私の左足首は昨日以上にむくれ、針を刺したらプシューとしぼむんじゃないかというくらいパンパンに張りつめていた。私は昨日が腫れのピークだとばかり思っていたが、どうやらそれは甘い考えだったらしい。足が一回り大きくなっている為、靴を履くのが難儀である。イブプロフェンのお陰で痛みはまだマシになっているが、杖が無いと歩く事ができないという点は相変わらずだ。 とまぁ、今日はそのような状態で「フランス人の道」最後の難所であるセブレイロ峠に挑まなくてはならない。どうやらセブレイロ峠にはアルベルゲのある集落が存在するようなので、今日はそのセブレイロ峠まで歩けば良いだろう。ベガの標高は630m、セブレイロ峠の標高は標高1330mなので、高低差700mの登り坂オンリーである。 険しそうな山道ではあるが、距離は12kmとそれ程長く無い。普段ならば4時間もあればセブレイロ峠に着く事ができるだろう。8時に出発したとしても到着は正午、宿に入るには少し早い時間である。現に私の隣のベッドにいた日本人ご夫婦は、今日はセブレイロ峠の先にある村まで歩くと言っていた。だがしかし、私の足の状態ではペースの大幅ダウンは必至である。セブレイロ峠まで行く事ができれば十分というものだ。 ベガからは、昨日に引き続きアスファルトの車道を行く。車道とはいえ旧道かつ早朝なので、行き交う車は皆無である。ルイテラン(Ruitelan)という集落を越え、さらに少し進んだラス・エレリーアス(Las Herrerias)で谷下に下り、やや細い路地を進んで行く。 やはり足が痛むので、私は集落に到着する度に休憩を取っていた。普段より汗をかく為に喉がすぐに渇き、ペットボトルの水がどんどん減って行く。幸いにもラス・エレリーアスの公園には水道が設置されていたので、そこで水を補充しておいた。まだ山道に入っていないのにこの有様とは、いささか先が心配である。 ラス・エレリーアスを出ると、巡礼路はいよいよ本格的な山道に入る。集落を抜けてからも、しばらくはアスファルト敷きの車道が続いたが、程無くして山道へ入る登山口が道の左手に現れた。 先程の自転車軍団は、そのまま真っ直ぐアスファルトの道を進んで行ったのだろう。足の具合を考え、私もまたアスファルトを行くべきかと迷ったが、そちらは道の傾斜が緩い代わりに距離が長くなる。私はできるだけ早くセブレイロ峠に着く事を優先すべきと考え、腹をくくって登山道へと足を踏み入れた。 登山道は想像通りの険しさであったが、苔むした石垣や石畳などなかなかに雰囲気が良く、アスファルトを歩くよりも精神的にずっと良かった。杖が大いに役に立ち、坂を登るのも意外と苦ではない。やはりこちらの道を選んで正解だったようである。 その路上では、巨大な黒いナメクジが石畳をうにょうにょ這っていてギョッとしたりもしたが、そのような発見がアクセントとなり、総じて楽しい登山道であった。道の周囲には木々が生い茂り、緑豊かなのも久しぶりで新鮮だ。 九十九折の山道をひたすら登って行くと、ふと周囲の木々が途切れ、石壁が連なる集落が姿を現した。セブレイロ峠の中腹に位置するラ・ファバ(La Faba)である。小さな集落ではあるが、登りが続く中で一息入れるにちょうど良い。 泉の前の椅子に腰を掛け、寄ってきた猫と戯れながら足を休ませる。この集落は牧畜で生計を立てているらしく、集落内には独特の臭いがただよっていた。路地の所々には牛の糞が落ち、一人のおばさんがそれをホウキで拾い集めていた。 ラ・ファバから少し山道を登って森林を抜けると、非常に眺めの良い牧草地帯に出た。どうやら無事ヤマ場は越えたようで、そこからは尾根沿いの比較的なだらかな道である。天気も良く、足は痛むものの実に晴れ晴れとした気分であった。 道の凹凸に杖を取られながらも何とかテンションを維持しつつ進んで行くと、ラ・ラグナ(La Laguna)という集落に着いた。集落の入口には、飲み物の自販機が設置されている。手持ちの水はまだ結構残っていたが、この先の事を考えてできるだけ節約しておいた方が良いだろう。私は自販機で飲み物を買い、ベンチに座って休憩した。 ここまで来ると道の傾斜はさらに緩まり、登山道という雰囲気はすっかり失せていた。道沿いには黄色い花が咲き乱れ、のどかな牧草地の風情である。 中世の頃には山賊や狼によって悩まされ、「フランス人の道」最後の難所と呼ばれていたセブレイロ峠も今や昔の話。安全が確保された現在ではすっかり気持ちの良い道となっていた。前半の森林の道、後半の牧草の道と、巡礼路における山道の良さを凝縮したような区間と言えるだろう。足首の痛みをおしながらも何とかここまで登ってこれたのは、道の良さに助けられ、気力を保つ事ができたからに他ならない。 それはカスティーリャ・レオン州とガリシア州の州境を示す石碑であった。長らく続いていたカスティーリャ・レオン州もここで終わり。ついにスペイン北西端、この巡礼の目的地であるサンティアゴ・デ・コンポステーラのあるガリシア州に突入だ。 その石碑には、おびただしい数の落書きが書かれていた。長い距離を歩き続けてきた巡礼者たちが、ガリシア州に辿り着いた記念に書いたものだろう。あまりお行儀の良い事ではないが、まぁ、その気持ちは分からなくもない。 少しの間平らな道が続いたと思いきや、巡礼路は程無くして車道と合流し、オ・セブレイロの集落に到着した。車道の奥に町並みが見えたその時、私は思わず「おぉ」と声を上げてしまった。セブレイロ峠まで来る事ができたという安心感、達成感があったのはもちろんだが、それに加えてオ・セブレイロの町並みが思った以上に美しかったのだ。 オ・セブレイロの家々は、いずれも石造りで屋根はスレート葺きと、昔ながらの伝統的な様式を保っている。中にはパジョーサ(Palloza)と呼ばれる藁葺屋根の円形家屋もいくつか見る事ができた。パジョーサは古代ローマ時代以前、ケルト人の時代から用いられてきた伝統家屋で、人と家畜が同じ屋根の下で暮らす事ができる内部空間を有している。冬の寒さが厳しく、降雪の多いこの地方ならではの居住形態だ。現在は倉庫や物置として使われているものが多いという。 集落内の路地には石畳が敷かれ、その町並みの整い具合はカストリージョを思い出させる。おそらくはカストリージョと同様、修景などの整備が行われていると思うのだが、それでもやはり雰囲気が良く、サンティアゴ巡礼路の要所としての貫録が感じられた。 さて、私がオ・セブレイロに到着したのは正午過ぎの事だ。思っていたより早く着く事ができたものの、足首の事を考えてこれ以上進むのは止めた方が良いだろう。公営アルベルゲは集落の出口に位置しており、最近建てられたものらしくなかなか小奇麗である。入口の張り紙によるとオープン時間は13時との事であるが、その入口には順番待ちの行列が既にできていた。私もまたその最後尾に並ぶ。 アルベルゲの受付が始まったのは、オープン時間より少し遅れた13時15分頃であった。一人ずつ順番に受付が行われる為、待っても待ってもなかなか順番が回ってこない。ただボーっとしているのもなんなので、私は先に足首の状態を確認しておく事にした。ベンチに腰掛けて靴下を脱ぐと、足首は今朝と同様か、それ以上に腫れていた。 「うーん、こりゃいかんなぁ」と思いつつ顔を上げると、そこには驚愕の表情を浮かべたスペイン人の青年がいた。どうやら足首の怪我を見られてしまったようである。青年は「おい、それどうしたんだ? 大丈夫か?」という感じで詰め寄ってきた。私は「大丈夫、大丈夫」と笑うものの、青年の顔は真剣そのものである。すると青年は、「ちょっと待ってて」と私にジェスチャーで伝えると、並ぶ行列を無視して建物の中へと入って行った。 私は呆気にとられながら玄関の様子をうかがっていると、しばらくして青年が顔を出し、私に向かって手招きをした。私は頭に疑問符を浮かべたまま青年の後を追う。青年は受付の窓口前におり、私に対して巡礼手帳を出せと催促した。私は言われるがまま巡礼手帳を青年に手渡すと、青年はそれを窓口のオスピタレラに差し出す。ここでようやく理解した。この青年は、私の順番を飛ばして先に受付けしてもらえるよう、オスピタレラに掛け合ってくれたのである。 受付を済ませた後も、スペイン人の青年は私のザックをベッドまで運んでくれたり、「救急車を呼ぼうか?」と提案してくれたり、とにかく色々気にかけてくれた。ここまで本気になって心配してくれるとは。私は大いに感激した。 正直言うと、これまで私が抱いていたスペイン人に対する印象は決して良いものばかりではなかった。情熱的ではあるもののその分うるさく、ややガサツで無神経な部分を感じる事もあった。だがしかし、困っている時には親身になって助けてくれるものなのだ。私のスペイン人観がひっくり返った瞬間である。 シャワーを浴びて洗濯を済ませた私は、やや眠気を催したので少し仮眠を取る事にした。今日は上り坂オンリーであったとはいえ、12km程しか歩いていないのにも関わらず相当疲れているようだ。やはり普段とは体力の消耗具合が全然違う。 17時に目を覚ました私は、杖を持ってアルベルゲの外に出た。夕食の買い物ついでに集落を散策をしようという寸法である。この足の状態で動き回るのはあまり良くない事だとは思うが、まぁ、小さな集落なので、さほどの負担にはならないだろう。 オ・セブレイロの中心であるサンタ・マリア教会は、9世紀から10世紀に建てられた非常に古いもので、私が歩いているこの「フランス人の道」において現存最古の教会建築である。元は修道院であったようだが、かつての修道院の建物は現在「オスペデリーア・デ・サン・ヒラルド・デ・オーリャック」という宿になっている。 19時からミサが行われるとの事だったので、私も参加する事にした。ミサが始まり現れた神父さんは全部で3人。教会内には液晶のテレビが据えられ、そこに祈りの言葉が多言語表示で映し出されていた。村の規模の割には神父さんの数が多く、また設備も豪華である。ここまでしっかりしたミサが行われるのは、セブレイロ峠という巡礼路の要所である為か、あるいはイリアス・バリーニャ神父の偉業によるものか。 かつてこの教会で司祭を務めていたイリアス・バリーニャ神父は、サンティアゴ巡礼路を復興した人物として知られている。中世に始まったサンティアゴ巡礼は、その後も絶え間なく人々が歩き続けていたというワケではない。近世にペストが流行したり、戦乱が続いた事で、長らく衰退の時期にあったのだ。復活したのは20世紀の半ば、イリアス・バリーニャ神父が草に埋もれていた巡礼路を再び切り拓き、その目印として黄色い矢印を描いて周った事による。いわば、イリアス・バリーニャ神父は現代におけるサンティアゴ巡礼の礎を築いた人物なのである。 夕食はいつも通りのスパゲティであったが、オ・セブレイロのアルベルゲには調理道具や食器が十分に揃っておらず、少々困ってしまった。特に皿の枚数が足らず、結局私はフライパンを皿替わりにして食べる事となった。グラスやコップなども種類がまちまちで、巡礼者がアルベルゲに置いていったものか、あるいは寄付によって集められたものなのだろう。 そういえば、「フランス人の道」序盤で泊まったスビリのアルベルゲでも、フォークが無いという事があった。それ以外のアルベルゲでは食器に不自由した記憶は無いが、まぁ、これからは念の為、夕食の材料を揃える前に調理器具と食器の数をチェックしておいた方が良さそうである。 Tweet |