大溝の水辺景観

―大溝の水辺景観―
おおみぞのみずべけいかん

滋賀県高島市
重要文化的景観 2015年選定


 琵琶湖の北西岸、高島市の南端に位置する大溝地区。古代より京都と北陸を結んできた西近江路が通っており、また琵琶湖水運の主要湊であった勝野津(かつのつ)にも比定されている交通の要衝である。戦国時代から江戸時代にかけては内湖(ないこ、琵琶湖の周囲に散在する湖沼)を利用した大溝城が築かれており、かつての武家町や町人地、旧街道沿いでは今もなお当時の町割が継承されている。また城下町時代に整備された「古式上水道」と呼ばれる給水システムが現役で使用されているなど、琵琶湖と内湖、および山麓の湧き水を巧みに用いて生活を営んできた、大溝ならではの特徴ある水辺景観を目にすることができる。




大溝城跡に残る天守台
現在は陸地にあるが、築城当時は内湖によって囲まれた水城であった

 戦国時代、高島郡の一帯は織田信長に降伏して家臣となった磯野員昌(いそのかずまさ)が治めていたが、天正6年(1578年)に信長の意に背いたことで叱責を受けて出奔。信長は磯野家の養子に出していた甥の織田信澄(おだのぶずみ)に高島郡を与え、大溝城を築かせて大溝城主とした。しかし天正10年(1582年)に本能寺の変が勃発すると、信澄は明智光秀の娘を正室としていたことから共謀の嫌疑がかけられる。結局、四国遠征の為に大坂城に滞在していた所を丹羽長秀(にわながまさ)に攻め込まれ、信澄は自害した。以降は様々な武将が大溝城主となり、元和5年(1619年)には大坂夏の陣で功績を挙げた分部光信(わけべみつのぶ)が入封したものの、一国一城令により大溝城は廃城となった。




三の丸への正門であった「総門」
唯一現存する大溝城の建造物として貴重である

 琵琶湖の東岸に安土城を築いた信長は、琵琶湖沿岸に数多くの城を築いて防御を固めた。安土城の対岸に位置する大溝港は特に重要視され、大溝城は港を守るように築かれている。縄張りの設計は築城に秀でた明智光秀が手がけたと伝わっており、内湖を天然の濠として利用した水城となっている。廃城後は武家町である三の丸以外はすべて棄却されたが、分部氏は三の丸に陣屋を築き、大溝の町は江戸時代を通じて高島郡の政治拠点として栄えていった。かつて三の丸の周囲には石垣と土塁が巡らされ、本丸へと通じる東以外の三方に門を設けて人の出入りを管理していた。中でも北の町人地に面した「総門」は三の丸の正門であったと考えられており、近年まで民家の長屋門として利用されていた。




大溝城本丸の南に広がる内湖「乙女ヶ池(旧名は洞海)」

 大溝城の濠として利用された内湖は古代より「香取の海」という名で知られており、『万葉集』にも歌枕として詠まれている。また奈良時代の天平宝字8年(764年)に勃発した「藤原仲麻呂(恵美押勝、えみのおしかつ)の乱」において、敗北した仲麻呂が捕らえられて処刑された「勝野の鬼江」はこの内湖ではないかとも考えられている。その後は洞海(どうかい)と称されていたが、昭和初期に淡水真珠の養殖場として利用された頃に「乙女ヶ池」と呼ばれるようになったという。内湖の西側には石積の棚田が広がっており、そこから流れ込む栄養豊富な農業用水によってマツモやマコモといった水生植物が生育しており、畑の肥料や家畜の餌として利用されてきた。




打下集落の琵琶湖側に部分的に残る、波風から集落を守る為の石垣
現在は国道の埋め立てにより浜が消滅し、景観が大きく変わっている

 内湖と琵琶湖の間には南北に細長い砂州が堆積しており、そこには打下(うちおろし)という集落が存在する。これは大溝城を築城する際に開かれた集落であり、平時には舟運や漁労に携わり、戦時には水軍に転換する集団が配置されていた。幅の狭い砂州という特殊な環境にあるだけに、打下集落では極めて独特な生活が営まれてきた。琵琶湖側には波風から集落を守るための石垣が築かれ、浜には「ハシ」と呼ばれる桟橋を掛けて食器や野菜などの洗い場としていた。波風の影響を受けない内湖側には舟を係留し、また内湖は栄養豊富で濁りが多いことから農具など汚れのあるものの洗い場とするなど、用途に応じて水の綺麗な琵琶湖側の洗い場と使い分けていた。




古式水道の分水施設である「タチアガリ」

 大溝は地下水に鉄分が多くて飲料に適さず、井戸を掘るのが困難な環境にある。そこで浄水を確保するため、日吉山水道組合および勝野井戸組合という二系統の上水道が整えられた。そのうち日吉山水道組合では、背後に聳える日吉山の湧き水を集落に引き入れている。水源からは竹筒を継いだ管(現在は塩化ビニールパイプ)によって導水し、所々に逆サイフォンの原理を用いた「タチアガリ(立ち上がり)」と呼ばれる分水槽を配して各家に水を配水する仕組みだ。現在これらの給水システムは古式水道と称され、飲み水として利用されることはなくなったものの、庭木の水などとして利用されている。また通りの中央には水路が通されており、こちらもまた生活用水や防火用水として利用されてきた歴史を持つ。

2017年05月訪問




【アクセス】

JR湖西線「近江高島駅」下車すぐ。

【拝観情報】

散策自由(ただし、住民の迷惑にならないように)。

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