巡礼53日目:カリオン〜テラディージョス・デ・ロス・テンプラリオス(25.8km)






 サン・クララ修道院のアルベルゲは古い建物を利用している為か窓が少なく、ベッドルームは電気を消すと真っ暗だ。目を覚ました私は、手探りで壁を伝いながら中庭へと出た。そのままキッチンへ向かい、食事に取りかかる。手持ちのパンが切れていたので、ビスケットと牛乳だけの簡素な朝食であった。

 7時半にアルベルゲを出てカリオンの坂道を上る。その途中のサンタ・マリア・デル・カミーノ教会では、シスターさんが祭壇に向かって祈りを捧げている最中であった。朝の礼拝だろうか、朝の町に漂う清閑な雰囲気と相まって、神秘的な光景である。


祭壇に祈りを捧げるシスターさん

 手持ちの地図によると、今日はカリオンを出てから次の村のカルサディージャ・デ・ラ・クエッサ(Calzadilla de la Cueza)まで約17km、途中に何もない区間を歩くようである。水はアルベルゲで汲んでおいたから良いとして、問題は食料だ。せめてパンくらいは買っておかなければ。ちょうど良く教会前の広場にパン屋があったので、そこでバケットを二本購入した。朝早い時間という事もあり、買ったパンにはほんのりと温かさが残っていた。


サンタ・マリア教会の広場にあったパン屋さん

 目抜き通りは昨日散々歩いていたので、今日はあえて裏の通りを歩いてみる事にした。表通りの町並みも良かったが、裏通りも雰囲気も素敵なもので、気分の良いスタートが切れた気がした。

 丘の上に建つ1574年建立の聖アンドリュー教会や、16世紀から17世紀にかけて建てられたベツレヘム聖母教会などを眺めてから坂道を下りて橋を渡る。昨日見学したサン・ソリオ修道院を横切り、私はカリオンの町を出た。


朝日に照らされる聖アンドリュー教会


カリオン川に架かるこの橋もまた、16世紀の再建と古いもののようだ

 ちょっとした新興の住宅地を抜けると、周囲はすっかり畑となった。巡礼路は舗装された車道であるものの、そこを走る車はほとんど無く、農業用と思わしき用途の分からない特殊車両が一台通ったのみだった。


のどかな畑の道である

 一方、巡礼者の数は多く、多種多様なグループや個人が歩いている。中でも印象に残ったのは、中学生くらいの男の子とその母親の二人連れであった。たまたま歩く速度が私と同じくらいだったので、しばらくその後ろを歩いていたのだが、どうやらこの男の子は障害を持っているようである。母親に向けて喋る言葉には独特の癖があり、またしきりに顔をキョロキョロさせる仕草を見せていた。軽度の自閉症だろうか。

 ラベのバルで再会した獣医のおじいさんが息子さんの平癒を願って歩いていたように、神の奇跡を信じてサンティアゴを目指す巡礼者は少なからずいる。この親子もまたそうなのだろう。私は巡礼の意味について考えながら、彼らと共に巡礼路を進んで行った。


巡礼路沿いにポツンと建つ修道院らしき建物

 途中、道の右手に一軒の大きな家が建っていた。敷地にはトラクターがあり、一見すると農家のようであるが、地図を見るとその位置には「Abadia(修道院) de Benevivere」と記されている。建物を良く見ると確かに鐘楼が付随しているし、やはりただの農家ではないようだ。修道院にもいろいろな形態があるらしい。

 その農家風修道院を通り過ぎ、少し歩くと未舗装路に入った。麦畑が広がる中、真っ白な巡礼路が水平線の向こうまで一直線に伸びている。見上げる空は恐ろしいほどに青く濃く、まるで宇宙が落っこちてきそうな非現実的な雰囲気があった。


メセタの雄大さを思う存分に堪能できる区間である

 歩いても歩いても景色はほとんど変わる事が無く、等間隔に植えられた木々が手前にスクロールしてくるだけである。右足と左足を繰り返し進めているうちに、そのまま空へと舞い上がって行くような奇妙な浮遊感を覚えた。白い道と青い空、極めて高いコントラストの風景を見続け、ある種のトランス状態に陥っていたのだろう。

 日差しは強いものの風があるのでさほど暑さは感じず、むしろ心地良い快適な気候である。とは言えずっと歩きっぱなしというワケにもいかない。出発から二時間、足は疲れで重くなり、喉もすっかり乾いていた。そろそろ休憩したい所である。

 ところが、この道には休憩できるような場所が極めて少ない。途中に一ヶ所、ちょっとしたバルがあったものの、そこのベンチは既に先客で満席だった。しょうがないのでさらに歩き続け、30分程進んだ所にようやく休憩所があったので滑り込む。そこでも何人かの巡礼者が休憩していたが、幸いにもベンチに空席があった。


まさに巡礼路の中のオアシスである

 ザックを下ろして休んでいると、ふと若い韓国人男性に声を掛けられた。始めて見る顔である。英語も達者なようで、元から知り合いだったのか、それとも巡礼路で知り合ったのか、西洋人女性と二人で歩いているようだ。


救急車が砂埃を立てながら通り過ぎて行った

 休憩所から先の道も相変わらず真っ直であった。私を次々と追い越して行く自転車の巡礼者たちも、かなりのスピードを出しているようだ。そのような中、救急車が走って来るのを見た時には少しドキリとした。まさか自転車の人が事故ったり……してないよな。まぁ、サイレンを鳴らしてはいなかったので、急患が出たというワケではないようだ。

 おそらく、倒れたり怪我した巡礼者がいないかどうか、巡礼路を見回りをしているのだと思う。この道は太陽光を遮るものが無く、暑い日などは地獄のような区間だと思う。熱射病で倒れる人も出たりするのだろう。


11時半、カルサディージャ・デ・ラ・クエッサに着いた

 カリオンを出てから約4時間、ようやく広大な麦畑の道を抜けてカルサディージャ・デ・ラ・クエッサに到着した。昼食用にビールが欲しかったので雑貨屋を期待したものの、残念ながらこの村にはアルベルゲとバルが一軒ずつあるだけだった。

 なお、バルではドレッドさんがビールを飲んでいた。私もまたバルでビールを飲んでしまおうかとも思ったが、財布の中身がだいぶ少なくなっていた事を思い出しやめておいた。そろそろ金を下ろさなくてはマズイ頃合いであるが、この辺りにATMが置いてある町は存在するのだろうか。メセタの終点であるレオンなら間違いなくあるだろうが、レオンまではまだだいぶ距離がある。それまで持ってくれるだろうか。心配だ。


倉庫らしき円形の建物を横目にカルサディージャの村を出る

 村外れにあったピクニック・テーブルで手早く昼食を取り、再び巡礼路を歩き出す。カルサディージャからは道路沿いの道となり、ちょっとした谷に沿って北西へと進んで行く。その途上では先程の救急車が通り過ぎ、その際に運転手さんが私に向かって手を振り挨拶してくれた。私もまた手を振って返事をする。


木陰が多いので歩きやすい道ではある


面白い形の車両が草刈りをしていた

 さらに進んで行くと、日本では見ないタイプの草刈り車が路肩を整備していた。トラクターにアームを取り付けたような、不思議な形の車両である。面白いなぁと思いながらその横を通り過ぎ、坂道を上って行く。


丘を越え下りて行くと、レディゴス(Ledigos)が見えてきた

 私がレディゴスの村へと入って行くと、突然、教会の鐘がガランガランと鳴り始め、続けてボンボンと花火が打ち上げられた。その鐘はいつまで経っても止む気配がなく、ただの時報とかそういうものではないようだ。今日は平日なのでミサの合図でもないだろう。私は何事かと思い、教会へと足を運んでみる事にした。


打ち上げられている花火はロケット花火の親玉みたいなヤツだった


しばらくすると旗を掲げた行列がやってきた

 どうやら村の慶弔事のようだ。ただ、どんな内容なのかは全く分からなかった。新郎新婦らしき人物はいなかったので結婚式ではないだろう。棺も無かったので葬式でもないと思う。晴れ晴れした顔の人物はカメラを構えた私にピースを返してくれた青年だけだったので、祝い事ではないのかもしれない。

 行列の最後尾が教会内へ吸い込まれた所で鐘は止んだ。教会内で催事が始まったようである。私は行事の内容が物凄く気になったが、さすがに部外者が儀式中の教会に入る事は慎むべきだと思ったので、後ろ髪を引かれながらもレディゴスを後にした。


引き続き車道沿いの巡礼路である

 車道沿いの道はあまり面白く無い事が多いが、ここでは左手に飴のような光沢を放つ麦畑が広がっており、私の目を楽しませてくれた。青い小さな花も美しく、黄色や緑が色彩のベースである巡礼路の中で目を引く存在だった。

 レディゴスから北に向かっていた巡礼路は大きく西へとカーブし、一時間足らずで次の村テラディージョス・デ・ロス・テンプラリオス(Terradillos de los Templarios)に到着した。村の入口には大きなアルベルゲがあり、庭のテーブルでくつろぐ巡礼者が見えた。時間は14時とそろそろ宿に入っても良い時間ではあるが、どうもここに泊まる気にはなれず、私は村の中へと歩みを進めた。


この村は、かつてはテンプル騎士団の村であった

 第一次十字軍が奪還したイェルサレムを守る為に結成されたテンプル騎士団は、サンティアゴ巡礼路においても巡礼者の護衛と救護を担っていた。このテラディージョスは、テンプル騎士団の支配下にあった村だという。村の名前に「テンプラリオス(テンプル騎士団)」とあるのはその為だ。

 村の中心部には、テンプル騎士団の第23代騎士団総長であり、最後の総長となった「ジャック・ド・モレー(スペイン語ではハケス・デ・モライ)」の名を冠したアルベルゲが建っていた。様々な特権を有し、多大なる財を蓄えていたというテンプル騎士団は、フランス王のフィリップ4世に目を付けられてしまう。テンプル騎士団は異端の濡れ衣を着せられ、1312年に崩壊。当時の最高指導者であったジャック・ド・モレーは、火刑により処刑されてしまった。

 巡礼者の保護に貢献しながらも儚い運命をたどったテンプル騎士団に感化された……というワケではないが、なんとなくこの宿に泊まってみたいと思った。宿泊費は8ユーロと少々割高であったが、ベッドルームもシャワールームも清潔で、おまけにWi-Fiまで飛んでいるという贅沢仕様である。ただ、残念がらキッチンを使う事はできなかった。


アルベルゲにはテンプル騎士団の旗が翻っていた

 庭で猫と戯れながらビールを飲んでいると、今朝方見かけた親子の巡礼者がこのアルベルゲに入ってきた。彼らもまた今日はこの村までとするらしい。挨拶をすると、私を覚えていたらしく男の子が小さく手を振ってくれた。

 一本目のビールを早々に空となり、続いて二本目をあおっていると、欧米人のカップルが話しかけてきた。二人はイギリスから来たそうで、彼女の方はスージーさんというらしい。なぜ日本人がサンティアゴ巡礼をやっているのか興味を持ったらしく、根掘り葉掘り色々聞かれた。イギリス人の英語は流暢すぎて聞き取るのが難しく、私はしどろもどろである。

 夕方に近付くにつれ風が強まり、その威力はテーブルのパラソルを倒す程であった。洗濯物の様子を見に行くと当然の如く吹き飛んでおり、私はそれらを集めて再び干す。ふと顔を上げると、村の路地を歩くドレッドさんの姿があった。どうやらこの村には泊まらず、先へと進むようである。もう結構遅い時間であるが、大丈夫なのだろうか。


夕食は宿の食事を食べる事になった

 日が傾き、少し肌寒くなってきたので食堂へと入る。三本目のビールをチビチビやりながらiPhoneでネットをチェックしていると、宿泊客がぞろぞろと食堂に集まり、あっという間に席が全部埋まった。いつの間にかディナーの時間になっていたようだ。夕食は手持ちの食料でなんとかしようと思っていたのだが、この食堂は隣の椅子が密着する程に狭く、出るに出られない。なし崩しに宿の食事を食べる事になってしまった。

 最初に出てきたのはソパ・デ・アホ(ガーリック・スープ)であった。ニンニクが効いており、精がつきそうだ。メインディッシュは数種類から選ぶ事ができたので、私は魚を頼んでみた。しかし他のみんなは肉を頼んでおり、実際に料理が出てくると、やはり魚よりも肉の方が魅力的に見えた。

 デザートのオレンジを食べ一息ついていると、会計の時間となった。宿泊費以上の金額が私の財布から飛んで行き、残金を確認すると手持ちの金はわずか15ユーロまで減っていた。次の都会であるレオンに到着するのは三日後の予定である。……となると、一日5ユーロしか使えないという事か。あ、これは本格的にマズい感じになってきた。