私は重くなった頭を何とか持ち上げ、ベッドから這いずり出た。瞼は熱く、胃もむかむかする。どうやら軽い二日酔いらしい。夕食のワイン一本に加え、オスピラレロの振る舞い酒をカパカパやって、明らかに飲み過ぎである。つい数日前に泥酔が原因で足を怪我したばかりだというのに、全く懲りてないのだなと我ながら呆れてしまう。 私は顔を洗い、コーヒーを飲んで頭をすっきりさせた後、7時半にアルベルゲを出発した。サリアはサンティアゴまで残り100km強の地点に位置するとの事であったが、町の出口にあったモホン(道標)を見ると、正確には残り111kmのようだ。 なんでも、巡礼路を100km以上歩いてサンティアゴに到達した巡礼者は、サンティアゴの巡礼事務所で「巡礼証明書」なるものを発行して貰えるらしい(自転車巡礼の場合は200km以上との事である)。サリアから歩けばその条件を満たす為、この町から巡礼を始める人も多いという(私が「ル・ピュイの道」でお世話になったKさんも、最初の巡礼はこのサリアからだったそうだ)。サリアにはアルベルゲの数が多く、巡礼手帳の入手も容易であったが、それはこの町がサンティアゴ巡礼の拠点である為だ。 事実、サリアからは巡礼者の数が格段に増えた。特に若い男女のグループが多くなったように思う。彼らの着ている服やザックはピカピカで、汚れに汚れた私とはあらゆる意味で対照的だ。どうやらサリアからの100km巡礼は、学生の旅行やレクリエーションとして浸透しているようである。 一昨日見学したマグダレナ修道院の墓地を横切り、古い石造りのローマ橋を渡ると、巡礼路は早くも未舗装路となる。杖を突きつつ線路横の道を歩いていると、ふと背後から賑やかなざわめき越えが聞こえてきた。何だろうと思って振り向くと、そこには高校生ぐらいの若い巡礼者グループが。もう少しで私に追いつきそうである。 足の怪我で歩行速度が落ちている私は、とりあえず先へ行って貰おうと道の脇に体を避けた。学生たちはわいわいと私の横を通り過ぎて行くのだが――えぇ、何人いるの、この子たち。待てど待てどその行列は途切れる事が無く、まるで大名行列のようである。 いくらサリアから人が増えるとはいえ、さすがにこの人数は想定外である。まだ歩き始めたばかりなので休憩の必要も無く、無駄に時間を費やしてしまった感が強い。完全にペースを乱されてしまった。再びこの軍団と遭遇するのはちょっと遠慮したい所なので、できるだけかち合わないようペースを考えつつ歩く必要があるだろう。 巡礼路は線路の踏切を渡り、続いて上りの山道となった。緑の濃い巨木がそこここに生え、路肩の石積みには苔が厚く堆積している。まさに多雨なガリシア地方らしい巡礼路の光景だ。山道を登り詰めると広々としたトウモロコシ畑に出たのだが、その周囲は霧によって一面真っ白であった。朝霧が出やすいのもまたガリシア地方の特徴らしい。 まるで夢の中であるかのように白みがかった農道を歩いて行くと、視界の先に家屋の輪郭がぼんやりと浮かび上がってきた。地図で確認すると、どうやらバルバデロ(Barbadelo)という集落のようである。この村で本日最初の休憩を取る人が多いようだが、私はこの村に到着する少し前に一休みしていたので、スルーしてそのまま進む。 バルバデロの出口に建つサンティアゴ教会は、12世紀に建てられた古いロマネスク様式の建築である。入口を覗いてみると扉は開かれており、その中では一人のおじいさんが椅子に座って番をしていた。内部拝観は寄付制だったので財布にあったコインをザルに入れ、昨日入手した4冊目の巡礼手帳にスタンプを押して貰う。 タンパンや柱頭の彫刻は磨耗が激しくデザインも素朴であるが、それが逆に温かみを生み出しこの教会特有の味となっている。決して洗練された感じではないが、村人によって代々大事にされてきた教会という印象だ。この感じ、嫌いじゃない。 途中には1993年のヤコブの年にガリシア州が作ったというマスコット「シャコベオ(ガリシア語でヤコブの意)」が描かれた泉があった。しかし落書きやら汚れやらで黒ずんでおり、なかなか無残な感じである。泉も葉っぱとかゴミが浮いていて濁っており、ちょっとアレだ。もう少し、管理してやっても良いんじゃないかと思う。 バルバデロからの巡礼路は、畑と森が交互に続く比較的平坦な道である。経由する集落の数こそ多いものの、ほとんどがバルがあるかないかの小集落だ。その途中の村では、例の高校生軍団が休憩を取っていた。彼らが休むその横には大き目のバンが停まっており、学校に委託された業者なのだろうか、生徒たちに飲み物と軽食を配っていた。 私はそんな彼らを横目に先を進んでいたのだが、しばらくして休憩を終えた高校生たちが後ろから追い付いてきた。先頭を行く男子たちは皆体格が良く、しかも叫ぶような大声でスペイン語の歌を合唱しつつズンズン迫って来るのである。オスマン帝国は歌いながらウィーンへ侵攻したというが、この時の私はまさにウィーン市民の恐怖を体感していた。……というのは大げさだが、追い付かれたら軍団に飲み込まれてしまうという事もあり、少々焦りながら歩いたというのは事実である。 ガリシア州の石碑もそうだったが、こちらの100kmモホンもまた記念の落書きで埋め尽くされていた。その下にはメッセージを記した小石が積まれ、ちょっとしたモニュメントのようになっている。記念撮影をする人も多く、私もまたグループの巡礼者にシャッターを押してくれと頼まれた。さぁ、いよいよ正念場。ここからカウントダウン二桁の始まりである。 結局、高校生軍団には追い付かれたのだが、彼らの中でもまた人によって歩くペースに差があるもので、いつのまにか行列は崩壊し、複数の小グループに分散していた。これならば、通過待ちを気にするような事も無い。私は歩くペースを元に戻し、清々しい気分で巡礼路を進んで行った。 ちょくちょく休憩を挟んで足をケアしつつ、大勢の巡礼者と共に抜きつぬ抜かれつ先を目指す。この辺りは丘の上を行くので周囲の眺めが良く、景観の種類もバラエティに富む。未舗装路もしっかり踏み固められいて歩きやすく、しかも集落が多いので休憩する場所にも困らない。サンティアゴ巡礼の入門としてオススメできる道である。長い距離を歩く自信が無い人は、サリアから巡礼を始めるのも一つの賢い選択だろう。 石垣が続く山道を下って行くと、突然視界が開けて小さな集落に出た。納屋を改装したような小さな休憩所が設えてあり、私はそこで昼食を取る事にした。最初は私一人であったが、しばらくして家族の巡礼者がやってきたので、全員が座る事ができるよう荷物をどけてスペースを作る。 バゲットにチーズを塗りながら食べていると、例の高校生たちのうち比較的大きなグループが下りてきた。相変わらず賑やかな子たちであるが、彼らが去った後は静かなものだ。私はデザートのバナナを平らげ、家族巡礼者に挨拶してから休憩所を出た。 森を抜け集落を抜け坂道を下りて行くと、眼下にポルトマリン(Portomarin)の町が見えた。時計を見ると14時半。もうだいぶ良い時間になっているので、今日はこの町に泊まる事にしよう。目標が決まれば早いものだ。やや急な坂道ではあったものの、あっという間に下り終え、私はポルトマリンに到着した。 今でこそ丘の上の高台に位置しているものの、本来のポルトマリンはミーニョ川のたもとに存在していたという。1960年代に下流でベレサール・ダムが建設される事となり、その際に現在の位置に移転した経緯を持つ町である。 ポルトマリンという町名が暗示する通り、元はローマ時代にミーニョ川の港として開かれたという。中世にはサンティアゴ巡礼の経由地として栄え、12世紀から13世紀に掛けて建てられたロマネスク様式のサン・ニコラス教会や、1120年に架けられた石橋が存在する。ダム建設の際にサン・ニコラス教会は移築されたものの、石橋はダム湖の下へと沈み、現在はダム湖の水位が低い時にのみ目にする事ができるようだ。 ポルトマリンの町に入って驚いたのは、メインロードの一面に植物が撒かれていた事である。イネ科の植物のようであるが、私は植物にあまり詳しくないので詳細は分からない。この辺りでイネ科と言えば、トウモロコシだろうか。その植物の絨毯は教会の前まで続いているようである。また通りに建つ建物の柱にも木の枝が撒きつけられており、何やらただならぬ様子である。今日は日曜日であるが、しかし日曜だからといって道に植物は撒かないだろう。今日はこの町にとって、何か特別な日だったりするのだろうか。 私はワケが分からないまま、とりあえずは公営アルベルゲを探す事にした。……が、その場所が分からない。道行く青年にアルベルゲの場所を尋ねてみると、青年は教会の裏へと続く道を指差した。私はお礼を述べ、教えて貰った方向へと進んで行くと、すぐにアルベルゲは見つかった。最近建てられたものなのか、新しくモダンな外観である。 宿泊費の5ユーロを払ってベッドに案内してもらう。一応、足の怪我について言ってみたものの、私に与えられたベッドは上段だった。まぁ、しょうがない。私は痛みを我慢してハシゴを上る。荷物を整理した後、手早くシャワーと水仕事を済まし、いつものごとく町の散策へと出た。 ポルトマリンの広場にドドンとそびえるサン・ニコラス教会は、シンプルな四角い形状が非常に印象的だ。上部には二基の塔が立ち、まるで要塞のようなたたずまいである。前述の通りロマネスク様式の教会であるが、正面ファサードの薔薇窓や城塞化された部分は後世の改築によるものではないかという事である。シンプルな教会ながらも各入口の彫刻はなかなかに豊かで、それらを眺めているだけでも楽しむ事ができる。 教会内部にいた係りのお姉さんにスタンプを貰い、それから私はスーパーに入って瓶ビールとスナック菓子を購入した。日向のベンチに座り、町を眺めながら一杯やる。やる事が無いのでそのままぼーっとしていたのだが、しばらくしてふと広場が賑やかになってきた事に気が付いた。町の人々が集結しており、何やら始まる予感がする。 おぉ、道に敷かれた植物からも何となく想像してはいたが、やはり今日は何かのお祭り日だったのか。ガリシアの民族衣装なのだろうか、可愛らしい意匠の服を来た人々が行列を作り広場へと入って来る。先頭にはバグパイプや太鼓を持った人が立ち、伝統音楽を演奏しながら教会へと歩みを進めた。 さっきまでは静けさに満ちていた広場は一気に活気付き、住民のみならず巡礼者たちも足を止めその様子を見守る。行列は教会の前で立ち止まり、それからダンスが始まった。バグパイプの音をバックに幼い子どもが踊り、続いて若い男女が踊り、さらには大人の男女が踊る。再び子どもが踊り――と幾度と無く繰り返していた。 特に女性が勢い良く回転する際にはスカートがふわりと開き、優雅ながらも情熱的な踊りであった。2時間ぐらい経った頃だろうか、一通りの催しが終わったようで、登場してきた時と同じようにバグパイプと太鼓を先頭にして去って行った。 私は満足してアルベルゲへと戻り、夕食にした。ポルトマリンの公営アルベルゲは鍋が無く、スパゲティが茹でられない。まぁ、コンロはあるし缶詰を火にかけて温めれば良いやと思ったものの、ここのキッチンはガスコンロではなくIHヒーターであり、缶詰では動作してくれなかった。ぐぬぬぬぬ、鍋が用意されていないIHキッチンとは、なんて無駄な設備なんだ。モダンすぎるアルベルゲも少々考えものである。 Tweet |