多賀城跡 附 寺跡

―多賀城跡 附 寺跡―
たがじょうあと つけたり てらあと

宮城県多賀城市
特別史跡 1966年指定


 多賀城跡はかつて陸奥国の国府が置かれていた跡である。それは奈良時代の神亀元年(724年)、大野東人が創建したとされ、その後10世紀ごろまで存続していた。中央から国司(長官)を始め数多くの役人が派遣され、政務を執り地方を治めていた。また、多賀城には軍政を司る鎮守府も置かれ、蝦夷(えみし)と呼ばれる原住民制圧の軍事拠点としても機能していた。




国府の中心に位置する政庁跡

 多賀城跡は一辺約900mのいびつな四角形をしており、周囲は築地塀によって囲まれていた。その中心には、これまた周囲を築地塀に囲まれた約100m四方の政庁があり、重要な政務や儀式が執り行われていたという。なお、政庁は四時期の変遷があったことが発掘調査により明らかになっており、それぞれの時代で建物の配置が異なっていた。政庁からは最大28mもの幅を持つ南北大路が南に真っ直ぐ伸びており、南門を経て多賀城外へ続いていた。




国府多賀城駅前の館前遺跡

 多賀城跡からは政庁の他、役所、工房、兵舎などの跡が発見されている。また、多賀城の外からも国府に関係する数多くの遺構が発見され、多賀城跡が特別史跡に指定された後もたびたび指定エリアが拡大された。1980年には上級役人の館跡と見られる館前遺跡が、1990年には多賀城直営の製鉄所跡である柏木遺跡が、1993年には陸奥の長官、国守の邸宅跡とみられる山王遺跡千刈田地区がそれぞれ追加指定を受けた。




多賀城廃寺講堂跡

 多賀城跡より南東約1kmの地点には、多賀城の附けたり指定を受けている廃寺跡がある。この廃寺跡は正確な名前は判明していないものの、多賀城と密接な関係を持っていたとされ、陸奥国分寺の役割を担っていたと考えられている。また、1983年には山王遺跡から出土した墨書土器に「観音寺」という文字が書かれていたことから、この廃寺の名前が観音寺であった可能性が指摘されている。




大畑地区、平安時代の東門跡

 多賀城を代表する史料として多賀城碑がある。江戸時代に発見されたこの碑は「壷碑(つぼのいしぶみ)」とも呼ばれ、群馬県の多胡碑、栃木県の那須国造碑と共に、日本三碑の一つにも数えられている。碑には多賀城が神亀元年(724年)に大野東人によって創建されたこと、その後天平宝字6年(762年)に藤原恵美朝臣朝狩によって改修されたことが記されている。




南門跡付近の覆屋に納められている重要文化財、多賀城碑

 以下が多賀城碑の全文である。

  多賀城
    京去一千五百里
    蝦夷国界去一百二十里
    常陸国界去四百十二里
    下野国界去二百七十四里
    靺鞨国界去三千里

西 此城神亀元年歳次甲子按察使兼鎮守将
  軍従四位下勲四等大野朝臣東人之所置
  也天平寶字六年歳次壬寅参議東海東山
  節度使従四位上仁部省卿兼按察使鎮守
  将軍藤原恵美朝臣朝狩修造也。
       天平寶字六年十二月一日

明治時代以降、この多賀城碑は偽造であるとの説が有力であったが、近年の調査によって本物と証明され、1998年には重要文化財に指定された。

2007年10月訪問




【アクセス】

JR東北本線「国府多賀城駅」から徒歩約10分。

【拝観情報】

拝観自由。

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