菅浦の湖岸集落景観

―菅浦の湖岸集落景観―
すがうらのこがんしゅうらくけいかん

滋賀県長浜市
重要文化的景観 2014年選定


 琵琶湖最北端に突き出た葛籠尾崎。その先端近く、急峻な地形の僅かな土地に存在するのが菅浦集落だ。中世の荘園をルーツに持つ菅浦には、鎌倉時代から江戸時代にかけての集落の動向を記した「菅浦文書(重要文化財)」が伝わっており、中世から近代にかけての集落構造や共同体のあり方が明らかになった稀有の存在である。中世荘園における自治形態「惣(そう)」に基づく自治意識が根強く継承されているのも特徴で、路地などの集落構造も当時より大きくは変化していない。また狭隘な土地に適応して築かれた生活空間、生業の場である琵琶湖や山林など、中世の頃より育まれてきた集落景観が良好に残ることから、重要文化的景観に選定された。




菅浦では主屋を敷地奥に建て、前庭に附属屋を配すのが一般的だ
かつては茅葺が主だったが、昭和40年代頃より桟瓦葺へ移行した

 土地の狭い菅浦は、古代から中世にかけては漁業と舟運の村であり、万葉集にも湖上交通の湊としてその名が詠まれている。平安時代には大浦荘が立荘し、菅浦もまたその一部とされた。鎌倉時代に入ると大浦荘から分離し、菅浦荘として竹生島(現在の宝厳寺および都久夫須麻神社)の領土となる。永仁3年(1295年)には、大浦荘との境に位置する日指(ひさし)と諸河(もろこ)の田畑を巡って両村が対立。この争いは寛正2年(1461年)、湯起請によって菅浦荘が敗訴し、大浦荘の領主であった日野勝光(ひのかつみつ)の家臣、松平益親(まつだいらますちか)によって攻め込まれるまで続いた。その間に菅浦の人々は団結を強め、外部支配に屈しない自治組織を作り上げたという。




菅浦集落の境界を示す「四足(しそく)門」の一つ、「西門」

 菅浦村は中世の頃より西村と東村に分かれており、近世に入ってからも代官や村方三役といった役人はそれぞれの村から一名ずつ選任されていた。またそれら領主が設定する役人の他、村の政治に大きな影響力を持つ中老(忠老)衆が各村に同数存在していたといい、これは中世惣村における宿老の名残りと考えられている。なお、菅浦村の西端と東端には、それぞれ「四足門」と呼ばれる薬医門が構えられている。これらの門は「四方門」とも呼ばれ、かつてはさらに北側二箇所にも門を設けて村の境界としていた。家の戸数は1000年に渡りずっと100戸前後と一定であるが、これは、昔から跡取り以外は他の土地に移る、土地の売買は村内だけ、という決まりを守ってきた為だという。




波除けの石垣が連なる「ハマミチ」の光景

 菅浦集落の主要路地は、集落の内陸部をL字状に通る「キタデの道」、および湖岸に沿いの「ハマミチ」の二本である。これらの路地は中世後期には既に存在しており、当時より大きく変わることなく町割が今に残されている。このうち「ハマミチ」では浜側に石垣を築き、また陸側の宅地にも石垣を設けて波風除けとしている。敷地の入口部分は石垣が開いているが、浜側石垣の階段と位置をずらしたり、板を落とす為の溝が切られていたりするなど、水害を防ぐ工夫が見られる。なお、集落背後の山麓には数多くの寺院が並んでいる。特に西村の長福寺(現在は跡地に五輪塔が残るのみ)と東村の阿弥陀寺(現存)は、各村の「道場」として集落の中心的役割を担っていたという。




浜辺には「ウマ」と呼ばれる共同の洗い場が残る

 菅浦における生業は、常に時代と共に変化してきた。江戸時代には田畑の耕作や山仕事、種から桐油を絞るアブラギリの栽培など陸仕事が増えている。菜種油が主流となった江戸時代後期には代わりに養蚕や煙草の栽培を行うようになり、また明治時代には柑橘類や梅などの栽培も始められた。昭和30年代以降はヤンマーの家庭工場が設けられ、現在も10件の工場でエンジンの部品などが製造されている。昭和54年には漁港が建設され、集落の東西に存在した舟溜まりも埋め立てられた。大きく環境が変化した中においても、エリ漁やオイサデ漁といった伝統漁業は続けられており、また湖岸にはウマと呼ばれる洗い場が残るなど、昔から続いてきた生活の様子をうかがうことができる。




淳仁(じゅんにん)天皇が祀られている須賀神社
手水舎より先は土足禁止である

 集落の北側には、須賀神社が鎮座する。かつては保良神社といったが、明治43年(1910年)に小林神社と赤崎神社を合祀し、今の名に改められた。祭神は淳仁天皇であり、祀られている神像も淳仁天皇が彫ったものとされる。淳仁天皇は天武天皇の皇子である舎人親王の第七子にあたり、天平宝字2年(758年)に藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)の推薦により孝謙天皇から譲位を受け即位した。しかし、天平宝字8年(764年)に仲麻呂の乱が勃発すると、仲麻呂と関係が深かった淳仁天皇は皇位を剥奪され淡路島に流さたとされる。ところが菅浦では、淳仁天皇は菅浦に流されたと伝わっており、須賀神社の背後には淳仁天皇の墓所とされる船型御陵が残っている。

2014年05月訪問




【アクセス】

JR湖西線「永原駅」よりで近江鉄道バス「菅浦線」で約20分、またはJR北陸本線「木ノ本駅」よりで近江鉄道バス「菅浦線」で約50分、「菅浦バス停」下車すぐ。

【拝観情報】

散策自由(ただし、住民の迷惑にならないように)。

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