雨はもう間もなく止みそうな感じではあるものの、依然としてザックや靴はびしょ濡れで、昨日の雨中行軍の影響が色濃く残っている。松山から歩き続けてきたことで疲れも溜まっているらしく、何だか体調があまり優れない感じだ。なので今日は、昨日の目的地であった、三角寺への登り口にある戸川公園まで歩いて終わりにしようと思う。残すところは15kmばかりと、実質の休息日だ。 8時半を回り、通りを歩く人の姿が増えてさすがに人目が気になり始めてきた。雨もちょうど止んだようであるし、荷物をまとめて出発だ。昨日に引き続き今日もまた、国道11号線と並走する旧讃岐街道を東へ進む。 雨が降っているわけでも、霧がかかっているわけでもないにも関わらず、なぜか写真がすべて白く曇ってしまっている。何かおかしいとレンズを外して調べてみると、ズームリングの隙間から水がにじみ出てきた。 レンズの内部にまで水が入り込んだ上に、気温が上がってきたことで結露してしまったのである。これは非常にマズイとズームリングを伸ばしたり縮めたりしつつ、滲み出てきた水分をタオルで丁寧にふき取る。しばらくそうしていうるちにようやく曇りはなくなり、まともに写真が撮れるようになった。ふぅ、あぶない、あぶない。 私は広角とズームの二本のカメラレンズを持ってきたのだが、そのうち広角は早々に壊れてしまったので既に自宅へと送り返している。このズームレンズまで使えなくなってしまったら、今後一切の写真が撮れなくなるところであった。とりあえずは何とかなったものの、全身冷や汗でびっしょりである。遍路から帰ったらクリーニングに出さなければ。 この辺りは石材が豊富なのか、立派な石塀を築いている旧家が多くみられる。いずれの家もまるで競うかのように立派な庭木を植えており、しかもちゃんと手入れがなされていて感心する。主家の形式にも統一感があり、地方柄が出ていて良い雰囲気だ。 目的地に早く着きすぎるのもなんであるし、靴下が湿っていてマメができやすい状態でもあるので、景色を楽しみながらゆっくり歩く。周囲に建ち並ぶ民家は農家型から町家型へと変化し、これぞ旧街道というたたずまいを見せている。 そのまま道なりに進んでいくと、やがて国道11号線のバイパスと交差した。旧讃岐街道はここで左に折れるのに対し、三角寺への遍路道はそのまま直進である。要するに旧街道と遍路道の分岐点ということで、かつてこの場所は「へんろわかれ」と呼ばれていたそうだ。 現在は「へんろわかれ」を横から貫くようにバイパスが通されたことで明確な分岐点は消滅しており、旧街道の道筋が分かりづらい状態となっている。故に私はここで旧街道と別れていたとはまったく気づかなかったものの、改めて見直してみると、確かにバイパスの袂には道の分岐を示す道標が立てられていた。 バイパスに架かる歩道橋を渡り、少し進んだところで道標に従い右へと曲がる。遍路道は緩やかな上り坂となり、いよいよ三角寺のある山の方へと向かい始めたのだと実感する。 旧讃岐街道から離れて以降、やたらと多くの道標を目にしている気がする。それこそ、曲がり角や分かれ道に差し掛かる度に道標が立っているという具合である。なんでもこの辺りの集落では、江戸時代中期より遍路の為の道標を建てるようになったとのことで、四国八十八箇所霊場の中でも特に道標が多いエリアだという。 それらの道標を辿りながら進んでいくと、再び国道11号線のバイパスに出た。これから三角寺へと向かうにあたり、この辺りで食料を仕入れておかないとなぁ。そんなことを考えながら信号待ちをしていると、横断歩道の少し先に停まった車から「木村さん!」と呼び止められた。 なんでもこれからラーメンを食べに行こうとしている最中にたまたま私の姿を見かけたとのことで、「ご一緒にどうですか?」と誘われてしまった。ちょうど正午を回りお腹がグーグー鳴きだしていたこともあり、「ぜひぜひお願いします!」と二つ返事である。 これがとても素晴らしいラーメンであった。スープはあっさりながらも魚介系の出汁が効いており、チャーシューもとろっとろである。疲労が蓄積した体が塩分と脂分を欲している上、久しぶりの温かいご飯ということもあり、まさに五臓六腑に染み渡るうまさであった。 帰りはバイパス沿いにあったスーパーで下ろして貰い、当面の食料を買い込んでから遍路道へと戻る。バイパスを過ぎてからは傾斜が増し、満腹を抱えた身には少々キツイ坂道となった。 江戸時代前期の貞享4年(1687年)に初の四国遍路ガイドブックである『四国遍路道指南』を著した真念は、四国遍路の庶民普及に尽力した立役者であり“四国遍路中興の祖”とも称されている。遍路道に数多くの道標を整備したことでも知られており、これもまたそのうちのひとつだ。 時間は14時半過ぎ。早すぎもせず、遅すぎもせず、ちょうど良い頃合いである。まずは施設のチェックだ。トイレ良し、水道良し、肝心の東屋は規模こそかなり大き目だが、大部分をテーブルと椅子が占めているのでテントを張るスペースはごく僅かだ。でも、まぁ、荷物をテーブルの上に出せば寝られないこともないだろう。 私がそんな算段をしていると、一人の遍路が戸川公園に入ってきた。ザックに加えてカートを携えたおじいさんである。その荷物的に考えると、私と同様、宿を取らない野宿遍路のようである。 カートの遍路といえば序盤にご一緒したおばあさんを思い出すが、このおじいさんのカートは担げるタイプではなさそうなので、山道を越えるのは厳しそうだ。舗装路だけを選んで歩いているのだろうか。 おじいさんは休憩の為に戸川公園へ立ち寄っただけのようで、程なくして三角寺に向かって出発していった。もっとも宿泊を考えるにはまだ早すぎる時間なので、当然といえば当然なのだが。……なんだか早くも一日を終えようとしている自分がダメ人間のように思えてきた。いやいや、私はあくまでも私のペースで行くのだ、と自分に言い聞かせて僅かに芽生えた罪悪感を打ち消した。 太陽がほとんど出ていないのであまり期待はできないものの、少しでも水気を飛ばしたい。寝袋は水に濡れると、冷たいやら、重くなるやら、臭くなるやらでまったくもって良いことなしだ。これからはビニール袋で二重に包んでおこうと思う。 この戸川公園は野宿遍路にとって都合が良すぎる場所にある為か、野宿スポットとしてかなり人気があるようだ。私が寝袋の乾き具合を見ていると、大学生ぐらいの青年がやってきて「ご一緒しても良いですか?」と尋ねてきた。もちろん、笑顔で快諾である。 さらに日が暮れるともう一人、別の遍路がやってきた。白装束に黒い袈裟を身に纏ったその姿には見覚えがある。そうだ、かなり前に竜串の道の駅でご一緒した若いお坊さん遍路ではないか。向こうも私を覚えてくれていたらしく、「お久しぶりです」と互いに挨拶を交わした。 私は松山にしばらく滞在していたこともあり、もうとっくに先へと行ってるものとばかり思っていた。そのことについて話を伺ってみると、なんでもお坊さんは札所以外にも奥の院や番外霊場にも積極的に足を運んでおり、どうしても時間が掛かっているとのことだ。石鎚山にも登ってきたとのことで、このアルコールストーブも松山で登山用具をそろえた時に買ったという。 ひょえー、毎日の托鉢に加え、まさか石鎚山登頂までやってのけるとは。その徹底ぶりには度肝を抜かされるばかりである。さすがはお寺の跡取り、遍路に対する意気込みが私とは根本から違う感じだ。ポングたちフランス人二人組は四国遍路をレジャーとして満喫している感じなのに対し、このお坊さんは四国遍路を修行として満喫している感じである。いずれにせよ、極めて充実した日々を送っているに違いない。 またお坊さんは野宿スポットについての情報も豊富に持っており、許可を貰って遍路地図に書き写させて頂いた。これから愛媛県を出て香川県に入ると市街地が多くなり宿泊地探しに難儀すると聞いていたので、これ以上ないくらいにありがたい情報であった。 Tweet |