やはりいくら横になっていてもベンチでは熟睡できるものではない。しかも夜中の2時40分に和歌山港発の便があり、行き交う人々の気配に起こされたりもした。5時間足らずの仮眠なので疲れと眠気が澱んでいることは否めないが、まぁ、すべてが終わるまでもうあと僅かである。体力を使い果たしても構わないという意気込みで挑むとしよう。 5時過ぎに徳島港発の便が到着したので、下船してきた乗客に紛れてターミナルを出る。動く歩道のある渡り廊下を進んでいくと、南海電鉄の和歌山港駅に出た。なるほど、鉄道からフェリーへ直に乗り入れできるようになっているのだ。もっとも、私はお礼参りを終えるまでは鉄道を使うつもりはないので、改札をスルーして構内から外へ出た。 高野山へのお礼参りは四国遍路の一環という考えなので、これまでと同様の白衣&菅笠スタイルで歩いているのだが、和歌山の人々はあまり遍路を見慣れていないと思うので、どのような目で見られるのか少しだけ緊張する。指をさされて笑われたりしないだろうか、怖い人に絡まれたりしないだろうか。どうにも小心者の気が顔をもたげてしまう。 かつて和歌山城には大天守と小天守、および複数の櫓から成る壮大な連立式の天守が聳えており、姫路城、松山城と共に日本三大連立式平山城のひとつに数えられていた。しかし第二次世界大戦末期の昭和20年(1945年)に起きた和歌山大空襲によって岡口門を除くすべての建物が焼失。現在の天守は昭和33年(1958年)に鉄筋コンクリート造で再建されたものである。 現存のものでも連立式天守ならではの複雑さを実感できるが、やはり木造であった頃の天守は迫力が段違いな事だろう。愛知県の名古屋城といいこの和歌山城といい、第二次世界大戦により失われた文化財は甚大であった。 なんでもこの薬医門は、戦国時代に和歌山で勢力を持っていた「太田党」の居館であった太田城の大門なのだという。太田党は天正13年(1584年)の豊臣秀吉による紀州征伐において最後まで抵抗したものの、紀の川を利用した水攻めによって落城し滅亡した。その太田城の大門が和歌山市内の吹屋町にある功徳寺へと移され、第二次世界大戦後に大立寺の山門として現在地に移築されたという。 まだ朝の早い7時過ぎ、和歌山市街地を出ようという辺りで「お遍路さん!」と声を掛けられた。すわ何事かと振り向くと、そこには30代から40代ぐらいと思わしき男性が車から顔を出していた。男性は呆ける私に向かって、「これから高野山? これで飲み物でも買ってよ」と千円札を差し出す。私は驚き目を見開いた。 これはお接待ということなのだろうが、いや、しかし、遍路文化圏の外である和歌山県でお接待を頂くなど完全に予想外の出来事であった。私は慌てて納札を取り出すと、住所と氏名を記入して男性に手渡す。男性は「それじゃぁ」と爽やかに去っていった。 私は手にある千円札を眺めつつ、大変ありがたいご厚意だという喜びが半分、貰う金額が大きすぎたと後悔半分。いやはや、奇異の目で見られることは覚悟していただけに、初っ端からこのような反応がくるとは夢にも思っていなかった。私は若干の戸惑いを覚えつつも、ありがとうございますと財布に収めて歩行を再開したのであった。 ひたすら東に向かって歩いているのだが、真正面でギラつく太陽があまりに容赦なく既にへばり気味だ。四国の遍路道には東屋やベンチが設置されていたりするのだが、こちらはそういうものが皆無である。一休みできる場所がないので、ずっと歩きっぱなしでバテそうだ。 あと、やはり和歌山では遍路は珍しいらしく、人々の視線が少し気になった。なんとなく、道行く人々が皆私を見ている気がするのだ。……自意識過剰かもしれないが。 気を取り直してiPhoneの地図でルートを確認していると、ふと私が歩いている県道と並走するように別の道が通っていることに気が付いた。県道が極めて直線的であるのに対し、その道はくねくねと蛇行しながら東へと続いている。私はもしやと思い、そちらの道に入ってみることにした。 どうやらこの道は、和歌山から大和を経て松坂へと至る大和街道とのことである。徳川御三家の一つである和歌山藩の参勤交代でも使われていた由緒正しい旧街道なのだ。高野山はもちろん、吉野や熊野、伊勢といった霊場への参詣道としても使われていたという。よーし、それでは、私もこの旧大和街道を辿って高野山まで行くとしようじゃないか。 四国では遍路道の道標として幾度となく見てきたこの矢印を、まさか和歌山でも発見できるとは。四国のものより色が濃い目でグラデーションがかっているなどちょっと違う点はあるが、まぁそれが意味するところは一緒だろう。 矢印に導かれるまま角を曲がり、かつて大和街道の宿場町であった岩手清水の町を抜ける。そこからは県道14号線を無我夢中で突き進んだ。この車道に沿って旧大和街道が並走しているはずなのだが、先程のような矢印のステッカーが見当たらず、旧街道の道筋がイマイチ分からない。結局は県道を歩き続けることになったのだった。 東へずんずん進んでいくに従い、周囲の風景が徐々に山っぽくなってきた。周囲の山々が大きく、近くなったような気がするのだ。出発の時点では今日どこまで行けるか分からない感じであったものの、この調子なら高野山の入口である九度山まで行けそうだ。 相変わらず暑いものの、太陽が頭上高くにまで昇ったことで日光が顔に直接当たらなくなり、多少は楽になった感じである。菅笠は雨のみならず、日除けにも役に立つ素晴らしい道具である。 そうこうしているうちに正午になったので、通りがかったコンビニでおにぎりとジュース、それにアイスを購入した。そのコンビニの隣には背の高い木々が生い茂る神社があったので、その木陰に腰掛けて昼食休憩とする。良い風が通り抜ける境内でたっぷり1時間休み、心身共にリフレッシュしてから再出発だ。 時間は15時を回り、強烈な西日に首の後ろが焼かれて痛い。またこれは少し前からなのだが、背中全体がヒリヒリというか、チクチクというか、妙な痛みを感じるようになった。ここ数日暑い日が続いていたので、おそらく汗疹になってしまっているのだろう。まさかこの年になって汗疹ができるとは思いもよらなんだ。ザックを背負う時が一番痛むので困ったものである。 さてはて、和歌山市、岩出市、紀の川市を経てようやくかつらぎ町に入ることができたのだが、ここから九度山町までは残り約10kmとまだ結構な距離がある。できれば17時までに辿り着きたかったのだが、どうやらそれは難しそうだ。まぁ、マイペースにぼちぼち行くとしよう。 直線的な車道が続く国道はルートとして分かりやすいのだが、景色が単調なので歩いていて面白くない。もっと歩くに適した道はないだろうかとiPhoneの地図とにらめっこをしてみたところ、どうやらこの先に紀の川の南岸へと渡る橋があるようだ。 私が目指している九度山もまた紀の川の南岸に位置しており、どうせ最後に渡ることになるのだからと、私はその橋を渡って南岸の道を行くことにした。 九度山は高野山の麓に位置しており、高野山への参詣道「高野山町石道(ちょういしみち)」が始まる起点の町だ。慶長5年(1600年)の関ケ原の戦いにおいて西軍に属していた真田幸村こと真田信繁(さなだのぶしげ)とその父親の真田昌幸(さなだまさゆき)が蟄居させられた地としても有名である。 日没が迫った今の私にとって重要なのは野宿に適した場所があるかということであるが、どうやら町石道を少し進んだところに展望台があり、そこに東屋が存在するらしい。疲れた体を押して町石道を登っていくと、確かにそれらしい施設を見つけることができた。周囲は畑に囲まれており人家がなく、水道がないという点以外はまさに野宿に最適な場所である。 ……が、東屋には大きなテーブルが設置されており、屋根の範囲内に幕営できる隙間がない。でもまぁ今夜は雨が降ることもなさそうなので、東屋の横にある開けたスペースにテントを張らせて頂くことにした。不安だった和歌山での野営地確保も、何とかなると思えば何とかなるものだ。 いやはや、和歌山港から九度山まで40km以上、歩きに歩いて何とか一日でクリアすることができた。最終日間近にして、遍路を始めて以来一番歩いた日なのではないだろうか。寝不足も相まって、すっかりヘトヘトのヘロヘロである。 今夜はこのテント内でできるだけ体力の回復を図り、明日は町石道を歩いて高野山を目指す。その道のりは20km以上と、連続する遍路道としては最後にして最長の距離だ。おそらくは一日がかりの登山となるであろう。正真正銘、私の遍路のラストバトルである。 Tweet |