日田市豆田町

―日田市豆田町―
ひたしまめだまち
重要伝統的建造物群保存地区 2004年選定 約10.7ヘクタール

大分県日田市


 大分県西部、福岡県との県境近くの盆地に位置する日田は、三隈川(筑後川の上流域)をはじめ、花月川など数多くの河川や水路が複雑に入り組む水郷の町である。また九州北部のほぼ中央に位置することもあり、各地を結ぶ交通の要衝として重視された。中でも豆田町は、江戸時代初期に築かれた城下町を基礎としつつ、寛永16年(1639年)に天領(幕府の直轄地)となってからはさらに人の往来や物流が増し、一大商家町として繁栄を極めることとなった。豆田町には今もなお、南北二本、東西五本の路地から成る整然とした町割が見られ、江戸時代から昭和初期にかけて建てられた多種多様な様式の建築が建ち並ぶ、バラエティ豊かな町並み景観を目にすることができる。




多種多様な様式・意匠の町家が並ぶみゆき通り

 古代から中世にかけて、日田は在地豪族の大蔵氏(地名から日田氏とも称されていた)が支配していた。しかし大蔵氏は嘉吉4年(1444年)に滅亡。大友氏から養子を受け大友氏流日田氏として再興するものの、やはり天文17年(1548年)に滅亡している。以降は大友氏が任命した旧大蔵氏一族の郡老8名により日田の政治が執り行われることとなった。天正20年(1593年)には天下統一を果たした豊臣秀吉の蔵入地(直轄地)となり、代官所として日隈城が築かれている。慶長6年(1601年)には小川光氏(おがわみつうじ)が丸山城を築き、また元和2年(1616年)には石川忠総(いしかわただふさ)が入封するなど大名に統治される時期もあったが、江戸時代のほとんどは幕府の直轄であった。




城下町の名残を見せる、みゆき通りの枡形
突き当りの海鼠壁は、大型商家の草野家住宅(重要文化財)主屋である

 小川光氏が丸山城を築城した際、城下町は城の東側に築かれ丸山町と称した。次いで石川忠総が丸山城を永山城と改名し、城下町を花月川の南岸に移転させて永山町としている。寛永16年(1639年)に日田が天領となり、永山城の麓に日田御役所(陣屋)が置かれると永山町は豆田町と呼ばれるようになり、陣屋膝下の商家町として多大に発展した。特に明和4年(1767年)に日田代官が西国筋郡代へと格上げされると、日田は幕府による九州支配の拠点としてさらに重要な町となる。日田商人たちは近隣諸国や京都、大阪との取引で財を成し、中でも代官・郡代から掛屋に指定された商人は、代官所から預かった公金を西国大名に貸し付け、莫大な利益(「日田金」と称される)を得た。




上町通りの北端に位置する薫長酒造
江戸時代から大正時代にかけての酒蔵が残る

 今に残る豆田町の町割は、享保9年(1724年)以降に代官の増田道脩(ますだどうしゅう)によって改修されたものである。豆田町では明和9年(1772年)、明治13年(1880年)、明治20年(1887年)に大火が起こっており、これらを契機として茅葺の町家から耐火性の高い居蔵造(いぐらづくり、木部を漆喰で塗り篭めた土蔵造の一種)の町家へと改められていった。現在の豆田町の町並みは、江戸時代から大正時代にかけて建てられた居蔵造の町家を中心としながらも、木部を塗り篭めない真壁造の町家、洋風の意匠を取り入れた町家や洋館、昭和初期に建てられた三階建て家屋など、建立年代に応じた多種多様な家屋が建ち並ぶ、実に変化に富んだ景観を見ることができる。




魚町に残る広瀬淡窓旧宅(北家)

 豆田町の魚町には、江戸時代後期に活躍した教育者、広瀬淡窓(ひろせたんそう)の生家が存在する。淡窓は商家博多屋の長男として生まれたが、病気がちであったことから家督を弟に譲り、自身は教育者としての道を選んだ。文化2年(1805年)に淡窓が開いた咸宜園(かんぎえん)は、身分や性別を問わず生徒を受け入れる私塾である。咸宜園は淡窓の死後も明治30年(1897年)まで存続し、約80年の間に入門者は延べ4800人にも及ぶという、日本最大級の私塾であった。淡窓の旧宅は魚町の通りを挟んだ北家と南家が存在し、現在は廣瀬資料として一般に公開されている。またこれらの旧家は、淡窓の墓所である長生園と共に「広瀬淡窓旧宅と墓」として国の史跡にも指定されている。




近世の真宗仏堂の中でも古風な特徴を見せる長福寺本堂(重要文化財)

 上町通りの中程には、浄土真宗の仏教寺院である長福寺が存在する。長福寺は天正12年(1548年)に開山したと伝わり、日田の町並み形成期にあたる寛永14年(1637年)に現在地へと移転した。寛文9年(1669年)に建てられた本堂は、九州における数少ない17世紀まで遡る真宗仏堂として貴重とされる。その建築様式は京都の本願寺旧本堂(現在の西山別院本堂)と類似しており、江戸時代前期から後期へと至る平面構造と装飾の変遷がよく分かるものとしても全国的に貴重であり、国の重要文化財に指定されている。広瀬淡窓の自伝である「懐旧楼筆記」によると、淡窓は幼少の頃より長福寺で学び、24歳になった文化2年(1805年)、長福寺の学寮を借りて初めての私塾を開いたという。

2014年09月訪問




【アクセス】

JR久大本線「日田駅」から徒歩約20分。

【拝観情報】

町並み散策自由(ただし、住民の迷惑にならないように)。

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