巡礼10日目:エスペラック〜コンク(16.5km)






 朝の空気を吸おうと教会前の広場に出てみると、オーノとクリスティーナがベンチで寄り添っていた。そういえば、オーノはコンクの町で今回の巡礼を終えるのだった。そして今日は、そのコンクに到着する日である。別れの時が間近となり、できるだけ二人だけの時間が欲しかったのだろう。私はさすがに遠慮せざるを得ず、逆の方へと歩いて行った。

 程無くしてジットに戻り、朝食を取る。オーノとクリスティーナもまた既に戻ってきており、私に紅茶を振舞ってくれた。腹を膨らませて一息ついた後、私は8時ちょうどに出発した。今日も抜けるような青空で、最高に気分が良い。


エスペラックを後にする


しばらくは緩やかな上りの道だ

 エスペラックの村を出てからは、その直後こそやや急な上りがあったものの、10分程歩くとその傾斜も緩み歩きやすい道となった。足取り軽ろやかに進んでいくと、突如、一軒の農家からかわいらしい犬が飛び出し、私の前に躍り出た。


毛のふさふさした犬が立ち塞がる

 「おぉ、かわいいヤツじゃのぅ」と撫でようとすると、その犬は「ワン!」と吠えた。私は慌てて出した手を引っ込める。なんだ、歓迎してくれているワケじゃぁないのか?

 その犬の声を聞いてか、畑で農作業をしていたおじさんがこちらを振り向き、少し驚いたような表情を見せた。そしてこちらに歩いて来ると、フランス語で何かをペラペラしゃべり出す。私は全く理解ができず困った顔をしていると、おじさんは「コンク?」と繰り返した。どうやら、「コンクへ行きたいのか?」と言っているようだ。

 私は「ウィー、コンク」と答えると、おじさんは私が来た方向を指差した。言葉は分からないが、おじさんの言いたい事は推察できる。おそらく、私はまた道を間違えたのだ。おじさんはさらに身振り手振りを交え、坂道の途中で横道に入らなければならないという事を教えてくれた。ありがとう、おじさん。ありがとう、ワンちゃん。


間違えた道を戻り、横道に入る


セネルグという集落に出た

 農家が点在する牧場の道をさらに登る事一時間弱、角柱の塔がそびえるセネルグ(Senergues)に到着した。ここはエスペラックよりも少しだけ大きな村で、昨夜はここに泊まった人も多かったようだ。遅めの出発をする人々が、ジットの前で準備していた。

 セネルグからは未舗装の農道と舗装道路を交互に歩く。いずれもさほど急な道というワケではないので、景色を楽しむ余裕がある。


比較的なだらかな牧場の道だ


天気が良く、歩くのが楽しい


未舗装路と車道が交互に続く

 10時半過ぎにサン・マンセル(St Marcel)に着いた。ここに到着するのは11時過ぎくらいになると考えていたので、予定よりもずいぶん早い到着である。気分がノッている日は、歩く速度も早くなるらしい。


教会が印象的なサン・マンセル

 教会前のベンチで休憩していると、アメリカから来たというご夫婦が隣に座り、ドライフルーツを食べ始めた。私にもどうぞという事だったので、ありがたく頂戴し口の中へ放り込む。甘酸っぱい味が口一杯に広がり、何とも幸せな気持ちになった。

 ふと足元を見やると、黒い犬が物欲しそうな表情でこちらの様子をうかがっている。旦那さんが袋の中のドライフルーツを一つつまんで投げると、犬はそれをパクリとくわえ、尻尾を振って喜んだ。


ドライフルーツを満喫した犬は、その後すぐに寝た


村の出口にはロバもいた


石垣が美しい山道を下って行く

 サン・マンセルを後にした私は車道を歩き、それから急な下りの山道に入った。遺跡然とした古い石垣が連なるこの山道は、きっと古くから使われてきた往来の道なのだろう。私はゴキゲンな調子でスタスタ下る。

 しばらくすると突如として視界が開け、左手に山並みを望む水平な道路となった。そのまま道なりに進んで行くと、徐々に山の斜面に連なる家々の屋根が見えてくる。おぉ、あれがコンクか!


一目見て、ここは凄い所だと確信した


山の斜面にかわいらしい家屋が建ち並んでいる

 これは素晴らしい町並みだ。コンクの町並みが見えてからというものの、石畳を一歩一歩進む度に感動の思いが募っていく。露出した木目が鮮やかな土壁の家、様々な色合いが多彩な表情を見せる石積の家々が連なるその光景は、きっと中世の頃より変わらぬものなのだろう。「これは素晴らしい町並みだ」今度は声に出して言ってみた。

 このコンクは聖女サン・フォアの遺物を祀るサン・フォア修道院を中心に発展した町である。9世紀、元はアジャンという町にあったサン・フォアの遺物をコンクの修道士が盗み出し、それ以降コンクは聖地として数多くの巡礼者を集めるようになったのだそうだ。

 窃盗から始まる繁栄というのも穏やかな話ではないが、まぁ、このような素晴らしい町並みが形成されたのはそのお陰だろうし、結果オーライである。


連なる屋根も美しいばかりである


キミ、そんなところ歩いて怖くないの?

 時間はまだ正午であるが、もはやそんな事はどうでも良い。既に私はこの町に宿泊する事を決めていた。

 オフィス・ド・ツーリズモに入るとスタンプと町の地図を貰い、ついでにジット・コミュナルの場所を聞く。礼を言って外に出ると、ツーリズモのお姉さんが私を追ってきて一枚の紙を私に渡した。それは日本語で書かれたコンクのパンフレットである。おぉ、日本語のパンフまで用意されているとは、さすがは聖地。観光には少々不便な場所だと思うが、日本人観光客もやってくるのだろうか。

 そんな事を思ったその矢先、私の耳に日本語らしき言葉が飛び込んできた。聞き違いかとも思ったが、再度聞こえていたその声はやはり日本語である。私は声のした方に目をやると、そこには子連れの日本人夫婦がいた。そういえば、今はゴールデンウィークなのである。ル・ピュイを出てから私は一度も日本人を見ていなかったので、驚くと共に久々に聞く日本語を嬉しく思った。


ジットでベッドを確保してからすぐに町へ出た


坂をどんどん下って行く


町の出口には14世紀に架けられた橋があるのだ


中世の巡礼者もこれを渡っていたと考えると感慨深い

 聖地として著名なこのコンクには、世界遺産「フランスのサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路」の構成要素が二つ存在する。一つは町のシンボルであるサン・フォア修道院付属教会、そしてもう一つがドゥルドゥー川に架かる橋だ。いずれも中世の建造物で、古くよりサンティアゴ巡礼者を見守ってきた歴史的なモニュメントである。

 私はドゥルドゥー川の橋を渡り、コンクの先へ続く巡礼路を少しだけ登った。この上に通る道路に、コンクの町並みが一望できるポイントがありそうだったからだ。


明日歩く巡礼路を少しだけ進む


思惑通り、コンクの町を見渡せる場所に出た


古い町並みの中にサン・フォア修道院付属教会が屹立する

 いやぁ、素晴らしい眺めである。ほとんど車が通らない車道に私一人、遮るものの無い崖の縁に腰掛けて、この景色を堪能させていただいた。

 太陽が若干西に傾き始めた頃、私は再び山道を下りてコンクの町に戻る。お次はやはり、サン・フォア修道院を見に行かねばならんだろう。


サン・フォア修道院付属教会の正面ファサード


精緻を極めたタンパン(入口上部の装飾)の彫刻

 この修道院付属教会は11世紀から12世紀にかけて建てられたロマネスク様式の教会である。特にタンパンに見られる「最後の審判」の彫刻は世界的にその名を知られており、ロマネスク美術の傑作とも言われている。

 向かって左側に天国、右側に地獄の様子が刻まれたその彫刻には一部着色も見られ、このような山間の町によくもまぁ残ったものだと心底感心する。


内部は天井が高く、ロマネスク様式の割に意外と明るい


一部には壁画も残っていて驚いた


横側から見るとまた違った印象だ

 さて、コンクの散策を一通り堪能した私は、再びオフィス・ド・ツーリズモに赴きスーパーの場所を尋ねた。残念ながらこの町にスーパーは無いそうだが、代わりに小さなエピスリー(雑貨屋)が路地の奥にあったので、そこでスパゲティとワインを仕入れる。

 食後、ベッドの上でカメラの写真をパソコンに転送していると、ふとダンディな中年男性が近づいてきて私のパソコンを指差し「ウィーフィー?」と聞いてきた。一瞬何のことか分からなかったが、少しの間を置いてそれは「Wi-Fi」の事だと理解した。ジット・コミュナルでネットが使えるワケもなく、私は「ノン」と答えると、男性は残念そうに自分のベッドに戻って行った。なるほど、フランス語では「Wi-Fi」は「ウィーフィー」と読むのか。期待させてしまったおじさんには申し訳無いが、これは一つ勉強になった。