「バゲットはもう品切れだよ、明日の朝また来てね。6時半から開いているから」。昨日の夕方、宿の近くにあったパテストリーでフランスパンを買おうとしたら、愛想の良い若い店主に英語でそう断られた。 朝6時半過ぎに目を覚ました私は、まだぼんやりとした頭のまま外へ出る。朝の町は静まり返っていたが、そのパテストリーだけは明かりが灯され、既にご夫婦が焼き上がったパンを並べ始めていた。パン屋の朝は早い。 私はドアを押し「ボンジュー」と挨拶して入る。買ったフランスパンはまだほんのりと温かく、少しかじってみると柔らかい上にほのかな甘みがあってうまかった。 宿に戻り、そのフランスパンを半分程食べてから8時に出発。今日も相変わらずの曇り空だ。巡礼を開始してからというもの、なかなか太陽が顔を出してくれない事にいささかしょんぼりする。この辺りの地域は曇りの日が多いのだろうか。 緩やかな坂を下り、町を出る。町の出口にあたる橋のたもとには、木を細工して作られた不気味なオブジェが立ち、巡礼者を見送っていた。その苦痛に満ちたような表情は、ひょっとしたら私の今後を占うものになったりして。……って、いかんいかん、三日間連続の曇り空に、なんだか思考がネガティブになっている。 ソーギュの町を出てからしばらくは、小川の流れる牧場沿いの道を歩く。くねくねと蛇行して流れるその小川は、きっと昔からの流路をそのまま残しているのだろう。護岸も石積みで、なんともほっとする景観である。 牧場の中を一時間程歩いて行くと、周囲の風景は針葉樹林の森林へと変わった。風が吹く度にさわさわと木々が揺れ、心地良い音を奏でてくれる。 切り株に腰掛けて休憩していると、昨日の朝に会ったオランダ人男性が後ろから追いついてきた。「今日はどこまで行くの?」と聞かれたが、正直、まだ時間が早すぎて今日どこまで行けるのか見当が付かない。私がうーんと唸っていると、続いて男性は「ソバージュ?」と聞いてくる。……ソバージュ。その町がここからどのくらいの距離にあるのかは知らないが、まぁ、わざわざ名前を出すくらいなのだから、今日の目的地として適切な場所なのだろう。私は「はい、たぶん、ソバージュ」と曖昧な返事をしてお茶を濁した。 オランダ人男性を見送った後、程なくして私も再出発。前方に彼らを見ながら森を行く。この森は意外とアップダウンがあり、抜ける頃には少々バテていた。昨日、一昨日の疲労がたまっているのかもしれない。 高い塔が立つラ・クローズ(La Clauze)という集落で一休みした後、ここからしばらくは車道である。アスファルト敷きの道は足にとってあまりよろしくないが、傾斜は緩やかなので疲れている時にはまぁ、悪くないのかもしれない。とはいえ、ずっとアスファルトなのは御免こうむるが。 ラ・クローズからさらに一時間。ル・ヴィルレ・ダプシエ(Le Villeret d'Apchiere)という集落を過ぎてからは、両側を丘陵が迫る谷筋の道を歩いた。 牧場の中を蛇行しながら進む一条の巡礼路。反対側の丘陵斜面には、良い感じの町並みとその教会を望む事ができる。時間はちょうど正午。時を告げる鐘の音が谷に鳴り響いていた。 少々お腹が空いたので、シャゾー(Chazeaux)という集落の広場で昼食を取る。メニューはバナナと、朝食の残りであるフランスパンにハンバーガーソースを塗ったものだ。このソースはソーギュのスーパーで買ったもので、肉や野菜を挟まずともハンバーガーの味になる素晴らしい調味料だ。……卑しいとは言わないで欲しい。食費を節約してできるだけ長く旅行を楽しもうという生活の知恵なのだ。塩分も多めに取れるし。 泉に流れる水のせせらぎを聞きながらフランスパンを貪り食っていると、空一面を覆っていた雲が若干隙間を見せ始めてくれた。おぉ、いいぞ。頑張ってくれ、太陽よ。 地図を取り出して見てみると、そろそろ「Le Sauvage」という所に着くようだ。フランスの地名は読み方が英語と違うので少々難しいが、おそらくこれが今朝オランダ人男性が言っていた「ソバージュ」なのだろう。 山道を登り切り、森林地帯が途切れた所で、タイミング良くそのオランダ人男性と再会した。「ソバージュってもう近いですよね?」と尋ねてみると、「このすぐ近くだよ」との答え。 しかし不思議な事に、周囲を見回しても町はおろか集落らしきものさえ見当たらない。あるのはだだっ広い牧場と森林のみである。森林の陰、あるいは谷間の陰にでも隠れていて、今の位置からでは見えないだけ……なのだろうか。 さらに牧場を10分程進んでも、それらしい村は見えてこない。そこには農家らしい一軒の建物が牧場の中にポツンとあるだけだ。……って、いや、まさか……ねぇ……。 「ソバージュ」というのは、村ではなかった。牧場の中にある巡礼宿だったのだ。私は現在、食料を全く持っていない。しかし、ここには食料が買える店などありゃしない。 思わぬ事態に私は悩み、ここに泊まるべきか、それとも次の町へ向かうべきかを考えた。ソバージュに到着したのは午後2時と、宿に入るにはまだ少々早い時間であるが、しかし次の宿がある町までは12.5kmもある。休憩無しで歩いても到着は5時過ぎ。……これはちと、辛い。 そんな中、足元にすり寄ってくる一つの影が―― 手を差し出すとくんくん嗅ぎ、そしてごろんと横になってナデナデを要求する。思いっきりモサモサしてやると、さらにゴロンと転がって今度はこっち側をやれと催促。おぉ、こ、こいつぁ、かわいいぞ。 私はここに泊まる事を決めた。 レセプションで受付を済ませ(宿泊料は素泊まりで13ユーロ)、指示通り裏手の建物へ向かう……が、何しろソバージュは巡礼宿にしては建物がでかく、ちょっとした学校くらいの規模があり、指示された場所が良く分からない。 宿の経営者かそのご家族なのだろう、倉庫の前で作業をしていたおばさんに聞き、なんとかベッドのある部屋にまでたどり着く事ができた。 受付にあったパンフレットによると、何とこのソバージュは1216年に建てられた教会の救護施設がルーツであるという(現在の建物は1816年頃のものだ)。当時より巡礼者を受け入れ、寝床や食べ物を提供していたという。今でも750ヘクタールの土地を所有しているとの事で、要するにこの周囲一帯の牧場は全部ソバージュのものなのだろう。 宿に入った時間があまりに早過ぎた為、シャワーを浴び、洗濯をしてもまだまだ時間は残っている。とりあえず外に出てみたものの、牧場以外には何もないここで暇を潰すのは至難の業だ。 建物の周囲をうろうろしていると、20mくらい離れた所にさっきの猫が見えた。そして目が合った――と思った瞬間、物凄い勢いでこちらに走ってきてスリスリしてくる。おぉおぉ、かわいい奴じゃのぅ、とひとしきり愛でた後、冷たい風に体が冷えてきたので(ソバージュの標高は約1300mである)建物内に入った。 手持無沙汰なのでレストランに行きビールを注文する。クローネンブルグとペルフォースが選べたので、まだ飲んだ事の無いペルフォースを頼んでみた。これが、うまいのだ。まるでバナナのような芳香があり、非常にフルーティ。あまりにうまかったので、調子に乗って3杯、立て続けに飲んでしまった。 しかし食料の切れた今宵の夕食はわびしいもので、食料袋の底に残っていたピーナッツをかじっただけである。だって、レストランで食べると高いんだもの。 Tweet |