今日は朝から雨がしとしと降っていた。それはジットのレストランで朝食を食べ終わった後も、身の回りのモノを全部ザックに詰め終わっても止む事がなく、私はしょうがなく雨の中、レインウェアを来て出発した。 私の前には、ザックまですっぽり覆うポンチョを羽織ったスペインおじいさんが歩いている。私はおじいさんの背中を追いかけながら森の道へと入って行った。木々の新緑が目に鮮やかで、雨でなければ気持ちの良い道だっただろうに、少々残念である。 一時間ほど森の中を歩くと、バッハ(Bach)という村に出た。ここは何て事の無い普通の村なのだが、道沿いに役所(MAIRIE)があったので覗いてみると、初老の男性職員が一人ポツンと椅子に座って書類を眺めていた。 私が巡礼手帳を差し出しながらスタンプを下さいとお願いすると、男性は快く了解してくれた。棚の中からゴソゴソとスタンプを探し出し、ポンとスタンプを押してくれる。役所でスタンプを貰ったのは久しぶりなだけに、私はなかなか嬉しい気分で村を出た。 このバッハから、本日の目的地であるカオールまでの28kmは、世界遺産「フランスのサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路」に含まれる巡礼路7区間のうち5番目の区間である。「ル・ピュイの道」中盤を代表する森の道だ。 ただ、この区間は平坦な森林地帯であるが故に視界が開けた場所が少なく、同じような景色が続くので割と単調である。晴れていればまた違う話なのであろうが……まぁ、天気ばかりはどうしようもない。 なお、この森の途中では、以前ゴリナックという村の水道で足を冷やしていた角刈り兄さんと再会した。前は一人で歩いていたはずなのだが、いつの間にか同じくらいの年齢の女性と一緒に歩いている。意外と隅に置けないお人である。 バッハを後にしてから3時間弱、私はようやく森を抜けて車道に出た。途中で雨がかなり強くなり、時折木陰で雨宿りをしながらのんびり歩いた感じである。 そろそろ正午になるのでご飯を食べる場所を確保したい所。ガイドブックの地図によれば、この先にはペッシュ(Pech)という村があるようだ。店の類は無いようだが、まぁ、座れる場所くらいはあるだろう。いまだ小雨がパラついているので、できれば屋根付きだとありがたい。 ところが、歩けど歩けどそれらしい集落は見えてこない。不思議に思って車道沿いに立っていた道標を調べると、どうやらペッシュは巡礼路を外れた丘の上にあるようだ。どうしようかとしばし逡巡したのち、やはり丘を登るのは難儀なのでペッシュはスルーとし、先を急ぐ事にした。 しかしその先には休憩できるような場所は全く無く、食事を待ちわびた私の腹はぐーぐーと催促を始めていた。困ったなぁ、やっぱり丘の上まで登るべきだったのかなぁと考えながら進んでいると、その先に巨大な高速道路が通っているのが見えた。巡礼路はその高速道路の高架下をくぐる形で反対側へと続いている。 何度も繰り返すようで恐縮だが、この区間の巡礼路は世界遺産である。そして世界遺産になったものは、その価値を未来へ残す為に現状変更が基本的に不可となる。しかしながら、この道が世界遺産となった1997年の地図を見ると、今に存在するこの高速道路は描かれていない。 道路建設についてどうこう言うつもりはないが、巡礼路の真正性(それが本物であるという事。この場合は道が昔から変わらぬ状態である事)が少々気になる所ではある。まぁ、道路建設が行われても道が付け替えられていないのならば、あるいは付け替えられていても変更範囲が世界遺産委員会において認められているのであれば、特に問題は無いのかもしれないが。 さて、話を元に戻そう。高速道路を越えてしばらく歩いても、結局昼食を取るのに適した場所は見当たらなかった。しょうがないので、崩れた石垣の中から座れそうな石を探し、それに腰掛けて食べる事にする。一応木陰ではあるものの、雨を防げるほどの葉は繁っておらず、濡れながらの悲しい食事となった。 この区間では、やはり食事の場所に困る人が多いようだ。昼食を終えてから巡礼路を少し進むと、角刈り兄さんと女性の二人が私と同じように石垣に腰掛けて昼食を取っていた。さらにその先にはスペインおじいさんが座っており、フランスパンのサンドウィッチをかじっていた。皆、考える事は同じなのである。 さらに進むと集落があり、その先は再び森林の道となった。ここまで来るとようやく雨が止んでくれたものの、昨日から続く森の景色はあまり変わり映えがせず、風景を楽しむというよりはただひたすらに歩いていたという感じである。 厚く立ち込めていた雲は薄くなり、若干ではあるが周囲が明るくなってきた。谷間の平坦な道を進んで行くと、道の先に二人の巡礼者の姿があった。どうやら休憩を終えた直後らしく、今まさに立ち上がり、歩き出そうという所である。 その二人に近付くにつれ、徐々に姿がはっきりしてくる。向こうも私の姿を認めたらしく、こちらを向いて立っていた。そして……ん?何やら手を振っているではないか。よくよく目を凝らして見てみると、その二人はエスパリオンで見かけた切り会っていなかったジョンさんとマイティさんのご夫婦だった。 いやはや、この一週間ぶりの再会には本当に驚かされた。私はエスタンやコンクなどでのんびりしていた事もあり、二人はとっくに先へと行ったものだとばかり思っていたのだ。ジョンさんは「これは奇跡だ」と目を見開いて驚き、町に着く度に私の姿を探していたというマイティさんは少し涙ぐんでいた。たぶん、私も涙ぐんでいた。 今日はどこまで行くんだと聞かれたのでカオールまでと言うと、ジョンさんたちもまた今日はカオールに泊まるのだという。カオールのオーベルジュ・ド・ジュネス(フランス語でユースホステルの意味)を予約しているとの事だ。 私たちは少しの間一緒に歩いていたが、しばらくして歩くペースの違いを気にしたのか、マイティさんが「タケ、先に行っていいわよ」と言ってくれた。どうしようか少し迷ったものの、まぁ、どこに泊まるのかは聞いているワケだし、二人に気を遣わせてしまうのも悪いので、私はとりあえず先行する事にした。 カオールはフィジャックと同じくらいの規模の、なかなか大きな町である。ロット川沿いの段丘地に広がるカオールの市街地には、二連のドーム屋根が印象的なカテドラルが見えた。カテドラルの周囲を取り囲む旧市街の町並みも、赤屋根で統一されており美しい風情を醸している。 坂を下ってカオールの町に入った私は、まずジョンさんたちが泊まるというユースホステルを探す事にした。中心広場の片隅にあるオフィス・ド・ツーリズモへ立ち寄り、スタンプを貰うと共に町の地図を頂く。それを頼りに歩いていくと、坂の上に建つユースホステルに到着した。……が、受付の人が発した言葉は「満室」という無情な一言だった。 しょうがないのでオフィス・ド・ツーリズモに戻り、他のジットの場所を教えてもらう。ジョンさんたちと一緒の宿でないのは残念だが、まぁ、明日もまた巡礼路上で会えるだろう。 教えてもらった二軒のジットのうち、より近い位置にある旧市街のジットを私は訪ねた。細い路地の奥にポツンとたたずむそのジットは、一見すると普通の民家のように見える。表に出ている蝶々の看板で、かろうじてここがジットなんだと分かったくらいだ。 ドアの横にあるブザーを押すと、二階の窓から意外に若いマダムが顔を出した。「予約は無いんですが」と私が言うと「もちろん、大丈夫よ」という返答。マダムはすぐに下りてきて、玄関のドアを開けてくれた。 内部は想像以上にきちんとしたジットであった。部屋は清潔で、おそらく手作りなのだろう、ベッドの毛布はパッチワークである。マダムは英語がペラペラで、仕事の関係で数年間中国に滞在していたらしく、中国語の本やオリエンタルなインテリアも数多く飾られていた。良いセンスである。 このジット、開業してまだ一年目で、どのガイドブックにも載っていないのだそうだ。故に宿泊客はそう多く無く、この日は私一人の貸切状態であった。人懐っこくてかわいらしい猫もいるし、これは良い宿に当たったなと思った。ジョンさんたちにも再会できた事だし、今日は何と素晴らしい日なのだろう。 荷物の整理を終え、ネコに癒され、お茶を飲んで一息付いた私は、カオールの町へ出てみる事にした。まずは町の中心にあるカテドラルの見学だ。ジットが旧市街にあるお陰で各所へのアクセスは非常に楽である。カテドラルへはものの5分で到着した。 このカオールには、世界遺産「フランスのサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路」の構成要素が二つある。そのうちの一つがこのサン・ティエンヌ大聖堂である。 その内部は非常に静謐で神秘的な雰囲気が溢れていた。巨大なドームの天井は、これまでの教会には見られなかったこのカテドラル特有かつ最大の特徴であり、そのドームの中心をじっと見つめていると、まるで吸い込まれてしまいそうな不思議な魅力がある。うん、これは素晴らしい。これまで見てきた教会の中で、このカテドラルが一番のお気に入りとなった。 カテドラルから扉を抜けて回廊に出ると、夕立ちだろうか、突如凄まじい雨が降り出してきた。雨は回廊の屋根を流れ、滝のような勢いで中庭へと落ちていく。ここまで強い雨に遭遇したのはフランスに来て初めての事だ。もし巡礼路を歩いている最中にこんな雨に降られたら、心が折れてしまうに違いない。目的地に着いた後で本当に良かった。 しばらく回廊で雨の様子を眺めていると、鍵を携えた男性がこちらにやってきた。どうやらもう回廊を閉める時間らしい。カテドラル自体もまもなく閉鎖するようだが、この雨では出るに出られず、何人かの参拝者が出口の前で雨宿りをしていた。教会側も閉める時間が来たからと問答無用で追い出すのではなく、しばしの猶予を与えてくれるのがありがたい。 そのまま15分程待つと、雨はピタっと止んでくれたので私は他の参拝者と共にカテドラルから外に出た。次に目指すのはカオールにあるもう一つの世界遺産、ヴァラントレ橋である。 これまた素晴らしい橋である。14世紀に架けられたこのヴァラントレ橋は、町の防衛の為に三本の門塔が立っていて非常にインパクトがある。とは言えあまり軍事軍事してはおらず、上品な感じにまとまっており、カテドラルと同様に私のお気に入りとなった。 日が沈む直前まで橋の景観を堪能していたら、宿に戻るのがかなり遅くなってしまった。玄関の鍵を開けてキッチンに入ると、テーブルに可愛らしいランチョンマットが敷かれていた。その上には、私がマダムに渡していた巡礼手帳がちょこなんと置かれている。早速開いてスタンプを確認してみると―― 私が夕食を取る事を見越してランチョンマットを敷いてくれたその心遣いも嬉しかったが、何よりこの手書きのスタンプには心底感激した。ジットをオープンしてまだ日が浅いのでスタンプが無い為だとは思うが、しかしわざわざ時間をかけてスタンプ風のイラストを描いてくれたのは嬉しい限り。しかも、色付きで。いやぁ、本当に良い宿である。 私がスパゲティを食べていると、マダムがキッチンにやってきた。そして私の飲んでいるワインのボトルをちらりと見る。私が「安いワインですよ」と言うと、「そう」という感じのそっけない反応であった。あれ?さっきはあんなに愛想が良かったのに。 マダムが去った後、ふとロウソク立てとして使われているワインボトルのラベルを見てみると、そこには「カオール」という文字があった。あぁ、ここカオールはワインの産地でもあったのか。気になったのでiPhoneで調べてみると(このジットはWi-fiも使えるのだ)、濃い色が特徴のカオールワインは「カオール・ブラック」と呼ばれ、世界的に有名なのだそうだ。私は、しまったと思った。 マダムからすれば、せっかく著名なワインの産地に来ているのだから、どうせなら地元のワインを飲んで欲しかった所だろう。それなのに、私が飲んでいたのは産地も分からないような1〜2ユーロのテーブルワインだったのだ。フランスでは3〜5ユーロも出せば地元産のワインが手に入る。それなのに安ワインで満足していた自分を恥ずかしく思い、この日を境に私はその土地のワインを選んで飲むようになった。 Tweet |