輪島市黒島地区

―輪島市黒島地区―
わじましくろしまちく

石川県輪島市
重要伝統的建造物群保存地区 2009年選定 約20.5ヘクタール


 能登半島北西部、潮風の吹きつける浜辺に沿って、黒い屋根瓦に板壁といった統一感ある意匠の家々が連なっている。かつては曹洞宗の大本山であった總持寺にも程近く、その海の玄関口と言うべき場所に位置する集落が黒島地区である。今でこそ、ひっそりとした海辺の集落といった風情ではあるものの、江戸時代から明治時代前期にかけては北前船の廻船業で賑わう船問屋の村であった。今でも南北に通る本町通(外浦街道)や、それに平行して伸びる細い小路に沿って、昔ながらの家屋が建ち並び、往時の廻船集落の姿を今に留めている。




黒島地区の中心、本町の町並み

 黒島の起源は正確には明らかではないが、集落が形成されたのは16世紀前半の事であると考えられており、戦国時代の史料にも既に「黒嶋」という名を確認することができる。16世紀後期、室町時代の末期には番匠屋善右衛門(ばんじょうやぜんえもん)が黒島で始めて廻船業を起こし、加賀一向一揆の兵糧米を運んでいたという。以降、数多くの船問屋が創業し栄えていった。特に森岡屋は總持寺の御用船として使われていた船問屋であった。なお、廻船業が盛んであったとはいえ黒島に北前船を留める港は無く、この集落は船主や船頭、水夫などといった廻船業者が住居する集落として発展したものである。




下見板張りに黒瓦の家屋が密集している

 江戸時代に入った17世紀初頭、黒島集落はかなりの規模に発展していた。17世紀後期の天和4(1684)年には能登国内62ヶ所の集落が幕府の直轄地、いわゆる天領として治められるようになったのだが、黒島地区はその能登天領集落の中で最も規模の大きい集落であり、黒島の廻船業もまた能登外浦で最も発達していた。なお、黒島を始め、日本海沿岸に散在するの廻船集落を支えていたのは北前船である。北前船は北陸など日本海沿岸の各地から関門海峡を経て大阪へと至る航路を行く航路であり、その航路上では船を貸して荷物を運ぶ廻船業の輸送網が発達したのだ。




様式の異なるレトロな建物が町並みのアクセントとなっている

 黒島地区の廻船業は、海運需要の高まった明治時代の前期に最盛期を迎えていた。江戸時代中期には150戸ほどであった黒島の町並みは、明治前期には500戸を超えていたという。しかし明治中期になると全国に鉄道が張り巡らされ、陸上の交通網が著しく発達、運輸の主軸は海上から陸上へと移り変わり、北前船は衰退して廻船業の需要は減少の一途を遂げた。しかしながら廻船業が廃れた後も、黒島の人々は漁業で生計を立て暮らして行き、昭和になると、その船舶技術から外洋船の船乗りとしても活躍していたという。




風情ある迷路のような裏路地

 黒島地区は東西約680m、南北1300mの範囲が重要伝統的建造物群に選定されているが、これは廻船業が最も盛えていた明治時代の町並み全体を包括しており、その範囲には集落に加え、寺社や墓地なども含まれている。黒島地区の町並みは、切妻屋根平入が基本であり、総じて下見板張り(板の下部を少し重ねて張る技法)の板壁に、屋根には表面に釉薬を塗った光沢のある黒瓦が乗っている。表には格子戸が設けられ、玄関は大戸という潜り戸付きの開き戸であり、一階の軒下にはサガリや持ち送りといった装飾が、二階の軒下には袖壁が付いているものも多々ある。




能登半島地震の爪痕は深く、空き地や真新しい板張りの家屋も多々見られる

 黒島地区を初めとした能登半島北部の町並みは、2007年3月に起きた能登半島地震により被災し多大なる痛手を被った。特に地盤の緩い砂地の上に作られた集落である黒島地区は被害が大きく、286軒の家屋のうち98軒が半全壊するという憂き目に遭った。黒島の町並みを歩いていると、更地となってしまった土地や、真新しい板壁の家が多く見られ、その爪痕の深さを思い知る事ができる。かつての有力廻船問屋、角屋の屋敷である角海家住宅もまた震災で被害を受け、解体修理中である。しかしながら、それでも伝統的な工法で復元が行われている町並みを見るに、この黒島の景観を守っていこうという強い意思が感じられる。

2009年11月訪問




【アクセス】

JR北陸本線「金沢駅」より北陸鉄道バス「門前行き」(実質1日1本)で約2時間25分、「黒島バス停」下車すぐ。

【拝観情報】

町並み散策自由(ただし、住民の迷惑にならないように)。

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