巡礼12日目:リヴァンアック・ル・オー〜フィジャック(24.5km)






 昨日の雨はとりあえず止んでいたが、いつまた降り出してもおかしくない、そんな天気の朝だった。このジットは朝食付きである。私はまだ誰もいない食堂の電灯を付け、既に豆がセットされているコーヒーメーカーのスイッチを入れてから、テーブルの上に用意されているパンを切り分けた。

 コーヒーができた頃には他の宿泊者も起きてきたので、皆でテーブルを囲んで朝食を取る。飲み物はコーヒーやオレンジジュースの他に、フルーツの絵が描かれた缶入りのシロップがあった。私は最初、それが何なのか分からなかった。年配のご夫婦がそのシロップを水で薄めて飲んでいたので、初めて飲み物だと分かったくらいだ。

 私もそれを試してみると、甘酸っぱくてなかなかおいしい。人工的なドギツイ色のシロップなので好き嫌いはあるかと思うが、私は好きな方である。このフルーツ・シロップ、どうやらフランスでは結構メジャーな飲み物らしく、スーパーで並んでいるのをよく見かけた。


リヴァンアック・ル・オーの教会

 宿を出て教会前の広場に差し掛かった時、不意に横から声を掛けられた。そちらを向くと、ジット・コミュナルの窓から二人の男性がこちらに手を振っている。二人のうちの片方は奇妙な赤い玉を鼻に付けたピエロみたいな格好をしていた。少し怪しく思ったものの、まぁ、とりあえず害は無さそうだ。ただふざけているだけなのだろう。

 「君は日本人か?」と英語で聞かれたので「はい」と答えると、3日前にも日本人の女性がこの町に来たのだと言う。渡されたゲストブックを見ると、確かにそこには綺麗なイラストと共に日本人女性の名前が書かれていた。なんと、私以外にも今この「ル・ピュイの道」を歩いている日本人がいるのか。

 ル・ピュイを出発してから、私はこれまで一度も日本人の巡礼者には会っていない。初めて見かけた日本人の足跡に、多少の驚きと感動を覚えた。しかしまぁ、私がこの方とお会いする事はまずないだろう。3日の差はなかなか埋められるものではないからだ。


局所的に霧がかかっていて幻想的な朝だ


ここに来て、ついに麦畑が現れた

 リヴァンアック・ル・オーを出てからは、例のごとく山登り、そして牧場の道である。ただ、これまでの道には無かった麦畑が見られるようになったのが新鮮である。山の下にかかる霧も相まって、うん、悪くない感じである。


昨日の雨の為、道の状態はあまり良くない


モントルドンという村に着いた

 8時に宿を出てから一時間半後の9時半、私はモントルドン(Montredon)に到着した。村の中心にある教会には巡礼者の為の休憩室が設けられており、コーヒーやビスケットを頂く事ができるようだ。私はまぁ、出発してからそれほど経ってもいなし、お腹が空いているワケでもないので食べ物はパスし、スタンプだけを頂いた。

 教会を後にした私は巡礼路を示す赤白マークを頼りに村を出ようとしたのだが、赤白マークは教会をぐるりと回るように配されており、それらをたどって進んだら再び村の入口に戻ってしまった。私はそこがさっきの場所だと気付かないまま(同じ道でも逆側からだと風景の印象が違うものだ)そのまま来た道を戻ろうとして、他の巡礼者に「どこへ行くんだ」と止められた。危ない所である。赤白マークは順行で行く人、逆行で行く人のどちらも迷わないよう、裏表の両側に記されている。ここではそれが仇となった。


怖い顔の猫に睨まれながら、モントルドンを後にする


天気があまりよろしくないのが残念だ

 なお、モントルドンから本日の目的地であるフィジャック(Figeac)までの18kmは、世界遺産「フランスのサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路」に含まれる巡礼路7区間のうち3番目の区間である。

 ただし、この区間は世界遺産のルートが現在の巡礼路(GR65)から外れている箇所が多々あり、赤白マークをたどって行く道の全てが世界遺産というワケではない。また、巡礼路から少し外れたリュナン(Lunan)という集落にあるサン・マルタン教会も巡礼路の付属という形で世界遺産である。あらかじめ知っておかないと網羅できない、世界遺産をたどるという意味ではなかなかややこしい区間なのだ。


この地域の代表というべき良好な景観である


途中の集落も雰囲気良し


でも、未舗装の牧場はドロドロのぐちゃぐちゃ

 巡礼路は牧場の中を行く。その道は泥なのか牛のアレなのか分からないが、とにかくぐちゃぐちゃでかなり参った。場所によっては先人達が切り拓いた迂回道があったりするものの、イバラなどに遮られて迂回道が作れないような場所では、何とか通れそうな場所を選びながら泥道を歩く必要がある。

 何度も足を取られながら牧場を出た頃には、靴はすっかり泥まみれ。最初こそ泥にハマる度に草などで拭いていたが、最後の方には諦めてそのまま歩いていた。


釣り人を横目に池を越える


この区間は牧場の中とはいえ木が多い


ミネラルを摂る為か、牛が木をなめていた

 できるだけ泥を避けながら巡礼路を歩いていると、突然背後からドドドとエンジンの音が聞こえてきた。バイクでも来るのかと思って道を開けて待っていたら、やってきたのは三輪バギー。なるほど、この泥道では二輪よりも三輪の方が安定するに違いない。バギーは柔らかい道の上に轍を残して去って行った。

 牧場を抜けた先のサン・フェリックス(St-Fellix)には水道があり、そこで靴とズボンの裾に付着した泥を洗い落とした。時間もちょうど12時半を回っていたので、教会の影で昼食を取る事にする。……が、ハチミツが底の方で固まっていてパンに塗るのが難儀であった。ドロドロあってほしいハチミツが固くて、固くあってほしい巡礼路がドロドロとはこれいかに。


昼食を取ったサン・フェリックスの教会


サン・フェリックスからは主に車道沿いを行く


しばらくして古びた石垣の道に入った

 サン・フェリックスからは家が点々と続く中、車道と未舗装路を交互に歩く。途中からは大きな車道と合流し、その間は巡礼者によって踏み締められた路側を歩く事になった。このままフィジャックの町に突入するのかと思いきや、今度は石垣が積まれた風情ある横道に入る。

 この石垣の道を越えた後のT字路がクセモノだった。サンティアゴ巡礼路である「ル・ピュイの道」(GR65)はこのT字路を右に曲がるのが正解なのだが、左の道もまた「GR6」というGRシリーズの道に至る派生ルートだったのだ。ここで思い出して頂きたいのは、赤白マークはGR65のみならず、全てのGRに付いているという事だ。つまり、このT字路は右の道にも左の道にも、どちらにも赤白マークがあるのである。

 このT字路に差し掛かった私は、まず左の道を見て、その先に赤白マークがあるのを確認した。赤白マークを「ル・ピュイの道」の道標と信じ切っていた私は、あろう事か何の疑いも抱かずそのまま左に曲がってしまったのだ。T字路に立っていた標識も見落とし、また地図を確認する事もせず、妄信的に左の道を進んで行った。


完全に見落としていたT字路の標識(この写真は翌日撮った)


だって、左の道(GR6方面)にも赤白マークがあったのだもの

 なお、世界遺産の道はこのT字路を右(GR65)ではなく左に曲がり、その途中からフィジャックの町に降りて行くという変則的なルートを取る(昔はこのルートが巡礼路だったのだろう)。なので、結果的に私は世界遺産の道をより長くなぞった事にはなるのだが……しかし、正規の巡礼路を外れて歩くというのは、やはり少々気持ちが悪い。


道を間違えたとはいえ、ここはまだ世界遺産


私は世界遺産ルートからも外れ、GR6を行く


この塔まで来て、ようやく私は道を間違えた事を悟った

 私はフィジャックを回り込むように右手に町を見下ろす尾根の道を歩いて行った。いつまでも町へ降りて行かないそのルートに若干の違和感を覚えつつも、赤白マークがあるのでそれを信じて進む。

 見晴らしの良い公園に立つ塔の下にまで来た時、私は一本の標識が立っているのを発見した。それには「カジャック方面」とある。……ん、確かカジャックってフィジャックの先にある町だよなぁと思いつつ地図を開くと……なんてこった、私がいる場所は、フィジャックを出てカジャックへ向かう道だったのだ。要は、明日歩くはずの道である。

 私はどこかで道を間違えたのだと悟ったが、どこで間違えたのかは全く分からなかった。それだけ自然に道を間違えたという事である。なお、これは後程分かった事であるが、私が歩いたGR6はフィジャックの町へ下りずにスルーし、そのままカジャック方面に向かう為のショートカットルートだったようだ。


フィジャックの町へ下る坂道では、登ってくる巡礼者とすれ違った


フィジャックの出口から町へと入る

 しょうがないので正規の巡礼路を逆走し、フィジャックの町へと降りて行く。その途上では、フィジャックを後にしてカジャック方面へと向かう巡礼者と何人かすれ違った。その度に「どっちへ行くんだ?そっちは戻る道だぞ」と呼び止められ、少々説明に窮した。

 フィジャックはかなり大きな町である。昨日寄ったドカズビルよりも大きいだろう。中世より数多くのサンティアゴ巡礼者が立ち寄るフィジャックは、その頃より商業の町として発展していたそうだ。市街地には趣きのある古い建物がひしめき合い、歴史の深さを感じる事ができる。


細い路地が網目状に連なるフィジャックの旧市街


歴史的情緒がある町並みだ

行き止まりもカッコ良い

 私はまず町の中心広場にあったオフィス・ド・ツーリズモに入り、スタンプを頂くついでにジットの場所を尋ねた。ここのお姉さんは非常に気さくな方で、私が日本人だと分かると日本語で「こんにちは」と挨拶してくれた。ちなみにジットは私営のものがいくつか分散して存在するらしく、ジット・コミュナル(公共宿)は無いようだ。

 フィジャックの町はお祭り騒ぎであった。広場には移動式の遊園地やゲームセンター、屋台が所せましと並び、親子連れ、カップル、少年少女のグループで賑わっている。今日は何か特別な日なのだろうか。私は人ごみをかき分けるように広場を抜け、ジットのある路地へと向かった。


トラックを改造したゲームセンターや屋台が並ぶ


カラフルなお菓子の屋台が目を引いた

 私が入ったジットには、昨日会った一輪車おじさんとWi-fiおじさんの二人もいた。夕方なのに酒の臭いをプンプンさせていた宿の主人にはちょっと「あれ?」と思ったが、部屋はまぁ清潔で、アジア風なインテリアもかわいらしいので良しとする。

 手早くシャワーと洗濯を済ませた私は再び町に出た。ここフィジャックには世界遺産「フランスのサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路」の構成要素の一つ、サン・ジャック病院があるのだ。私は再びオフィス・ド・ツーリズモに赴き、さっきのお姉さんにサン・ジャック病院の場所を聞いてそこへと向かう。町の中心からサン・ジャック病院までは、徒歩で10分ぐらいの距離だった。

 フィジャックのサン・ジャック病院は中世から700年もの歴史を持ち、サン・ジャック(サンティアゴのフランス語)という名前の通りサンティアゴ巡礼にゆかりの深い病院である。現在の主要病棟は18世紀に建てられたのち19世紀に改装されたものだ。


たくさんの病棟が建ち並ぶ中、この建物が世界遺産


現役の病院なので外観しか見られないが

 サン・ジャック病院を見学した後は、町をぶらつきながらジットに戻る。このフィジャックはロゼッタストーンを解読したジャン・フランソワ・シャンポリオンの出身地という事もあり、街中にはヒエログリフのモニュメントも見られた。

 夕食は今日も宿での自炊だが、この日は自炊をするのが私だけであった。しかも宿の夕食準備が異様に遅れていて、キッチンでは「腹減ったー」の大合唱が起きている。私はそのような中、肩身が狭い思いをしながらスパゲティを食べるハメになってしまったのだ。一応遠慮してキッチンの隅でこっそり食べようとしたものの、Wi-fiおじさんに見つかってしまい「そんな所で食べるな。ちゃんとテーブルで食べろ!」と怒られる始末である。

 結局、宿の夕食が出てきたのは私がスパゲティをほとんど食べ終えた頃だ。Wi-fiおじさんや他の宿泊客の方々は、スパゲティしか食べない私を哀れに思ったのか、それとも純粋なる好意からか、私にパンやらワインやらサラミやらを分けてくれた。いずれにしろありがたし。


この食卓で私はスパゲティを食べた

 夕食を終えた後、まだ寝る時間には少し早かったので私は再び町に出た。日が落ちてから町はさらに騒がしくなり、広場ではブラスバンドが演奏を始めていた。

 ちょうど良くフリーのWi-fiスポットを見つけたのでベンチに座ってネットをしていると、ビールを片手に持った酔っぱいのおじさんがやってきて私の隣に座った。「ジャポネ(日本人)?」と聞かれたので「ウィ(はい)」と答えると、「日本語で愛しているって何ていうんだ?」「愛してるって言ってくれ」と迫ってくる。私はまぁ面白かったので、とりあえず日本語で「愛してる」と言ってみると、おじさんは身をもだえるようにして喜びを表現した。……ひょっとして、その手の方なのだろうか。

 おじさんは酔った目でこちらを見ながら「うちに来ないか」と言ってくる。さらにそのおじさんの知り合いも現れ「こいつの家に泊まりなよ」と言ってくる。……うん、やっぱりその手の方だったか。私は笑顔でそれをかわし、とりあえずは事なきを得た。


ブラスバンドが練り歩いてきた


さらに若者が加わり、路上は大賑わいだ

 酔っ払いおじさん二人が立ち去った後もネットを続けていると、ブラスバンドがやってきて目の前にあるカフェの前で演奏をし始めた。それに続いくようにして若者グループが現れ、私の隣に座って話しかけてくる。

 彼らは大学生のようで「今日はバー・マラソンなんだ」と教えてくれた。フィジャックの町にあるすべてのバーを回り、一杯ずつ飲むイベントなのだそうだ。若者はウエイトレスさんからビールを受け取り、それを私に回してくれた。

 このフィジャックでは日本人が珍しいのか、私に対する人々の食いつきがとても良い。日本人に好意的な人が多いのも嬉しい所だ。特に若い人は日本の漫画が好きなようで、度々その話題になった。できれば私も一晩中バー・マラソンを楽しみたい所ではあったが、残念ながら巡礼中の身である以上そうもいかない。

 私は若者たちと別れ、遠くにブラスバンドの音を聴きながら一人ジットに引き返した。