大坂城跡

―大坂城跡―
おおさかじょうあと

大阪府大阪市
特別史跡 1953年指定


 大坂城は大阪市内を南北に伸びる上町台地の北端に建つ平城(平地に築かれた城)である。石山本願寺が置かれていたその跡地に豊臣秀吉が築城し、安土桃山時代には豊臣家の本城として(豊臣期)、江戸時代には西日本統治の拠点として機能していた(徳川期)。豊臣期の大坂城は金をふんだんに用いた天守をはじめ豪華絢爛な城であったため、それゆえ金城や錦城などという別名でも呼ばれている。




大手門および多聞櫓

 室町時代、一向宗(浄土真宗)の本山として信仰を集めていた石山本願寺は、まるで城のように濠や石垣を築き、周囲に寺内町を形成して力を強めていった。寺院周囲は台地の縁の坂沿いであったことから大坂と呼ばれるようになり、それが大坂(大阪)という地名の元になったという。一大勢力となった石山本願寺は仏教を弾圧してきた織田信長を攻撃するが、逆に追い詰められ最終的には寺を焼かれてしまう。




本丸を囲う内濠の様子
建設当時より内濠の南側は空堀となっている

 その後の天正11(1583)年、明智光秀を破った豊臣秀吉は石山本願寺の跡地に大坂城の築城を開始する。秀吉は本丸だけでも一年半の月日を費やし、没するまでの15年の間、二の丸、三の丸、惣構えを整え、壮大な石垣と三重の濠を持つ城を築き上げた。しかし秀吉が死去した後、大坂城は徳川家康により攻め込まれ、ついに慶長20(1615)年の大坂夏の陣により大坂城は落城、豊臣家は滅亡する。




火薬を保管していた焔硝蔵
石造りの火薬庫は極めて珍しく現存唯一のものである

 大坂城を手にした家康は、10年二代に渡って大坂城を大々的に作り直した。豊臣期の城郭遺構は土を盛って埋め隠し、その上に新たに石垣を積み上げ豊臣色の無い城を築き上げた。ゆえに現在見られる縄張りはすべて徳川期のものであり、豊臣期のものは地下に埋められた石垣などわずかしか残っていない。また、その後も戊辰戦争や第二次世界大戦で多くの建物を焼失し、大坂城は今に至る。




大坂城は石垣に多くの巨石が用いられている
その中でも最も大きいのがこの写真奥の蛸石

 大坂城は天守もまた時代によって姿形を変えてきた。豊臣期の天守は5重8階の望楼型。黒漆喰の壁に黒漆塗りの下見板が張られ、瓦や金具には金があしらわれた桃山様式の豪華なものであった。徳川期は江戸城天守に似た5重5階の層塔型であり、豊臣期とは対照的に白漆喰の塗籠壁であったという。なお、徳川期の天守は1665年に落雷によって焼失し、それ以降天守は再建されないまま幕末を迎えた。




昭和6年に復興された大坂城天守

 現在大坂城に見られる天守は昭和6年に建てられた復興天守である。当時の大阪市長の呼びかけに始まり、建設費用はすべて市民からの寄付でまかなわれた。建物は徳川期の天守台の上に鉄筋コンクリートで建っており、外観は豊臣期の天守絵図をベースにしているが、壁は最上層を除いて白漆喰となっている。1997 年には国の登録有形文化財にも指定され、現在もなお大阪のシンボルとして市民に愛され続けている。

2008年06月訪問




【アクセス】

JR大阪環状線「森ノ宮駅」または「大阪城公園駅」から徒歩約5分。
大阪市営地下鉄「谷町四丁目駅」から徒歩約15分。
京阪電気鉄道「天満橋駅」から徒歩約15分。

【拝観情報】

拝観自由。
天守内部は拝観料600円、拝観時間9時〜17時(入館は16時30分まで)。

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