昨日は横峰寺という伊予国最大の難所を越えたこともあり、その疲労感からか、あるいは安堵感からか、いつもより遅めの5時半ぐらいまで眠りこけていた。 とりあえずテントを片付け、水道のある大谷池の公園まで歩く。顔を洗ってサッパリした後は朝食だ。レーズン入りのロールパンを頬張りながら天気予報をチェックすると、明日からまた雨になるらしい。あまり嬉しくないその情報の正確性は、爽やかな朝とは思えないどんよりと重く沈んだ空模様が裏付けていた。 腹が膨れると再び眠気がやってくる。ベンチに座ってうとうとしつつ、約一時間後の7時20分にようやく重い腰を上げて大谷池を後にした。 今日は旧小松町から始まり、西条市の市街地をひたすら歩くことになるのだが、その途上には計四箇所の札所が存在する。松山や今治ほどではないものの、小松もまたちょっとした霊場密集区間である。 このまるで市民文化会館みたいな鉄筋コンクリート製の建物が、紛れもなく香園寺の本堂である。正確には大聖堂と称しており、二階部分に本尊と弘法大師を祀っている。いわば本堂と大師堂と講堂の機能を兼ね備えた建物だ。 実をいうと、私は以前より香園寺のことは話に聞いて知ってはいたのだが、こうして実物を前にすると、いやはや、なんというか、言葉を失ってしまう。まさに眠気を吹き飛ばすインパクトだ。事前知識が全くなく香園寺に来ていたら、四国霊場とは別の、新興宗教団体かなにかの施設にでも迷い込んでしまったのかな? と思っていたかもしれない。 寺伝によると、香園寺は用明天皇の病気平癒を祈願して聖徳太子が建立したとされる。平安時代の大同年間(806〜810年)に弘法大師空海が訪れた際、門前で身重の女性が苦しんでいたので栴檀の香を焚いて祈祷をしたところ、無事に元気な男の子が産まれたとのことで、安産や子育てに御利益がある「子安大師」として信仰を集めてきた。 また香園寺はかつて先ほど通りがかった高鴨神社の別当寺だったのだが、江戸時代後期の享和2年(1802年)に「別当退職願」を小松藩に出してそれが認められたという。明治の神仏分離令よりも50年以上も早く、自らの意思で神社から独立していたのだ。 昭和51年(1976年)には大正3年(1914年)建立の本堂を妙雲寺に移して大聖堂を建立するなど、アバンギャルドというか、ロックというか、伝統よりも革新を望む、反骨精神に満ち溢れた寺院なのだろう。 出発から香園寺まであっという間の到着であったが、第62番札所である宝寿寺までもわずか1.3kmの距離である。サクッとクリアしてしまおうと思ったのだが、旧讃岐街道に差し掛かったところで三嶋神社というこれまた古そうな神社に目が留まった。舟山という丘の上に鎮座しており、境内の裏手には古墳も存在するという。 松山を出てから昨日まで旧今治街道を歩いてきたが、ここ小松町からの遍路道は主に旧讃岐街道を辿ることとなる。松山城下から桧皮峠を経て讃岐国の丸亀へと至るかつての主要街道で、金刀比羅宮への参拝客も多かったことから金毘羅街道とも呼ばれていた。 旧小松町役場(現西条市役所小松総合支所)の角を北へと曲がり、国道11号線に出る。そのまま道なりに少し歩けば早くも宝寿寺だ。 こんなにあっけなく辿り着いて良いものかと思いながら、信号が青になったので横断歩道を渡る。――とその時、右折の車が強引に突っ込んできて危うく轢かれそうになった。……まったく、これだから、車道は嫌いである。 旧小松町の中心部、JR予讃線伊予小松駅のすぐ側に境内を構える宝寿寺は、かつて駅を挟んだ北側に鎮座する一之宮神社の別当寺であった。すなわち、ここもまた本来の札所は神社である。 社殿によると、一之宮神社は天平宝字年間(757〜765年)に聖武天皇の勅願によって創建されたとされる。かつては現在地の約1km北方にある中山川の北岸に位置していたが、承応2年(1653年)に現境内に移されている。 別当寺である宝寿寺は明治の神仏分離令により廃寺となり香園寺に吸収合併されたものの、明治10年(1877年)頃に復興した。その後、大正12年(1923年)には予讃線の開通に伴い境内に伊予小松駅が築かれることとなった為、線路を隔てた現在地に移されたという経緯である。 かつては同じ境内にあった宝寿寺と一之宮神社であるが、現在は伊予小松駅をぐるっと迂回しないと辿り着くことはできなくなっている。狭い宝寿寺の境内には大勢の遍路でひしめき合っているにも関わらず、社叢が生い茂る一之宮神社には誰一人の姿もないのが実に対照的だ。 お参りをしようと社殿の前に立つと、わざわざ一之宮神社まで来る遍路が珍しかったのか、近所の人らしきおっちゃんが声を掛けてきた。しかも物凄く話好きな方のようで、神社の由緒から現在の宝寿寺に至るまで、20分たっぷり聞くハメになってしまった。もっとも、話を聞くのは楽しくもあるのだが、こうも長いと自分のペースが崩されてしまう。今日はのんびりと行きたいと思ってはいたものの、これではどちらかというとダラダラな感じである。 早速お参りをしようと参拝セットをザックから取り出すものの、いつもは線香の箱にしまっているはずのライターが見当たらない。宝寿寺で置き忘れてきたのだろうか、これでは線香やローソクに火を点すことができない。 結局、今歩いてきた距離の大部分を引き返し、途中にあったコンビニでライターを購入して再び吉祥寺に戻るハメになってしまった。これはもう、ダラダラを通り越してグダグダである。次の札所まで近いのだからと油断していると、こういうチョンボをやらかすのだろう。気を引き締め直し、改めてお参りをする。 吉祥寺の創建は弘仁年間(810〜823年)、空海がこの地を訪れた際に光を放つ檜を発見し、毘沙門天像と脇侍の吉祥天像と善膩師童子像を刻んで堂宇に安置したことに始まるという。元の境内は南東の坂元山にあったものの、豊臣秀吉の四国征伐の際に戦火を被り、その後の万治2年(1659年)に末寺の檜木寺があった現在地に再建されたそうだ。 なんでもこの「成就石」は、目隠しをした遍路がこの穴に金剛杖を通すことができれば願いが叶うとされ、実際に目を閉じて杖を通そうと試みている人もいた。大坂の四天王寺では目隠しをして鳥居を潜ることができれば極楽浄土へ行けると聞いたが、それと同じような信仰なのだろうか。 納経を終えると、時間は10時半を回っていた。もうお店が開く時間なので、近くのスーパーで昼食用の弁当と饅頭、それと残り心許なくなっていた線香を一箱購入した。先ほどのライターの件もあるし、参拝セットはなるべく余裕を持って整えておくことにしよう。 吉祥寺から次の第64番札所である前神寺(まえがみじ)までの距離は3.2km。今度は交通量の多い国道11号線ではなく、旧讃岐街道を行くことにした。吉祥寺の門前から旧街道に戻ると、その合流点には「柴井の泉」と呼ばれる湧き水が存在する。昔から飲み水や洗濯水として利用されていたようで、現在は「芝之井」とも呼ばれている。 この湧き水にも空海の加持水伝説があり、遠くから苦労して水を運んでいた老婆の為に、空海が杖を突いて清水を湧き出させたという。『四国遍礼霊場記』や『四国遍礼名所図会』にも記述が見られ、街道を行き交う数多くの遍路や人々の喉を潤してきたのだろう。ただ、周囲が普通の住宅街である為、現在この湧き水を口にするには少々勇気がいる感じである。 そういえば、遍路を始めたばかりの頃は、まだフジの花が咲いていたっけなぁ。そんな感慨に耽りながらこんもりと茂るフジの木を眺めていると、ふと境内の左右に立つ柱に刻まれた寺名が異なることに気が付いた。右の柱には「阿弥陀寺」とあるのに対し、左の柱には「清水寺」とあるのである。 少し考えたところ、おそらく清水寺の阿弥陀堂で、通称として阿弥陀寺とも呼ばれているのだろうという結論に至った。特定の住職がいるわけではなく、地域で管理されてきたお堂のようなので、そういう呼称の混同が起きていても不思議ではないだろう。 ひとつ納得いったところで引き続き旧街道を進んでいく。やがて右手の視界が開け、鳥居の奥に巨大な二重門が見えた。すわ前神寺に到着かと思いきや、その参道の入口には「石鎚神社」と掲げられていた。 石鎚神社はその名の通り、石鎚山を御神体とする神社である。かつて石鎚山は石鎚蔵王権現と称され、古代より神仏の宿る修験道場として知られていた。その信仰の拠点であったのが、昨日訪れた第60番札所の横峰寺であり、そして第64番札所の前神寺である。しかしながら、明治の神仏分離令によって石鎚蔵王権現が否定され、前神寺は横峰寺と共に廃寺となった。その前神寺の跡地に築かれたのが、この石鎚神社なのである。 前神寺は裁判を起こして行政に抵抗したものの廃寺の決定は覆らず、明治12年(1879年)に檀家が「前神寺復旧出願」を提出したことでようやく再興が認められた。しかし、かつての境内は石鎚神社に取って代わられてしまった為、前神寺は子院である医王院の境内に身をやつすこととなった。なお復興当初は前上寺(ぜんじょうじ)という名であったが、明治22年(1889年)に元の前神寺の名に戻されたそうだ。 それにしても、東予地方に入ってからというものの、神仏分離令の影響を受けた札所が目立つようになってきた。それだけ神仏習合の信仰が盛んであった土地ということなのだろうが、中でも石鎚山信仰と密接に関係する横峰寺と前神寺は、激しい廃仏毀釈運動が吹き荒れた高知県並みに徹底された印象だ。改めて、明治の神仏分離令とそれに伴う廃仏毀釈運動が四国八十八箇所霊場に与えたダメージは甚大だと実感した次第である。 元前神寺もとい石鎚神社の庭園にあったベンチで昼食休憩とし、それから現前神寺でお参りと納経を済ませた。これで本日周る予定の札所はすべて参拝し終えたことになる。なんだか少し疲れた感じがするので、テントを張れそうなところを発見したら今日はそこまでにしようと思う。とはいえ、市街地が続くこの辺りでは、それがまた難しそうではあるのだが。 門の横にあった説明板によると、これは「土居構(どいがまえ)跡」だそうだ。南北朝時代の康暦年間(1379〜1381年)頃に河野通直(こうのみちなお)によって築かれた高峠城の居館であったという。江戸時代前期の寛永19年(1642年)には庄屋の久門政武(くもんまさたけ)が屋敷を構え、以降は現在まで代々子孫が継承してきたそうだ。 主家は寛文年間(1661〜1673年)の初頭に建てられたもので、度々の改築を重ねながらも旧態を保っているという。また書院の庭園は江戸時代初期のものとのこと。現在も住居として現役のようなので内部の拝観は残念ながらできないようだが、その立派な石積みの屋敷構えはまさに城主の居館に相応しいたたずまいである。 遠目で見たら東屋のようだったのでぬか喜びしてしまったが、近付いてみたら石碑を雨から守る為の覆屋であった。なんでも、加茂川用水の取水口付け替え工事を記念して嘉永5年(1852年)き築かれた石碑とのことである。かなり痛んでいるようなので覆屋を設けるのは当然の措置ではあるが、少々ガッカリである。 この竹丈公園にはトイレも水道もあるので宿泊できないこともなさそうだが、野ざらしのベンチがあるだけで東屋は存在しない。今夜はほぼ確実に雨が降るようで、屋根のない場所で寝るのは非常に厳しい状況だ。……まぁ、まだ15時半と時間はあるので、もうひと頑張りするとしようじゃないか。 この地蔵庵は、空海が一夜にて石刻したという地蔵尊が祀られているという。その由来はさておき、明和8年(1771年)に厨子を再建したという記録が残っているとのことで、江戸時代中期には既に存在していたことがうかがえる。地蔵原という地名の元になるぐらいであるし、相当に歴史のあるお堂なのだろう。 またこの地蔵原には「王至森寺(おしもりじ)」という寺院が存在する。こちらもまたかなりの古刹なようで、境内は緑豊かな巨木によって覆われていた。特に境内入口の右手には高さ16m、根回り4mにもなるキンモクセイが聳えており、国内最大級のものとして国の天然記念物に指定されている。 地蔵原の集落を出ると、遍路道は室川に架かる橋の袂で再び旧讃岐街道へと合流した。閑静な住宅街の中を通る旧街道を道なりに進んでいくと、やがて右手に六地蔵と大師堂を祀る集会所が現れた。 かつてこの場所には王至森寺の庫裏を移築した接待堂があり、近隣住民の方々によって遍路の接待が行われていたという。しかし訪れる遍路が減少し、建物も古くなったことから取り壊され、新たに集会所が建てられたという。 この六地蔵の他、その手前の西原や少し先の祖父崎(そふざき)池でも同じような接待が行われていたとのことで、この辺りは随分と遍路の接待が盛んな地域だったようである。 ついに、出発地点である徳島を標識圏内に捉え、私は思わず「おぉ!」と声に出してしまった。176kmという距離はともかく、いよいよ私の遍路も終点がおぼろげに見えてきた感じである。 確実にゴールへと近付いていることに感動したのも束の間、現在時刻は17時過ぎと日没が間近に迫っているという目下の現実に表情が曇る。遍路道はさらに密度の高い住宅地へと入っていくようで、この先に野宿ポイントは望めない。 これはマズイと少々焦りを募らせつつ地図を見ると、どうやらすぐ側にJR予讃線の中萩駅があるようだ。もしやと思い、藁にも縋る気持ちで中萩駅について検索してみると……おぉ! やはり無人駅であった! いやはや、この立派な駅舎なら、雨だろうが槍だろうがカメバズーカだろうが何でも掛かって来いというものである。……とはいえ、問題点がないこともない。ひとつは、JR予讃線は列車の本数が多くて終電は23時過ぎだということ。そしてもうひとつは、暇を持て余した高校生たちが駅舎の前でタバコをふかしながら大声で談笑していることだ。まったく、若者は若者らしく、自宅に籠ってテレビゲームとか漫画とかインターネットとかに興じていて貰いたいものである。 とりあえず夕食を済ませてベンチでうつらうつらしていると、高校生たちは若者らしく列車に乗って帰っていった。よーし、これで問題は残りひとつだ。だらしない遍路が駅で寝ていると思われるのは嫌なので何とか終電まで耐えようと頑張ってみたのだが、体が睡眠を欲しているようで猛烈な眠気が絶え間なく襲ってくる。とにかく眠く、眠く、どうしようもないくらいに眠く、結局、21時過ぎにはベンチに横になっていた。 Tweet |