巡礼44日目:ナヘラ〜サント・ドミンゴ・デ・ラ・カルサーダ(21.0km)






 うっすらと雲がかかる中、私は普段よりもかなり早い7時過ぎに宿を出た。泊まっていたアルベルゲは二段ベッドが敷き詰められたベッドルームのみの簡素な所だったので、とても寝起きにゆっくりしてから出るというような雰囲気ではなかったのだ。

 教会前の広場から上り坂を歩き、ナヘラの町を後にする。朝から丘を越えなければならないというのは、なんとも難儀な事である。


昨日は巡礼を休んだ為か、体調が良く足取り軽いのが幸いだ


途中には麦畑やブドウ畑以外の畑も見られた

 丘の峠を越えると、その先の一帯は赤い土の平野である。もはやおなじみとなったブドウ畑や麦畑の他、散水設備を持つ青葉の野菜を作る畑もあった。おそらくルッコラだと思うが、自信は無い。これまでの巡礼路沿いには見られなかった類の畑なので、その光景は随分と印象に残ったものだ。

 ナヘラを出てから一時間半程歩いた頃、私はアソフラ(Azofra)という村に到着した。教会を中心とする小さな村だが、1199年にサン・ミジャン修道院(昨日訪れたあの修道院だ)に与えられた教皇勅書にその名前があるなど、歴史の古い村である。

 教会前広場の石段に腰掛けて休んでいると、何匹かの猫がじゃれあいながら歩いていた。巡礼者の多い広場にいる猫なので人懐っこいのかと思いきや、私が近寄るとあっさり離散して逃げて行く。ちぇっ、良いじゃん、少しくらい撫でさせてくれたって。私は憮然とした面持ちで立ち上がり、休憩を終えてアソフラを後にした。


アソフラの出口には17世紀末の民家も残っていた


これまた古い十字架を横切って進む

 アソフラを出てからも、巡礼路は麦畑の中を行く。道脇には背の低いサクランボの木が植えられており、ツヤのある可愛らしい実を付けていた。巡礼者がちょいとつまんで行く事が多いようで、その半分くらいはもがれた後であったが。

 真っ直ぐに伸びる水路を横目に見ながら丘を下りて行くと、その下には建設途中の高速道路が横たわっていた。シャベルカーが機械的な唸り声を上げ、土砂を運ぶダンプカーのタイヤからはもうもうと土煙が立ち上っている。


建設中の高速道路に沿って歩く

 この「フランス人の道」が通るスペイン北部は、スペインの中でも特に田舎の地域である。その為に大きな都市が少なく、昔からの巡礼路景観が比較的良好な状態で保たれてきた。しかし近年は経済の発展の為、スペイン北部に高速道路が続々と建設されているようである。巡礼路の景観も、ここ10年くらいの間にガラッと変化したそうだ。

 1000年間ほぼ変わらなかった巡礼路の景観は、近代化の波によってここ100年間で緩やかに変化して行き、そしてここ10年の間に更なる変化を遂げつつある。その事についての良し悪しをここで言及するつもりはないが、この道を歩いているいち巡礼者としては、ダンプカーが巻き起こす土煙は非常にキツいものがあった。


道路を離れ、麦畑の景勝区間となる

 緩やかに傾斜する丘の一面に広がる麦畑。その色は畑によって様々で、なおかつ風が吹くと穂がなびいて更なる色の変化を見せてくれる。ため息が出る程に美しい光景だ。その景観の良さがあって、上り坂でさえ苦痛を感じない。

 ……が、その丘を登り詰めた所で巡礼路の雰囲気は一変した。丘の上には凹凸の無い平らな土地が広がっていたのだが、そこにあったのは麦畑の続きではなくゴルフ場、そして恐ろしくなる程に静まり返った振興住宅街であった。


金網が張られたゴルフ場の横を行く


その先にあったのは、生活感が皆無な新興住宅地である

 整然と建ち並ぶ建造物はいずれもモダンで立派だが、全くひとけが感じられなかった。どの家もガレージに車が無く、窓にはカーテンが掛けられておらず、そのほとんどが空き家のようである。外を歩く住民の姿も無く、町を行くのは巡礼者だけだ。私は思わず全身が粟だった。なんだここは、まるでゴーストタウンではないか。

 地図で確認すると、どうやらここはシルエニャ(Ciruena)という町のようである。先程のゴルフ場に伴って開発されたらしいが、近年の経済状況の悪化により全く買い手が付かず、このような有様になってしまったのだろう。麦畑の中にポツンと広がる無人の町、全く持って異様と表現する他にない。

 私はシルエニャから出る足の速度を速めた。そのまま町を抜けると、周囲には再び麦畑が広がった。しかも、緩やかに上下する丘陵に一条の白い道が走るという、これまで無いくらいに美しい巡礼路である。先程の不気味なゴーストタウンを抜けたという解放感もあり、まさに筆舌に尽くし難い程に素晴らしいものであった。ログローニョからこの先のブルゴスまでの間では、ここが最も美しい区間であったと思う。

 私の胸は不思議な感動で満たされ、しばらくの間その光景を前に立ち尽くしていた。すると後ろから追い付いてきた英語を話す欧米人カップルが私の隣に立ち、「まるでトイレットペーパーを転がしたような道だね」と言った。私はその言葉に思わず吹き出した。なるほど、言い得て妙である。


その“トイレットペーパーを転がしたような道”を行く


欧米人カップルは「幸せなら手を叩こう」を歌いながら歩いていた


どこまでも真っ直ぐな道の向こうに、町が見えた

 いくつかの丘を越えて行くと、丘の上からそこそこ規模の多きな町が見えた。本日の目的地、サント・ドミンゴ・デ・ラ・カルサーダ(Santo Domingo de la Calzada)である。そのままの勢いで一気に坂道を下り、町へと入る。

 サント・ドミンゴの旧市街入口にある公営アルベルゲに入ったのは、14時を回ったくらいの頃であった。料金は5ユーロ。今日もまたシャワーと洗濯を手早く済ませ、町へと繰り出す。スーパーでビールを買って飲み干し、気分が乗ってきた所で散策だ。


ここもまた、古いモノが当たり前のように残っている町だ


1702年に建てられたという民家の玄関内部

 この町もまた、当たり前のように歴史の古い町である。中世以前は小さい村であったというが、11世紀にサント・ドミンゴと呼ばれる聖人がサンティアゴ巡礼者の為に救護院などの施設をこの町に整えたという。サント・ドミンゴは橋や街道などの整備も行っており、町の名前にある「カルサーダ」とは石畳道という意味である。

 旧市街の路地を進んで行くと、カテドラル前の広場に出る。この広場の西側に建つ立派な建物は、サント・ドミンゴによって開かれ、16世紀に再建されたかつての救護院である。現在はパラドール(国営ホテル)になっている。本来は巡礼者の為に建てられた施設なのに、今では私のような貧乏巡礼者には泊まる事ができないホテルになっているとは若干の皮肉を感じるが、まぁ、世の中そんなものだ。

 そのパラドールの向かいにあたる広場の東側には、1767年から1769年にかけて建てられたバロック様式の鐘塔がそびえている。鐘塔は教会建築の一部として備わっている事が一般的であるが、ここは教会の建物から少し離れた所に独立して立っており、なかなか珍しい。カテドラルと合わせて3.5ユーロ(巡礼者料金)で入場できるようだったので、ちょっくら上まで登ってみる事にした。


サント・ドミンゴのカテドラルと鐘塔

 狭い階段を螺旋状に登っていくと、しばらくして塔頂部に出た。この塔の高さは70メートルとかなり高く(ラ・リオハ州で最も高い塔なのだという)、そのテラスからはサント・ドミンゴの周囲が360度見渡せた。なだらかな丘によって囲まれた平地の中心に、この町が広がっている事が良く分かる。


登って良かったと思える眺めである


突然鐘が鳴りだし、びっくりした

 しばらく景色を眺めていると、突如すぐ側で鐘が甲高く鳴り響き度肝を抜かされた。時間を知らせる為の鐘である。私は鐘から少し離れた位置に立っていたのでまだマシであったが、鐘のすぐそばにいたご夫婦は「オー」と悲鳴を上げ、耳を塞いでいた。町中に響く鐘なだけあって、その音量は凄まじいものであった。

 また塔を下りる階段の途中には、幾重にも歯車が重なった機械仕掛けのタイマーが設置されていた。決められた時間が経過するとロープに繋がれた重りが落ち、その力で鐘を叩くハンマーが動作する仕組みである。私は15分程待ってその挙動を確認してみたが、これが非常に良くできていて感心させられた。電子制御ではない、機械制御の美しさというか、いやはや、昔の技術は偉大である。


歯車と重りを利用した、鐘の時間を管理するタイマーだ

 さて、鐘塔の次はカテドラルの見学である。この町のカテドラルは聖人サント・ドミンゴが1109年に死去したのち、1158年より建設が始められたものだという。その後に度々手が加えられ拡張が図られた。広場に面した南側ファサードは18世紀のものだが、身廊は13世紀から14世紀にかけてのゴシック様式、内陣は12世紀のロマネスク様式だ。


カテドラルの内陣は創建当初より残る部分である


彫刻も状態良く残されている

 カテドラルの南側翼廊の地下には霊廟が設けられ、そこには聖人サント・ドミンゴの遺体が祀られている。その霊廟へと至る入口の向かいにあるのが鶏小屋(Gallinero)だ。なんとこのカテドラルでは、常につがいの鶏が飼われているのである。もちろん、卵を取るのが目的……というワケではなく、これはサント・ドミンゴの伝説に由来するものである。


この鶏はサント・ドミンゴのシンボル的存在なのだ

 かつてこの町に巡礼途中の親子が泊まっていたのだが、その際に息子が無実の罪を着せられ絞首刑となってしまう。両親は悲しみの中サンティアゴまで巡礼を続け、その帰りに再びこの町の絞首台に立ち寄ったのだが、なんと絞首台の上の息子は聖人サント・ドミンゴに体を支えられ生きているではないか。両親は役人に「息子はまだ生きているから絞首台から下ろしてくれ」と懇願したものの、役人は「そんな事はそのテーブルの上にあるローストチキンが生き返ったようなものだ。ありえない」と相手にしない。すると突然そのローストチキンが蘇り鳴き声を上げた。役人は慌てて絞首台の息子を下ろし、息子は助かる事ができたという。

 いやはや、何とも凄まじい伝説ではあるが、このカテドラルではそのサント・ドミンゴの奇跡を湛えるべく、今でも鶏を飼育しているのだそうだ。この二羽の鶏はサント・ドミンゴのシンボルとなり、鶏をあしらった様々な土産物が出口の売店に並んでいた。


ゴシック・ムデハル様式で建てられた17世紀の回廊

 カテドラル身廊の後部に備わる階段を上ると屋上に上がる事もでき、またそこからは複雑に入り組んだ門の上部に入る事もできた。路地を監視する為の窓もあり、このカテドラルはこの町の軍事拠点としての役割もあったんだろうと想像できる。また回廊にはこのカテドラルに伝わる宝物が陳列されており、ちょっとした博物館のようになっていた。

 サント・ドミンゴはカテドラル自体も見どころたっぷりで、なおかつカテドラル周辺の町並みの雰囲気も良く、全体的に散策のし甲斐がある町である。今朝は早目の出発だったので、到着も早目であったが、それが功を奏したっぷり町歩きを楽しむ事ができた。


カテドラルの北側に広がるスペイン広場


路地の風景もいちいち絵になって困る

 旧市街のメイン通りにワインショップがあったので、そこのご主人に「ヴィーノ・ド・アキ・プロファボール(ここのワインください)」と告げて地元産の手頃なワインを買う。これが見事に大当たりな味であった。どことなく花の香りがし、味はハチミツの風味が漂う。華やかでコクがあり、最高の晩酌となった。さすがはスペイン最大のワイン産地、リオハのワイン専門店が選んだものなだけある。


いつもと同じメニューだが、ワインがおいしいだけで最高の夕食となる

 ゴキゲンに晩酌を続けていると、同じテーブルに座っていた男性に話しかけられたので軽く自己紹介する。リトアニアから来たというこの男性は、ウラジミールさんというそうだ。へぇ、リトアニアかぁ。私にはあまりなじみのない国だけに、色々聞いてみたい所である。

 ウラジミールさんもまた日本に対して興味があるらしく、日本のユースホステルの相場を聞かれたりした。私が「3000円ぐらいかな」と答えると(ウラジミールさんはなぜか為替情報にも詳しく、ユーロやドルではなく円で値段を聞かれた)、ウラジミールさんは「それは高いねぇ!」と目を見開いて驚いていた。やはり日本に来たいと思う外国人旅行者の最大の悩みは、物価の高さのようである。