居の近くには神社らしき建物はなく、ただ道路の脇に鳥居だけがポツンと立っているだけである。これはいったい何なのだろうと少し頭をひねったが、この鳥居は神社へと続く参道の入口として設けられているものなのだろうと思い至った。現在は隣に車道が整備され、家屋が鳥居を塞ぐように建っているものの、かつてはこの鳥居を通る位置に参道が通っていたのだろう。 鳥居から続く参道を辿っていったその先に、境内を構える栄福寺。これはもちろん偶然などではなく、明治に入るまでは栄福寺から石段を上った丘の頂上に鎮座する石清水八幡宮が四国遍路の札所であった。参道の入口に鳥居があったのはその為である。別宮大山祇神社と南光坊の関係と同様、八幡宮に付随していた別当寺が神仏分離令で独立したパターンだ。故に澄禅の『四国遍路日記』や真念の『四国遍路道指南』には栄福寺の名がなく、「八幡宮」とのみ記されている。 その始まりは弘仁年間(810〜824年)、嵯峨天皇の勅願を受けた弘法大師空海が府頭山の山頂で海難防止の祈願を行い、阿弥陀如来を祀る堂宇を建てたとされる。その後の貞観元年(859年)、大和国は大安寺の行教(ぎょうきょう)上人が豊後国の宇佐八幡宮から山城国の男山に石清水八幡宮を勧請しようとしていた際、暴風雨に遭ってこの地に漂着した。その時に府頭山の山容が男山と非常に似ていたことから、山頂に八幡明神を勧請して神仏習合の霊場になったという。 私が栄福寺に到着すると、またもやポングたちが出発しようとしているところであった。一足先に着いた彼らは既に参拝を終えており、なんでもこれから昼食にするらしい。再び入れ違いで境内に入り、本堂へと向かう。 現在の境内は神仏分離令の後に整えられたものだが、大師堂は山頂にあった建物を移築したものであるという。向拝の貫には豪快な彫刻が施されており、なかなかのものである。本堂は太子堂ほどではないものの、こちらもまた立派な造作だ。 参拝を済ませて朱印を貰おうと納経所に向かうと、窓口の横には住職の著書が置かれていた。住職というと貫録のある老人といったイメージがあるが、写真を見る限りでは随分と若く、気さくな雰囲気である。執筆をはじめ、色々と精力的に活動をされているらしく、四国霊場の住職の中でも有名な方のようだ。 この犬塚池には次のような義犬伝説が語られている。かつて第57番札所の栄福寺と、次なる札所である第58番札所の仙遊寺の間の使い役をしている犬がいた。仙遊寺の鐘が鳴った時には仙遊寺へ向かい、栄福寺の鐘が鳴った時にはそちらに向かう。ある日、両方の鐘が同時に鳴ったことからどちらへ行けばよいのか分からず、右往左往した結果、ついにはこの池の提体下で倒れて死んでしまった。人々は池の側に塚を作って犬を弔い、以降、この池を犬塚池と呼ぶようになったという。 現在の犬塚池は昭和13年(1938年)に改修されているが、古びたコンクリート製の吐水口には「樋塚犬」と右書きの扁額が掲げられおり、素朴ながらも近代化遺産の趣きが感じられる溜池である。 栄福寺から次の札所までの距離はわずか2.4km。今度もまた舗装路を行くショートコースだと思いきや、まさかの未舗装路に虚を衝かれた感じだ。しかし歴史ある溜池を横目に歩く遍路道には石仏が点在するなど歴史的な風情が感じられ、これぞ嬉しい誤算というヤツである。 今日はずっと平地の寺院が続いていただけに、次もまた平地の寺院だろうとタカを括っていたのだが、仙遊寺は作礼(されい)山の山頂付近、標高260mに位置する見事なまでの山寺であった。昔ながらの雰囲気を残している山道なのでこれまた嬉しい誤算ではあるものの、その石段の傾斜はかなり急で、今朝から歩き続けてきた体にはかなり堪える。 午前中には空に分厚い雲が立ち篭めていたものの、昼過ぎぐらいからは青空がちらほら見えるようになり、気温もかなり上がってきている。額からだらだらと汗を流しながら、手すりに縋りつくようにしてなんとか石段を登る。 仙遊寺は天智天皇の勅願を受け、越智守興(おちもりおき、第47番札所の八坂寺を創建した越智玉興や、別宮大山祇神社を創建した越智玉澄の父)が建立したとされる。その伽藍は阿坊仙人という僧侶が40年に渡り守っていたものの、養老2年(718年)に突然姿を消したことから仙遊寺という寺名になったという。その後に弘法大師空海が訪れて修法を行い、病に苦しむ人々を救うために錫杖で井戸を掘ったと伝わっている。 時代が下り、江戸時代には荒廃していたものの、明治初頭に宥蓮(ゆうれん)上人が山主となり再興を果たしている。なお、この宥蓮上人は明治4年(1871年)に日本最後の即身仏として入定を果たしており、境内には供養の為の五輪塔が祀られている。 その後の昭和22年(1947年)には山火事ですべての堂宇を焼失しており、現存する本堂は昭和28年(1953年)、大師堂は昭和33年(1958年)の建立である。しかしながら、焼失する以前のものをそのまま再建したようで、戦後のものとは思えない古式然とした立派なたたずまいを見せている。 twitterに寄せられた情報によると、この仙遊寺には通夜堂があるようだ。山登りで一汗かいた後にお参りを済ませ、今日はもうお終いに……と普段ならばそうするところであるが、今日の私はやる気モードである。今朝方立てた本日の目標は、今治市内にある六箇所の札所すべてを周ること。ここはまだ五箇所目、次の第59番札所まで行くことができれば目標達成だ。仙遊寺からの距離は6.1kmと少し遠いが、納経所が閉まる17時まではまだ2時間ある。十分行ける範囲だろう。というワケで、歩行再開だ。 仙遊寺から下るこの坂道は「五郎兵衛坂(ごろべえざか)」と呼ばれている。かつて仙遊寺には伊予守から奉納された太鼓があり、その音は海岸にまで響くほど大きかったという。しかし五郎兵衛という猟師が太鼓の音に魚が逃げて漁ができないと怒り、仙遊寺に上って包丁で大太鼓を破った上、仏に罵詈雑言を浴びせた。その帰り道、五郎兵衛はこの坂で転んで持っていた包丁が腹に刺さり、その怪我が原因で亡くなったとのこと。 確かにこの傾斜を急いで下ったりしたら、足がもつれて転びそうな坂道である。きっと五郎兵衛は悪いことをしたという自覚があったのだろう。その罪悪感から少しでも早く仙遊寺から離れようと道を急ぎ、転倒したに違いない。私も先を急ぐ身ではあるものの、ここは慎重に行くとしよう。 西に傾いていく太陽に焦りを募らせつつ、アスファルト舗装の路地をひたすら歩いていく。この辺りは古い集落と新しい住宅地、水田は畑がパッチワーク状に入り組んでおり、まさに郊外といった、のんびりとした雰囲気を漂わせている。 遍路道は途中で国道196号線を横切り、県道156号線と合流すると進行方向を南東へと変える。ふと、西日を背にして歩いている自分に違和感を覚えた。そういえば、松山から海沿いに北へと進んでいたはずなのに、いつの間にか東に向かって進んでいるではないか。 最初は南に向かって歩いていた遍路道も、西へと向きを変え、北へ向きを変え、そしてついに東に向かっている。長らく続けてきた私の四国遍路も、いよいよ来るところまで来たという感じである。とはいえ、まだまだ先は長いのだろうが。 時間は16時半過ぎ、予定通りのペースに思わずニンマリだ。早速お参りをしようと意気込んだものの、背後で大きなバスから団体さんがぞろぞろ下りてきたのを見て慌てて納経所へと駆け込んだ。一人だろうと、20人であろうと、納経所は基本的に受け付け順で処理をする。この人数を待ってるうちに、17時を回って受付終了などとなったら目も当てられない。本来はお参りをしてから朱印を貰うべきではあるのだが、このようなギリギリの状況では致し方ないというものだ。 伊予国分寺は天平13年(741年)、聖武天皇の詔によって全国に建立された国分寺のひとつである。正確な建立年は定かではないが、平安時代初期に編纂された『続日本紀』によると天平勝宝8年(756年)に伊予国を含む26箇所の国分寺に仏具などを下賜したとあり、その頃には既に完成していたと考えられる。ちなみに国府は頓田川を挟んだ上徳地区にあったと推定されており、今でこそ静かな住宅街ではあるものの、古代にはこの辺りが伊予国の中心地であったのだ。 平安時代には弘法大師空海が長期にわたって逗留し、「五大尊明王」の画像一幅を奉納したとされる。各国の国分寺は律令制の衰退に伴い荒廃していったものの、伊予国分寺はその後も仏教の中心地として維持されていった。しかしながら度々の兵火によって衰退し、元禄2年(1689年)に寂本(じゃくほん)が著した『四国遍霊場記』には「茅葺の小堂が寂しく建つのみ」と記されている。その後、江戸時代後期に復興されたようで、現在の本堂は寛政元年(1789年)に建てられたものだ。 お参りを終えると時間はジャスト17時。さて、これからであるが、地図を見ると4kmほど進んだところに「今治湯ノ浦温泉」という道の駅があるようなので、そこを宿泊地にしたいと思う。湯ノ浦温泉というくらいなので、きっと日帰りの温泉施設があったりするのだろう。今日はかなり頑張って歩いたので、ぜひとも温泉に浸かって体を休めたいものだ。今からちょっとわくわくである。 国分寺を後にし、再び県道156号線を南東へと進んでいく。途中、桜井という町でスーパーに立ち寄り、夕食の弁当を仕入れておいた。ついでにチョコレート入りのアイスモナカを買ったのでその場で食べる。歩き疲れて火照った体にアイスの冷たさとチョコレートの甘みが染み渡るようで実にうまかった。 やがて道路の右手に道の駅の建物が見えた。しかしながらその敷地は思っていたより狭く、一応東屋はあるものの交通量の多い車道に面しているのでテントを張るに適しているとは言い難い。そして何より、温泉の名を冠しておきながら入浴できる施設がないことに憤慨だ。せっかく高まっていた私の温泉熱をどうしてくれるのだ。 改めて地図を見ると、どうやら温泉街は国道から坂を上った丘にあり、そこにならば「クアハウス今治」という日帰り温泉も存在するようだ。歩きだと少し距離がありそうだが……いーや、構うものか。せっかく温泉の近くに泊まるのだから、ひとっ風呂浴びておかなきゃ寝付きが悪くなるというものだ。 やや急な坂道をてくてく歩いていくと、突然視界が開けて広々とした場所に出た。山を大規模に切り崩して造成した土地なのだろう、通りに沿ってテニスコートや瀟洒な建物が建ち並び、温泉街というよりはリゾート施設のような雰囲気である。 私のような小汚い遍路は少々場違いなのではないだろうか。そんなことを考えながら温泉施設を目指して歩いていると、ふと「桜井総合公園」という看板に目が留まった。ほぉ、大きめの公園とな。ということは、ひょっとしたら……確かな期待を胸に園内へと入っていくと……ビンゴ! そこには立派な東屋が建っていた。 地面が石敷きなので少々ゴツゴツしているものの、エアマットを敷いてしまえば問題はない。もう日が暮れて夕闇が迫りつつある時間なので、とりあえずテントを張ってから温泉へと向かう。クアハウス今治はこれまたリゾートホテルみたいな外観で一瞬身構えたが、浴場は広々としていて快適であった。ただ、日帰り温泉としては入館料が少しお高めだ。プールやスポーツジムも併設されているようなので、それらも利用することを前提とした価格設定なのだろう。 汗を流してサッパリした後は夕食である。先ほど買っておいた弁当をザックの中から引っ張り出す。食料袋がやけに重いなと思ったら、昨日買った大福が手付かずの状態で出てきた。思わぬ幸運! と思ったが、その存在を忘れていただけで買ったのは私自身であるし、ここまで重い思いをしたのも私だ。でも、まぁ、食後のデザートとして大福があるのはありがたい。まさに、大きな福である。 Tweet |