昨夜テントを張った桜井総合公園の東屋は、面前に設えられている日本庭園を鑑賞するための休憩所であった。本来は池泉鑑賞式庭園のようだが、節水の為なのか水が張られておらず、枯山水になってしまっている。だが、まぁ、こうして改めて見てみると、なかなかに風情があるというものだ。 出発しようとテントを片付けると、シートの下からガサガサと赤茶色のフナムシが大量に這い出てきた。まるでゴキブリのようなその姿に一瞬ゾッとして体が硬直したものの、すぐにどこかへ離散していったので見なかったことにする。いやはや、風情があるというものだ。 空はどんよりとした雲に覆われているが、天気予報を見ると雨にはならず徐々に晴れていくようで、少しばかりホッとした。それならば、問題なく横峰寺に挑むことができるだろう。 本日目指す第60番札所の横峰寺は、標高750mの山上に位置している。そこまでの道のりは険しい山道を歩くことになり、雨の日は濃い霧が立ち篭めたり、沢が増水したりして通行できなくなることがあるようだ。私が持っている遍路地図には、悪天候の日は強行を控えて車道を迂回するようにという旨が記されている。先月の29日には私と同じフリーライターの女性が台風の日に横峰寺を目指して遭難しており、絶対に二の轍を踏むわけにはいかない。 その為、私は数日前からできるだけ良い条件で横峰寺にアタックできるよう、天気予報とにらめっこをしてきた。松山で延泊して出発日を調節したのも、昨日頑張って今治市内六箇所の札所を周ったのも、すべては今日の為である。 世田山の麓に境内を構える栴檀寺は、奈良時代の神亀元年(724年)に行基が世田山に顕現した薬師如来の像を栴檀の木に刻んだという伝説を持つ寺院だ。まだ6時半と朝早い時間なのでお堂は開いていなかったが、せっかくなので簡単にお参りをさせて頂いた。 また旧街道を挟んだ対岸に聳える永納山(えいのうさん)には古代山城が存在しており、国の史跡に指定されている。飛鳥時代の天智2年(663年)、百済の救援要請を受けた日本軍は、「白村江(はくすきのえ)の戦い」において唐と新羅の連合軍に敗れてしまう。唐・新羅による日本侵攻を危惧した天智天皇は、百済遺民の協力のもと、対馬や九州北部、瀬戸内海沿岸に朝鮮式の防衛砦を築かせた。永納山城もまたそのうちの一つであり、山中を巡る土塁とその基礎である列石、水門を伴う城門などの遺構が残されているという。 なかなかに興味ある遺跡であるが、残念ながら一般見学用に整備されてはいないようだ。横峰寺を前に先を急ぐ必要もあるし、今回はスルーさせて頂く。 なんでも天長6年(829年)、弘法大師空海が老母の願いにより臼の中に加持すると、五色の光が発せられたという。空海の加持水伝説は遍路道沿いに数多いが、いつもの「杖を突いて〜」ではなく臼を用いているところにオリジナリティが感じられる。 ところで、井戸の向かいには休憩所のような建物があるのだが、その室内にテントを張って寝ている遍路がいた。なるほど、道路より一段低くて人目に付きにくいし、良い野宿スポットを見つけたなと感心した一方、もう7時過ぎてるんだからいい加減起きろよと心の中で毒づきつつ、臼井御来迎を後にした。 弘法大師が日切りの誓願(何日までにと日を区切って願うこと)を立てたとされるお堂である。ささやかな広さの境内には、大師堂をはじめとした小堂が複数建っており、何とも独特な雰囲気だ。巨大な楠の下は一息入れるのにちょうど良く、少し休憩をしていくことにした。 日切大師を出るとすぐに大明神川に差し掛かる。この川は天井川(土砂の堆積よって周囲の平地よりも川底のほうが高くなっている川)として有名なのだそうで、JR予讃線は大明神川の下をトンネルで潜っているから面白いものだ。 その大明神川を渡ったところで、遍路道は左右に分岐する。右の道は生木(いきき)地蔵を経由して第60番札所の横峰寺へと向かう「生木道」であり、左の道は第61番札所の香園寺へと向かう「香園寺道」である。悪天候の際には先に第61番から第64番まで参り、それから車道で横峰寺へと向かうルートが推奨されているが、今日の天気ならばその必要はない。迷わず右の道へと進んでいく。 本来の遍路道はこの商店街を真っ直ぐ突っ切り、南西に聳える四尾山(おしぶやま)という丘の麓に鎮座する生木地蔵を経てから中山川に架かる石鎚橋を渡る。生木地蔵はかつて空海が青葉の茂る楠に地蔵菩薩を刻んだと伝わっており、現在は四国別格二十霊場の第11番札所になっている寺院だ。 しかしながら、そんな由緒ある霊場とは露知らず。遍路地図には生木地蔵まで行かずに途中で南東に折れて石鎚橋へと向かうショートカットルートが記されていたこともあり、私は見事に生木地蔵をスルーしてしまった。できるだけ早く横峰寺に到達せねばと、気持ちが逸っていたのかもしれない。 中山川を越えた先の「大頭(おおと)」で旧讃岐街道にあたる国道11号線を横切り、その交差点にあったコンビニで食料を多めに買い込んでおく。ここからは、いよいよ横峰寺に向けての本格的なアプローチが始まるのだ。 横峰寺の南に聳える標高1982mの石鎚山(いしづちやま)は四国はおろか西日本の最高峰であり、蔵王権現を祀る霊峰として崇められてきた。古代より修験道場として広く知られれてきた。修験道の開祖である役小角(えんのおずぬ)を始め、行基や空海もまた修行をしたとされる。 横峰寺は石鎚山(石鎚蔵王権現)の別当寺のひとつとして、第64番札所の前神寺(まえがみじ)と共に石鎚信仰の拠点となっていた寺院だ。その境内は石鎚山に向かう登山道の途上に位置しており、横峰寺を経て石鎚山へと至る道筋は「お山道」と呼ばれ親しまれてきたという。 その入口にあたるこの大頭には、妙雲寺とその鎮守社である石土神社が存在する。元々は蔵王権現を祀る神仏習合の霊場であったが、例の如く明治の神仏分離令によって寺院と神社に分けられた。石鎚山に登る行者はもちろんのこと、遍路の参拝も多かったという。 遍路地図の案内によると、この妙之谷川の水位を見て登山道を行くか車道を迂回するかの目安にしろとのことである。一昨日猛烈な雨に降られた時には心配したが、昨日雨が降らなかったこともあり、水位はだいぶ落ち着いている。川底や岩が見える状態ならばOKとのことなので、やはり問題なさそうだ。 県道147号線の終点でもある湯浪休憩所には、立派な東屋とトイレが設けられている。水場もあるし、野宿スポットとして最適だ。……と、最近、公園や休憩所を目にする度に、無意識のうちに野宿に適しているかという観点で見るようになった気がする。野宿遍路の職業(?)病といったところだろうか。 東屋には先客の遍路がいたので、挨拶を交わしつつザックを下ろして腰掛ける。ちょうどお昼ということもあり、山登りの前に腹を満たしておくことにした。私がおにぎりをむしゃむしゃやっているうちに先客は立ち上がり、一足先に登山道へと入っていく。エネルギーを摂取し終えた私は、トイレで所用を済ませてから、後を追うように登山道へと足を踏み入れた。 登り口の階段が流水によって水浸しになっていたので、これは大丈夫だろうかと不安になったものの、少し進んでしまえばそこからはまったくもって普通の山道であった。ちょっとした沢を渡る箇所もあるが、しっかりとした木橋が架けられているなど、想像以上にキチンと整備されている。 水気が多い沢沿いの道なので、路肩の岩には苔が生しており、それが木漏れ日に照らされ幻想的だ。丁石代わりの地蔵尊も数多く現存しており、これぞ古道といった様相を呈している。平成28年(2016年)には「伊予遍路道」の一部を成す「横峰寺道」として国の史跡にも指定された。 なかなかゴキゲンな山道なので気分良く登っていたのだが、途中で道を間違えそうになりヒヤリハットとする場面もあった。沢に立派な鉄橋が架けられているのだが、それは遍路道ではなく電力会社が設けた送電鉄塔へ通じる巡視路だったのだ。あまりに立派すぎる橋だったので、自然とその橋が正しいルートだと思い込んでいたのだが、路肩に据えられた道標によってこの橋は遍路道ではないと知ることができた。 先日この遍路道で遭難したという女性は、恐らく濃霧で道標が見えず、この橋を渡ってしまったのではないだろうか。巡視路は送電鉄塔までで終わっているのだろうが、横峰寺まで道が続いていると勘違いしていた女性はその先を歩き続け、遭難してしまったのだろうと思う。 登り始めから約45分程で沢が途絶え、乾いた杉林の山道となった。それと同時に傾斜が急になり、かなりハードな道のりへと変化した。道沿いには丁石地蔵の他に遍路墓もちらほら見られ、山道の険しさを物語っている。 ちょくちょく休憩と取りつつ登っていくと、「横峰寺まで0.6km」と記された現代の道標と共に「五丁」の地蔵丁石が鎮座していた。この辺りにはかつて古坊(ふるぼう)という集落が存在しており、昭和50年代初頭まで住民がいたというから驚きだ。石鎚修験の行者が住む集落だったのだろうが、現在は所々に存在する石垣にその名残が見られるくらいである。 横峰寺は石鎚修験における拠点のひとつとして発展してきた神仏習合の霊場であったが、明治の神仏分離令によって石鎚蔵王権現は石鎚神社に帰属することとなり、横峰寺はあえなく廃寺となってしまった。その後、檀家総代の請願によって明治13年(1880年)に大峰寺という名で復興し、明治42年(1909年)には元の横峰寺という名に戻されている。 山中の限られた土地にある為か、その境内は私が想像していたよりも随分コンパクトな印象だ。廃寺になった時に堂宇が棄却されたのか、現存する堂宇は比較的新しい感じである。しかし平安時代末期の金銅蔵王権現御正体や木造大日如来坐像が残るなどその歴史は本物であり、平成29年(2017年)には境内一帯が「伊予遍路道」の一部として史跡に指定されている。 なお、山門から林道を500m程南に行ったところには、横峰寺の奥の院である「星ヶ森(ほしがもり)」が存在する。石鎚山を望むことができる遥拝所であり、かつて役行者が蔵王権現を感得したとされる場所だ。また空海が厄除けの為に星祭りの供養を行ったとのことで、それにより星ヶ森と呼ばれるようになったという。 石鎚山に面して構えられている「鉄の鳥居」が非常に印象的であるが、これは貞享4年(1687年)に真念が記した『四国遍路道指南』にも記述が見られ、少なくとも江戸時代前期には既に存在していたことが伺える。現在するものは江戸時代中期にあたる寛保2年(1742年)に建てられたものとのことで、石鎚山に挑む数多くの行者や遍路がこの鳥居越しに石鎚山を眺めたことだろう。 霊峰石鎚山を望む展望所として江戸時代から知られており、石仏なども数多く残る星ヶ森。石鎚信仰に纏わる景観を良好に残すことから、平成29年(2017年)には「星ヶ森(横峰寺石鎚山遥拝所)」として国の名勝に指定された。 石鎚山に登るのは時期的にも装備的にもさすがに無理なので、横峰寺へと引き返すことにする。下山道は大師堂の左手から伸びる路地から続いているようだ。そのまま進んでいくと、やがてアスファルト敷きの林道と合流した。この林道は昭和59年(1984年)に開通したとのことで、それ以前は徒歩でしか横峰寺にアクセスすることができなかったという。 また車両が通行できるとはいっても林道の道幅はかなり狭く、自動車が一台通れるくらいしかない。ツアー遍路などの団体は、数台の車に分乗して上ってくることになるのだろう。それはそれで大変そうだ。 緩やかに続く尾根伝いの道を歩いていくと、かつて茶店が存在したという“おこや”と呼ばれる地点に差し掛かった。そこには道標が設けられており、左には「香園寺道 奥之院ヲ経テ一里十六丁」、右には「香園寺へ一里二十丁」と刻まれている。 第61番札所香園寺の奥の院である「白滝」は、昭和8年(1933年)に当時の香園寺の住職によって開かれた霊場であるという。故にそれを経由する左のルートは比較的新しい道であり、右の谷筋へ下りるルートが古来からの遍路道のようだ。 しかしながら、尾根沿いをそのまま進む方が楽だからか、現在は左の道が主流になっているようで、遍路地図にも右の道は記載されていない。右の道は若干荒れている感もあり、私もまた左のルートを行くこととなった。確かに歩きやすい道ではあるものの、横峰寺から続いていた地蔵丁石が途絶えてしまい(おそらく右のルートへ続いているのだろう)、遍路道として若干寂しくも感じた。 遍路地図によるとここから先は当分市街地を歩くことになるらしく、幕営するにはここしかないと当たりを付けていた休憩所である。既に17時を回っており、先客がいるのではないかと心配したものの、幸いにも杞憂に終わってくれた。 周囲に民家がなく、白滝のトイレが使えるので野宿に適した東屋であるものの、ただ唯一にして最大の問題点が存在する。水道がないのだ。手持ちの飲み物は横峰寺の上りと下りで尽きて久しく、喉はすっかりカラカラだ。白滝まで行けば自販機の一つでもあるだろうと考えていたのだが、残念ながらそう甘くはなかった。もういっその事、白滝の沢水を飲んでしまおうかとも思ったが、滝壺は微妙に泡立っており、これを飲むのには勇気がいる。 結局のところ、水を求めて約1.5km先の大谷池まで歩くことになった。やはり自販機は見当たらなかったものの、堰堤脇の公園に水道があったので事なきを得た次第である。しかしながら、険しい山道を越えた後の往復3kmは延長戦としてかなりキツく、テントに戻った頃にはすっかりくたくたになっていた。昨日今日と少々頑張りすぎた感じがするので、明日はもう少しのんびり行きたいところである。あー、疲れた。 Tweet |