どうしたのだろう、腹が痛い。なんか、妙に、腹が痛い。朝起きてから、私はトイレの中に籠りっぱなしであった。何か悪いものを食べたのだろうかと昨日の食事を思い返してみるものの、どれが原因だったのか分からない。そもそも、食あたりの腹痛なのかどうかも分からない。風邪という線もあり得るだろう。 結局、私は腹の痛みを抱えたまま出発する事となった。とりあえず出すべきものは全部出したので、道中大参事に陥るような事は無いだろうが、それでも体に力が入らないので色々と心配である。幸いにも昨日と同様、今日もまた歩く距離が短いので(本来は一日で歩く予定の区間を二日かに分けたのだから当然だ)、まぁ、何とかなるだろう。 教会から続く路地を歩き、丘を下って道なりにしばらく進んで行くと、巡礼路の左側に礼拝堂を備えた墓地が見えた。この礼拝堂自体も16世紀の建立となかなか古いものであるが、それよりも目を引いたのは墓地の入口に構えられたロマネスク様式の門である。 この門は、なんとナバレッテの入口にあったサン・ファン・デ・アクレ救護院の門を移築したものであるという。救護院自体は19世紀に破壊されてしまったものの、この門だけはその破壊を免れ、以降はこの墓地の門として利用されているのだそうだ。アーチの形や彫刻が美しい、印象的な12世紀の門である。 朝こそ空にどんよりとした雲が立ち込めていたものの、太陽が昇るにつれ少しずつではあるが青空が見え始めてきた。昨日、初老の日本人女性に聞いた話では今日まで雨が続くという事であったが、思っていた程悪くはならなそうだ。 ブドウ畑の中を歩き、9時頃にベントサという村に到着した。休憩を取っている最中に気付いたことであるが、どうも今日は見かける巡礼者の数が異様に少ない。ナバレッテからこの村に来るまで巡礼者とほとんど会わなかったし、またこの村のバルで休憩を取っている巡礼者の数も少ない。これは、宿を取った場所が大きく影響しているのだろう。 大勢の巡礼者が泊まる町に泊まれば、当然ながら翌日はその大勢の巡礼者と一緒に歩く事となる。昨日泊まったナバレッテは、大都市ログローニョからわずか13キロメートルという中途半端な地点だ。多くの人がログローニョからナヘラまで一気に歩くはずである。つまり、この地点を通る巡礼者のピークと数時間のズレがあるというワケだ。ちょっと人が多すぎるなと感じた場合には、意図的に宿泊する町をずらすのも一つの手である。 本日すれ違った数少ない巡礼者のうち、最も印象に残ったのはこの男性である。お気に入りのものなのだろうか、ザックに熊のぬいぐるみを括り付けているのだ。 このサンティアゴ巡礼や四国遍路などの徒歩旅行では、荷物はできるだけ軽くというのが常識である。軽いが正義、重いは悪、持ち物は最低限に留めましょう、という考え方だ。だがしかし、歩くに必要なものだけしか持たないというのも味気ない話である。お気に入りのぬいぐるみくらい持っていく余裕が欲しいものだ。そのような意味で、私はこの人に好感を持った。 サンティアゴ巡礼路では、小石が積み上げられているのをよく目にする。これは「一つ積んでは父の為――」ではなく、巡礼者が安全祈願の為に積むものだ。昔からの風習のようで、特に石の多い山道では数多くの石積みを目にする事ができる。昨日見かけた金網の十字架と同じく、巡礼路に残された巡礼者の痕跡だ。 この辺りにまで来ると、朝の腹痛はほとんど無くなっていた。しかし代わりに倦怠感というか、軽いだるさがある。いずれにせよ、体調がよろしくない事には変わりない。 ひょっとしたら、栄養の偏りに原因があったりしないだろうか。最近は食事が完全に定型化しており、夕食はスパゲティ、チーズ、サラミの毎日である。野菜的なものは摂っておらず、時々昼にオレンジを食べるくらいだ。今回の体調不良の直接的な原因でないにしても、このままではいずれ体調を崩しかねない。そんな気がする。 サン・アントンの丘からナヘラまでは、緩やかな坂道をただひたすらに下りて行くだけである。周囲にはブドウ畑が広がり、作業をする人々の姿を眺めならが歩く。その途中には中世の騎士ローランがムーア人の巨人フェラグー(Ferragut)を倒したとの伝説が残るローランの丘があったりもした。 私がナヘラの町に到着したのは12時半頃である。天気はすっかり良くなっており、普段はキツく感じる日光の暑さが逆に心地良かった。 町の入口には新しい建物が多く、新興の町なのかなぁと思いきや、町の中心部にはしっかりと古い町並みが広がっていた。やはり、サンティアゴ巡礼路上に散らばる町や村はどこもそれぞれの歴史があり、それぞれの文化財がある。それらを一つに繋ぎ合わせ、一貫性をもたらしているのが巡礼路なのだ。 とりあえず人の多そうな場所を目指して歩いていると、サン・フランシスコ広場という公園のような場所に出た。さてどうしたものかとキョロキョロ辺りを見回していると、ふと一人のおじいちゃんが声を掛けてきた。私がアルベルゲを探しているものと思ったらしく、「アルベルゲ?」と連呼している。私が「シー(はい)」と答えると、おじいちゃんは私の手を取って歩き出した。どうやら、案内をしてくれるらしい。 おじいちゃんに手を取られながら歩くのは少しだけ恥ずかしかったが、たどり着いた場所は紛れも無く公営アルベルゲであった。巡礼路から少し離れている場所にあるので、自力で探していたら苦労した事だろう。おじいちゃんに「グラシアス(ありがとう)」とお礼を言い、私はアルベルゲの玄関へと向かった。 列の最後尾に並んで順番を待っていると、受付の机の上に手持ち金庫のような箱が置かれているのが見えた。オスピタレオからベッド番号の紙を受け取った巡礼者は、手渡しで宿泊料金を払うのではなく、その箱に納めている。投入口には「DONATIVO(寄付)」と書かれていた。おぉ、ここは寄付で泊まれるアルベルゲだったのか。 巡礼宿の中には宿泊料金が定められておらず、このように寄付という形で支払う所もある。金儲けの為ではなく、純然たる善意と信仰心によって運営されている巡礼宿だ。フランスの「ル・ピュイの道」ではオーズのジットがそうであった。任意の金額で良いとはいえ、巡礼宿の維持にはお金が必要だろうし、まぁ、私は比較的相場に近い金額を包むべきだろうと考えている。 受付を済まして財布を開けると、困ったことに小銭がほとんど切れていた。紙幣も10ユーロからしかない。あ、これは困ったなとまごついていると、オスピタレオのお兄さんが「後で入れてくれれば良いよ」と言ってくれた。おぉ、ありがたい。私は礼を言ってベッドルームに入り、少し休憩した後に町の散策へと出た。 ナヘラは旧市街と新市街がはっきり分かれている訳ではないが、主にナヘラ川の西側がかつての中心地のようであり、古い建物が多く残っていた。メインロードの道幅も狭く、昔から続く町の風情が感じられる。 メインロードを歩いていると、緑十字を掲げた薬局があったので入ってみた。店番をしていた可愛らしい女性薬剤師さんに「ビタミンを下さい」と告げると、各種のビタミンやミネラルが入っているというカプセルを出してくれた。よし、これなら栄養の偏りを解消する事ができるだろう、と購入。まぁ、病気にならない為のお守りである。 メインロードを南に抜けると、大きな広場に出る。そこにそびえているのが1052年にナバーラ国王によって創建されたサンタ・マリア・ラ・レアル修道院だ。その教会は岩山に穿たれた洞窟の礼拝堂を覆うように建っており、身廊の後方にある洞窟の入口には王族の棺が安置されている。 教会は15世紀、回廊は16世紀のもので、ゴシック様式を基調としながら様々な様式が混在している。ナバーラ王の庇護があっただけにカテドラル級の規模があり、建築としても美しく、非常に見応えがあった。 町を一回りした後はナヘラ川東側の新市街へ行き、スーパーで夕食を購入した。アルベルゲに戻ってからドネーションボックスに寄付を入れ、それからシャワーである。 残念な事に、シャワーはほぼ水であった。このアルベルゲはお湯の量が有限か、もしくは天日で温めるタイプのシャワーだったのだろう。午後の町散策で汗をかくだろうからと夕方までシャワーを浴びなかったのが失敗であった。アルベルゲに入ったらシャワーと洗濯は真っ先に済ませるべきなのだ。 スペインは昼間こそ暑いくらいに気温が上がるものの、日が落ちるとあっという間に冷え込んでくる。私は歯を食いしばりながら冷たいシャワーを浴びた。 今日の宿にも知っている人は誰一人いなかったが(顔見知りのメンバーとはもう丸一日分の距離差があるので当然だ)、一人でスパゲッティを食べている私にベルギー人のおじいさんが話しかけてくれた。スパゲティ、サラミ、サラダ、そしてワインという私の食べ合わせがとてもグッドだという。いやはや、食事について褒められたの初めてだ。 また隣に座ってご飯を食べていたスペイン人のグループは、どうやら料理を多く作りすぎてしまったらしく、食べろ食べろと私の皿に料理を盛ってくれる。お陰で食後しばらくは食べ過ぎてうんうんうなっていた。これでは栄養不足どころか、逆に栄養過多で太ってしまいそうである。 シンさん姉妹、キムさん、ハチマキさんご夫婦、初老の日本人女性などなど、顔見知りの巡礼者はことごとく先へと行ってしまった。それは少し寂しい事であるが、しかし周囲のメンバーが変わっても、こうして新たな知り合いができていくものである。 Tweet |