この日も朝は霧がかかっていた。寒暖の差が激しい川沿いの谷間というのは、どうしても霧が出やすいものなのだろう。しかし出発時にはその霧もほとんど晴れ、青空が見え始めていた。これ以上無いくらいの天気である。 昨日はメーデーで休みだったスーパーが8時には既に開いていたので、1リットルの牛乳を買ってその場で飲み干した(筋肉を維持する為、タンパク質が重要だとアドバイスをいただいたのだ)。空になった牛乳のボトルをゴミ箱に投げ入れると、私はロット川の橋を渡り、再び巡礼路を歩き始めた。 巡礼路は今日もまたロット川の左岸を行く。アスファルトの車道だが、道はこの一本しか無いので迷う事は無い。途中にはダム湖があり、その湖面では二人の男性がボートを浮かべ朝釣りに勤しんでいた。 そのような風景を楽しみながら歩いて行くと、程無くして巡礼路は未舗装の山道へ突入した。途中でオーノ&クリスティーナと合流し、少しだけ一緒に歩いていたものの、彼らの歩みは私よりもかなり早く、結局は私が見送る形で彼らは先へと進んでいった。 山道を登り切ってからは、いつものごとく眺望の開けた牧場の道となる。草地の中に点在するかわいらしい農家の建物や、風情のある廃墟などを眺めながら、いくつかの集落を越える。 途中の集落ではオーノたちが休憩しており、私は彼らを追い抜いたが、しばらくするとまた追い付いてきて抜かされた。抜きつ抜かつ、なんだかんだで彼らと私は同じくらいのペースで進んでいるような気がする。一緒に歩く時間こそ多くはないものの、度々顔を合わせる事で妙な一体感というか、親近感が生まれる。巡礼者同士の関係としては、なかなか理想的な感じなのではないかと思う。 山道の途中では、見知った顔の女性巡礼者が休憩していたので「サヴァ?(元気?)」と声を掛けてみる。彼女は「サヴァ・ビエン!(超元気!)」と力強く返してくれた。こういう何気無い遣り取りもまた巡礼中の楽しみの一つである。 正午に着いたゴリナック(Golinhac)という村にはスーパー(雑貨屋規模)があったので、缶のパナシェ(ビールのレモンジュース割り)を買って広場でフランスパンと共に食べた。ちっともアルコールが回らないので缶を見たら、度数が1%で少しがっかり。 デザートのバナナを取り出そうと食料袋をゴソゴソやっていたら、何度か路上で顔を見た事のある角刈りの男性がやってきて、広場の隅に腰を下ろした。彼もまた昼食を食べるのかと思いきや、おもむろに靴下を脱ぎだし水道へ向かう。そして足にジャバジャバと水を掛けだした。おぉ、アレはなかなか気持ちが良さそうだ。 一瞬、私もそうしてみようかと思ったが、昼食を食べ終えた今に足を濡らすと乾かないうちに出発する事になるので止めておいた。足がふやけているとマメができ易い。それは四国遍路で学んだ教訓である。 ゴリナックを出てからも、引き続き牧場の道を行く……のだが、私はここで大チョンボをやらかしてしまった。木々が立ち並び、白砂の道が曲がりつつ伸びる雰囲気の良い道なのだが……何かおかしい。牧場の牛たちが、異様に近付いてくるのだ。 これまでにも私は巡礼路上で牛を何度も見てきたが、このように牛が積極的に近付いてくる事は一度もなかった。この「ル・ピュイの道」ことGR65は、数多くの巡礼者が歩く道である。故に牛も人を見慣れているはずなのだが、この牛たちは……何か違う。 そういえば、前の集落を出てからここまで、巡礼路を示す赤白マークを一度も見ていない気がする。嫌な予感がする中さらに少し歩いてみると、黄色マークはあったものの肝心の赤白マークはやはりどこにも見当たらない。私はまたやらかしてしまったのだと確信した。 暑さと焦りで汗をだらだら流し続けながら30分程かけて前の集落まで引き返すと、そこには小さな道標がポツンと立っていた。それによると、私が進んだ道は「PR16」とあり、その下にはこの道は「GR65」ではない事を示す赤白の×マークが記されていた。 油断だった。巡礼路を歩く事に慣れ切っていた私の大いなる油断だった。常に赤白マークを追いかける事を怠ったその報いである。……と大仰に言いつつ、いやぁ、間違えるよコレは。正解ルートの赤白マークも見落としやすいし。 道間違いで一時間程ロスした為、本日の目的地であるエスペラックに到着したのは16時過ぎであった。肉体的にも精神的にもだいぶ疲弊し、ぐったりとしながら教会裏のジット・コミュナルへ向かう。入口に張られていた利用者名簿には、ちゃんと「クリスティーナ:3人」との予約表記があった。奥の部屋に進むとオーノとクリスティーナが既に到着してくつろいでおり、笑顔で私を迎えてくれた。ありがたい。 私が到着した時はまだベッドの空きがあったのだが、シャワーと洗濯を終えて戻るとほぼすべてが埋まっていた。ここのジット・コミュナルは規模が小さいとは言え、さすがに満員になるとは思っていなかった。今日の宿を予約をしてくれたクリスティーナに感謝すると共に、今後の宿事情が少し気にかかった。 夕食のスパゲティとワインを仕入れようと、教会前の役場(MARIAE)でスーパーのある場所を聞いてみたのだが、英語が全く通じずちょっと困った。たまたま居合わせた女性巡礼者が通訳してくれたので事なきを得たが。 しかし、その場所に行ってみても開いているお店が無い。近くのカフェで飲んでいたおじさん巡礼者にその旨を尋ねてみると(この人は英語が多少できた)、彼はカフェの店員さんに店の場所を聞いてくれる。この巡礼を始めてからというものの、私は人に頼りっぱなしだ。しかし、人に頼らず巡礼を行く事などは不可能である。その事に感謝しつつ、おじさんと共に店へ向かう。 ところが、やはりお店は閉まっていた。おじさんは扉の表示を指差し、「開くのは5時からだよ」と教えてくれた。さらにおじさんは「しょうがない、ここはディープ・フランスだから」と語尾に付け加えた。 そうか、私はフランス人ですら「ディープ・フランス」と形容するような場所にいるのか。普通の旅行ではまず立ち寄る事のないであろう村に滞在し、世話を焼いてくれる親切な人々に囲まれ、私はとても贅沢な旅行をしているのだなぁと改めて実感した。 ただ、やはり田舎の村なだけあってエスペラックの物価は高い。5時過ぎに開いたそのお店は、店員さんがとても親切な雑貨屋であったが、大きな町のスーパーなどと比べると商品の価格は1.5倍くらいであった。 Tweet |